2019年8月4日
申命記 4:25–31 使徒言行録 14:1–20
「天地万物の創造主」 伝道師 永瀨克彦
リストラで、パウロが説教するのを一人の足の不自由な男性が聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で叫んだ。すると、その人は躍り上がって歩きだした。
ふさわしい信仰とは、聖書についてよく知っているとか、清く正しい生活を送っているということではない。そうではなく、主イエス・キリストを救い主として信じるという、ただそのことである。彼は足が不自由であるために、主イエスの救いにより頼み、受け入れたいと願っている。完全な人はいないが、人間はしばしばそのことを忘れ、自分の力に頼ろうとする。しかし、この人は主イエスに頼ろうとしている。わたしたちも、欠けがあるゆえに、主イエスにより頼む者でありたい。それがふさわしい信仰である。
この癒しの出来事を見ていた人々は、バルナバを「ゼウス」パウロを「ヘルメス」と呼んで崇拝し、牛数頭と花輪を運んできて、二人に捧げようとした。それを聞いた二人は激怒し、衣を裂いて叫んだ。自分たちは神ではない、偶像から離れて、まことの生ける神、天と地のすべてを造られた神に立ち返れ、と彼らは説教した。
まことの神は、天地万物の創造主である。つまり、イスラエルではないリストラの人々も、この神に造られ、生かされてきたのである。パウロが訪れ、人々が神を知るよりも前から、神は彼らに雨を降らせ、彼らを養っておられた。だから、牛はパウロに捧げるのではなく神に返すべきである。
わたしたちは、すべての人を造り、養っておられる神を、すべての人が知るようになるために遣わされているのである。
2019年7月28日
イザヤ書 55:1–5 使徒言行録 13:42–52
「あなたたちに与える」 伝道師 永瀨克彦
ピシディア州のアンティオキアでパウロは説教をする。その説教は、神がアブラハムを選ばれた出来事から振り返る、長いものである。神は突如思い立ち、主イエスを送られたのではない。主イエスが来てくださったことは、神の長い計画と約束の実現なのである。神はアブラハムを選び出してからイスラエルを決して見捨てることなく導き続けられた。荒野の四十年では、民は神に歯向かい、偶像を拝んだが、神は耐え忍ばれた。ダビデの時代には、神はダビデの子孫から救い主を起こすと約束された。神はこの長大な計画を実行してくださる。
にもかかわらず、当のイスラエルは、せっかく神が送ってくださった救い主を十字架につけて殺してしまう。だが、神はこの人間の背きさえ救いへと変えてくださったのである。神は主イエスを復活させてくださった。「その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています」(31節)。このとき、まだ復活の主イエスと直接会い、言葉を交わした人が大勢生きていた。人々はそうした人々からの証言を聞き、主イエスの復活をありありと思い浮かべ、信じた。わたしたちもこの証言を聞いている。わたしたちもまた、主イエスの復活を現実の出来事として信じる。復活を信じるからこそ、御子を十字架につけてしまった人間をも赦された神のいつくしみをわたしたちは信じるのである。
荒れ野で背き、預言者たちを殺し、神の子を殺した人間を、神は救ってくださる。この歴史を見るとき、「あなたたちに与える」と約束された救いを、神は必ず与えてくださるということが分かるのである。
2019年7月21日
列王記上18:20–24 使徒言行録13:1–12
「主のまっすぐな道」 伝道師 永瀨克彦
聖霊は、「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事にあたらせるために」とお語りになる。ここから始まるパウロの第一回伝道旅行は、神が計画されたものである。
パウロとバルナバがまず向かったのは、バルナバの出身地であるキプロス島であった。彼らはそこでバルイエスという魔術師に会った。バルイエスはローマの地方総督パウルスと交流があった。あるとき、パウルスがパウロとバルナバを呼び、御言葉を聞こうとした。しかし、バルイエスは二人に対抗してパウルスを信仰から遠ざけようとした。バルイエスはパウルスの目を神ではなく自分に向けようとしたのである。
妨害するバルイエスに対してパウロは、「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」と言った。「悪魔の子」という非情に厳しい言葉が使われている。悪とは何であるのか。それは自然法に反することでも法律に反することでもない。それは神の御心に反することである。だから、救わんとされる神の御心を妨げようとするバルイエスが悪と呼ばれるのである。神は独り子を犠牲にしてまで、心血を注いで人間を救ってくださる。人間はそれを妨げてはならない。
御心に背くことが悪であるということは、神は必ず善を行ってくださるという信頼に基づいている。「主のまっすぐな道」とは善い道、正しい道とも訳すことができる言葉である。神は、わたしたちが自分でゆがめない限りは、まっすぐな、わたしたちにとって最善の道を備えてくださる。その道を進みたい。
2019年7月14日
出エジプト13:3–10 使徒言行録12:1–25
「解き放たれる神」 伝道師 永瀨克彦
ヘロデの力は強大なものである。彼は一声発するだけでヤコブを殺し、またペトロを捕らえることができる。周囲の人々はそれを止めることができない。しかし、そのヘロデの力も神の前には空しいものである。
ヘロデがペトロを捕らえたのは除酵祭の時期である。イスラエルの人々は、エジプトからの解放を喜ぶ除酵祭のただ中で、同胞が捕らえられているのを見て喜ぶ。
