これまでの説教から

2019年10月13日

エレミヤ書 10:1-16 使徒言行録 19:21-40

「偶像とまことの神」   伝道師 永瀨克彦

 エフェソでただならぬ騒動が起こった。それは「この道のことで」起こった騒動であると書かれている。「この道」とは主イエスに従う道である。主イエスを信じる者は、皆、主に従う同じ道を進む者とされているのである。しかし、騒動を起こした人々はそうではなかった。彼らは一見アルテミスに従う同じ道を歩んでいるように見える。しかし、そうではない。

 銀細工職人たちは、アルテミス神殿の模型を販売し、かなりの利益を得ていた。なので、「手で造ったものは神ではない」と語るパウロが邪魔であった。デメトリオは、「これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまう」と述べ、その後に、「女神の御威光さえも失われてしまうだろう」と続けた。彼は一応アルテミスの威厳のために立ち上がったように装っているが、それはやはり口実であり、本当に心配しているのは仕事のことである。それは集まった暴徒たちが「何のために集まったのかさえ分からなかった」ことから明らかである。デメトリオも、その他の者も皆、アルテミスのためではなく、それぞれの目的のために集まっている。それは、群衆の数と同じだけ存在する別々の道である。

 主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)と言われた。わたしたちは、自分を捨て、主イエスの道を進む者とされた。わたしたちは、同じ道を歩み、救われた喜びを共にし、伝える群れとされている。

2019年10月6日

イザヤ書 43:8-15 使徒言行録 19:11-20

「主の名をあがめる」   伝道師 永瀨克彦

 エフェソで、神はパウロの手を通して奇跡を行われた。パウロが手ぬぐいを病人に当てると、病気は癒され、悪霊は出て行った。ユダヤの祈祷師たちはこれを見て、神を自分たちに従わせようとする。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言って、彼らは悪霊を追い出そうとした。試しに主イエスの名を使ってみて、利用できるようなら、自分たちの地位を一層高められると考えたのである。しかし、パウロは主の名を使う者ではなく、主に仕える者である。祈祷師たちは根本的なところで思い違いをしているのである。

 結局、悪霊は「イエスのことは知っている」「だが、いったいお前たちは何者だ」と言って彼らを酷い目に遭わせた。悪霊の方がかえって主イエスを知っている。悪霊は主イエスを恐れているからである。

 この出来事が広まり、人々は主イエスの名をあがめるようになった。御名を軽々しく使うのではなくあがめるようになったのである。そして、魔術を行っていた祈祷師たちは、持っていた本を皆の前で焼き捨てた。それは銀貨五万枚に値する量であった。当時の書物は手書きの写本であったので非常に高価だった。それを彼らはためらわずに焼いた。それはもう必要ないからである。主の名をあがめ、主に仕える者となるとき、わたしたちには、高価な書物の山もかすんで見えるほどの大きな喜びが与えられているのである。

2019年9月29日

詩編 51:1-19 使徒言行録 18:18-19:10
「聖霊を受ける」   伝道師 永瀨克彦
 アポロという雄弁家がエフェソに来た。彼は主イエスについて熱心に語っていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。そこで、パウロと共にエフェソに来て、その後も滞在していたプリスキラとアキラは、アポロを招待し、もっと正確に神の道を説明した。
 しばらくして、第三回伝道旅行に出たパウロは、再びエフェソを訪れた。そこでパウロは何人かに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えた。彼らもやはりヨハネの洗礼しか知らなかったのである。そこでパウロは、主イエスの名によって洗礼を授けた。
 ヨハネの洗礼は主イエスの名による洗礼に備えるための、悔い改めの洗礼である。それは良い備えであるが、あくまで準備であって目的ではない。
 ここで、人々は洗礼を二回受けている。しかし、わたしたちは二度洗礼を受けなければならないのではない。大切なのは誰の名によって洗礼を受けるかである。わたしたちは主イエスの名によって洗礼を受けるならばそれで十分なのである。
 主イエスが十字架と復活によって成し遂げてくださった救いを受け入れ、自分のものにする、ただ一度の主イエスの名による洗礼を受けるならば、わたしたちは、二度と救われる以前の状態に戻ることはない。わたしたちは永遠に、赦されたものとして神のみもとに憩うことができる。だから、わたしたちは再び不安に陥る必要は何もないのである。

2019年9月22日

創世記 28:10-22 使徒言行録 18:1-17

「わたしがあなたと共にいる」   伝道師 永瀨克彦

 パウロは、コリントでアキラとプリスキラという夫婦に出会った。パウロは二人と職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで一緒に仕事をした。その仕事はテント職人であった。

 それはコリントの教会に負担をかけないようにというパウロの配慮であった。パウロは御言葉を語り働いたが、その報酬は受け取らなかった。シラスとテモテが合流してからは、彼らから必要なものを受け取り、コリント教会からは受けなかった。アンティオキア教会から派遣されたパウロが生まれて間もないコリント教会を支える。そして成長したコリント教会は後にエルサレム教会を支えることになる(Ⅱコリント9章)。教会は互いに仕え合う者の群れである。

 パウロが主イエスを証ししていると、ユダヤ人たちは反抗し、パウロをののしった。パウロは「わたしは異邦人の方へ行く」と言ってそこを去った。しかし、パウロはユダヤ人を見限ったわけではなく、ユダヤの会堂の隣で異邦人に向けて伝道をし続けた。その結果、会堂長クリスポの家族が信仰に入った。

 パウロ自身ユダヤ人であり、これまでユダヤの会堂を優先して伝道をしてきた。ユダヤ人たちとの対立はパウロにとって挫折であり、悲しみであったに違いない。しかし、神は「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」と言われる。この言葉があるから、パウロは1年6か月そこで働くことができた。いつまた暴動が起こるかもしれない状況でも、パウロは雄々しく語り続けることができたのである。共にいると約束してくださり、その約束を必ず果たしてくださる神に信頼し、わたしたちは伝道することができるのである。

2019年9月15日

詩編 50:1-7 使徒言行録 17:16-34

「主の復活による確証」    伝道師 永瀨克彦

 パウロはアテネでいたるところに偶像があるのを見て憤慨した。そこでパウロは広場に出て、あらゆる人々と議論をした。パウロは憤慨した後、軽蔑して拒絶するのではなく、真の神を伝えようとした。人々は真の神を知らないが、何かをあがめたいという思いを持っている。それは彼らが「知られざる神に」と書かれた祭壇まで造っていたことから分かる。人々は主を求めている。だからパウロは主を伝えるために必死に働く。

 神は人が造った像の中に住まわれる方ではない。そうではなく、わたしたちをお造りになったのが神である。この創造主をアテネの人々は知らなかった。

 「神を探し求めさえすれば、神を見出すことができる」とパウロはいう。それは、自然を観察すれば神にたどり着くということではない。そうではなく、探し求める者に神はご自身を啓示してくださるのである。

 神は主イエス・キリストを復活させてくださった。そのことによって、最後に正しく裁いてくださるのは主イエスであるという確証が与えられている。わたしたちは主イエスによってもはや罪に定められることはないのである。  

復活は自然の法則に反することである。自然を、またわたしたちの常識を超えることを神は行い示してくださる。そのことによってわたしたちは神を知ることができる。アテネの教養ある人々でさえ、有り余る時間を使って自然を観察しても神を知らずにいた。しかし、神が介入し、御言葉を与えてくださる。わたしたちはご自身を現し、信仰を与えてくださる神に感謝して、その御言葉を受け入れたいのである。

2019年9月8日

イザヤ書 53:1-12 使徒言行録 17:1-15
「御言葉の実現」 伝道師 永瀨克彦
 パウロとシラスはテサロニケに着いたとき、いつものようにユダヤ人の会堂に入っていった。異邦人への伝道が本格的になされるようになった後も、イスラエルにはまっさきに主に立ち返ることが期待されている。
 パウロは旧約から引用して三回の安息日にわたって主イエスこそメシアであることを論じた。信仰をもって旧約を読むならば、そこに予言されている方が主イエスであることは明らかである。
 そこで多くの人が信じたが、ユダヤ人たちは嫉妬をし、暴動を起こした。パウロとシラスはベレアへと向かった。そこのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこでまた、多くの人が信じた。
 彼らは、聖書を調べた結果そのとおりだったから信じたのではない。そうではなく、御言葉を熱心に受け入れたのが先である。わたしたちは神から御言葉をいただく。そして聖霊の働きによってそれを受け入れさせていただく。まず神から信仰を与えられる。それは神からの一方的な恵みである。それに対して、聖書を学ぶというわたしたちの応答がある。
 ただ聖書を学ぶだけでは、いくら調べても預言されているメシアが主イエスであることは分からない。しかし、信仰をもって読むとき、学べば学ぶほどそれは明らかとなる。わたしたちには、信仰をもって聖書を学び、また調べ、主イエスによる救いの恵みをいっそう深く味わうことが許されている。

2019年9月1日

詩編 114:1-8 使徒言行録 16:11-34

「牢からの解放」    伝道師 永瀨克彦

 フィリピでリディアという女性が洗礼を受けた。彼女は紫布の商人であった。その財産を自由に用い、パウロたちをもてなし、また、教会の指導者として成長していった。彼女は、社会の風習から自由であった。女性の活躍が制限されるような時代でも、キリスト者はそこから解放され、自らの賜物、持ち物を神のために自由に用いるとができるのである。

 パウロはフィリピで投獄されてしまった。女奴隷に取りついていた占いの霊を主イエスの名によって追い出し、金もうけの手段を失った主人に訴えられたからである。

 真夜中、パウロは賛美の歌を歌っていた。パウロは傍から見ればはなはだ不自由である。しかし、パウロは獄中にありながら、主イエスによって自由とされた者として感謝を捧げているのである。

 そのとき大地震が起こり、牢の戸は皆開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。看守は囚人が逃げたと思い込み、自害しようとした。パウロは「自害してはならない。わたしたちは皆ここにいる」と叫んだ。震えながらひれ伏し「救われるためにはどうすべきでしょうか」と聞く看守に、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」と答えた。

 一見、自由なのは女奴隷の主人であり、看守である。しかし、真に自由とされているのはリディアであり、女奴隷であり、(獄中にいたとしても)パウロなのである。自由とされるために必要なことは、ただ主イエスを信じることであるとパウロは答える。主イエスはわたしたちを罪から解放してくださった。わたしたちは贖われ、神のもとに取り戻された。「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8:32)」。わたしたちは牢から解き放たれた者である。

2019年8月25日

出エジプト13:17-22 使徒言行録15:36-16:10

「主が示される道」  伝道師 永瀨克彦

 ここから第二回宣教旅行が始まる。この旅行によって福音がギリシアへともたらされた。福音がヨーロッパ、そして世界へと広まっていくきっかけとなった。大きな成果をパウロたちは得たのである。しかし、その旅路はパウロの思い通りに進むものではなかった。初めに、マルコ=ヨハネを連れて行くかどうかでバルナバと対立し、別行動を取ることになった。そのことでキプロス島まわりではなく、陸路で諸教会を問安することになった。

 デルベでは、旅に同行する者としてテモテが与えられた。パウロの計画通りに進まないこの旅は、神が計画され、祝福しておられるものである。

 パウロはアジア州を通ってアンティオキアへ帰るつもりであったのだろう。いずれにせよ、問安がこの旅の当初の目的であった。しかし、その道を閉ざされ、さらにビティニア州に入ることも許されなかった。こうしてパウロはトロアスに導かれた。そこでパウロは、「海を渡って来て、わたしたちを助けてください」というマケドニア人の幻を見た。

 神がマケドニア人を救うため、パウロを港町であるトロアスまで導かれたのである。そして、「渡って来て助けてください」というのは、マケドニア人だけの訴えではないだろう。神は助けを求めて叫ぶ声に必ず応えてくださる。そのために、パウロの計画を何度も妨げたように、何としてでも助け手を送ってくださる。そして御言葉を与えてくださるのである。

2019年8月18日

創世記 17:1-11 使徒言行録 15:1-21

「信仰によって」  伝道師 永瀨克彦

 エルサレムにおいて、異邦人キリスト者にも割礼を受けされるべきか否かが話し合われた。いわゆるエルサレム会議である。

 議論を重ねた後、ペトロは立って、異邦人にも聖霊が与えられたことを改めて述べた。異邦人は割礼を受けたから聖霊を得たのではない。そうではなく、割礼の有無にかかわらず、信仰によって神は彼らを清められたのである。そして「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」とペトロは語った。救いは自らの行為によって至るものではなく、主イエスの恵みによって与えられるものである。

 割礼は救いの手段ではなく、救いを覚えるために受けるものである。創世記17章にあるとおり、アブラハムは信仰によって義と認められ、その後に割礼を受けたのである。

 しかし、一部のユダヤ人たちは、いつしか割礼を手段のように考えるようになった。そう誤解するとき、人間は、救いに値する行為をした自分を誇ってしまう。救ってくださった神を忘れてしまうのである。そのように、自分のする善い行いに頼りたくなる誘惑はわたしたちにもある。

 一方で、自分の行いに失望することもある。善い行いをすることができないばかりか、明らかに悪行を重ねてしまうこともある。そのようなとき、なぜ自分のようなものが救ってなどもらえるだろうかと思う。

 行いにこだわるならば、救いに至ることなどできるはずもない。しかし、神はわたしたちの罪にもかかわらず、ただ恵みによって主イエスを与え、罪から贖ってくださったのである。わたしたちは信仰によってその救いを受け入れ、義とされるのである。

2019年8月11日

創世記 45:8 使徒言行録 14:2128

「信仰に踏みとどまる」     伝道師 永瀨克彦

 パウロとバルナバは、第一回伝道旅行の最後の目的地デルベで福音を宣べ伝えた後、まっすぐアンティオキアへ帰るのではなく、これまで伝道した町をもう一度訪れ、それぞれの教会の様子を見ながら帰って行った。

 パウロたちは各地で「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って弟子たちを力づけた。彼らは楽観的なことだけを語るのではない。キリストを信じたからには何も苦しみはない。人生バラ色だとは言わないのである。

 しかし、それが確かに励ましになっている。信徒たちは力を受けている。それは、彼らが今受けている苦しみが意味のないものではないと分かったからである。彼らは迫害を受けている。社会からの拒絶を味わっている。しかし、それは、主イエスの名が宣べ伝えられているからこそ生じる苦しみである。彼らが苦しむとき、同時に福音が広まっている。その苦しみは意味のないものなどではなく、経なくてはならない苦しみなのである。

 パウロも後に獄中書簡であるフィリピの信徒への手紙の中で、「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と語っている。伝道者が苦しむとき、キリストが告げ知らされているのである。

 社会が拒絶をし、キリスト者が苦しむのは、福音が変化を求めるものだからである。自らの罪を知り悔い改めることは簡単ではない。それは拒否反応を招く知らせなのである。しかし、だからと言って伝える内容を変えるべきではない。それが「信仰に踏みとどまりなさい」ということの意味である。神は独り子を十字架につけた人間の罪を赦してくださった。そのことを知り、神に立ち返る、悔い改めて神の前に新しく生きる信仰を教会は伝えていくのである。