ペトロは非常に厳重に囚われている。牢の中に二人、牢の前に数人の番兵がいる。牢の外には二つの衛兵所があり、その先には町に続く鉄の扉がある。しかし、強大な力をもつヘロデがどれだけ厳重にペトロを捕らえたとしても、神がそこから出そうとされるならば、何の意味もない。ペトロは天使に導かれて難なく町へと脱出するのである。
マルコと呼ばれたヨハネの母マリアの家に集まっていた人々は、ペトロが門の前に立っていると聞いて、初めは信じられなかった。エジプトからの解放を喜ぶこのとき、ペトロの牢からの解放を彼らは信じることができない。エジプトから自分たちを解き放ってくださった神ならば、ペトロを牢から出すくらいわけないはずである。彼らはそのことを忘れている。
人々は除酵祭を祝いながらも、かつて神が自分をエジプトから解放してくださったことを忘れている。わたしたちは、神が罪から解き放ってくださったことを覚えるものでありたい。罪からの贖いを覚えているからこそ、ペトロの牢からの解放を聞くときに、神の力をもってすれば当然であると答えるものでありたい。神は、脱獄よりも、また出エジプトよりも偉大な業である罪からの解放を成し遂げてくださったのである。
2019年7月7日
創世記 28:10–15 使徒言行録 11:19–30
「教え導き続ける神」 伝道師 永瀨克彦
アンティオキアで福音が語られ、多くの者が信じた。ほとんどのユダヤ人は異邦人に福音を語らなかったにも関わらずである。アンティオキアはローマ、アレクサンドリアに次ぐ大きな異邦人の町である。大多数のユダヤ人は異邦人が救われるのを望まなかった。しかし、神はキプロスやキレネから来たユダヤ人たち、つまり、一部の人々を用いて福音を告げてくださった。いくら人間が拒もうとも、神の計画を止めることはできない。
多くが信じたといううわさを聞き、エルサレムの教会はバルナバを派遣した。それは、アンティオキアの教会が指導を受け続けるためである。信じることが目標であり、それで終わりというのではない。信じた後には、神に向かって生きる生活が待っているのである。
神は、信じた者を放ってはおかれない。神は教え導き続けてくださる。
このアンティオキアで、弟子たちは初めて「キリスト者」と呼ばれるようになった。それは、教会の人々が周囲から見てそれだけ異質な存在だったからである。信徒たちは、周囲から「キリスト者」と呼ばれ、区別され、時には敬遠されるほど、周囲と異なる生活を送った。それは、神に応える新しい生き方である。「キリスト者」はもともとは好意的な呼び方ではなかったかもしれないが、信徒たちはそう呼ばれることを誇りとし、自ら称するようになった。
新しい生き方ができるだろうか。救われたのに、以前と何も変わっていないのではないか。そのように思うことがある。しかし、そのようなわたしたちを神は教え導き続けてくださる。その神に信頼し、応える者でありたい。
2019年6月30日
イザヤ書 25:1–10 使徒言行録 11:1–18
「神がそうなさるのを」 伝道師 永瀨克彦
エルサレムにいた使徒たちは、ペトロがコルネリウルスら異邦人に洗礼を授けたことを知って怒った。それに対し、ペトロは「わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」と答えた。
ペトロはここで自分が体験したことをそのまま語っている。幻を通して異邦人が皆救われることが神の御心であることが分かった。彼自身、異邦人との交流を避けてきたが、それが変えられた。そして、この報告を聞いた人々も皆変えられた。彼らは「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って神を賛美したのである。
このように、神がしてくださったことは、そのまま語るだけで十分に力を発揮する。何も付け加えられる必要はない。わたしたちは、神から与えていただいているものをそのまま証しするものでありたい。
使徒たちが言うように、神はコルネリウスを「悔い改めさせ」てくださった。全ては神が主導される。悔い改めさえも神から与えられる恵みである。
彼らは異邦人が救われたことを知って神を賛美した。直前までは異邦人への洗礼に怒っていた彼らが、今や、反対にそれを喜ぶ者とされている。
彼らが他人の救いを喜んでいるということは重要である。救いは自分が救われればそれで終わりというものではない。すべての民を救おうとしてくださるのが神である。
神がなさることを妨げることはできない。それが行われるために働き、その実現を喜ぶ者となりたい。神の望みを自らの望みとさせていただきたい。
2019年6月23日
ヨナ書 4:1–11 使徒言行録 10:34–48
「信じる者はだれでも」 伝道師 永瀨克彦
ローマの百人隊長コルネリウスに対してペトロは言う。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」。分け隔てしないとは、単に差別をしない、つまはじきにしないという意味ではない。それは愛するということである。神はイスラエルに対すると同じように異邦人を愛してくださる。イスラエルを弾圧し敵対する者の代表とも言える百人隊長さえ、神は愛し、イスラエルに加えてくださるのである。
ヨナ書の四章において、神はニネベを惜しむと言われる。それは神が労し、育てられたからである。ニネベは異邦人の町であるが、そこに住む人々のことも、やはり神はお造りになった。神はイスラエルだけの創造者ではない。神は大変な労を払い、ご自身の手で造り、お育てになった異邦人のことを愛される。
だから、ペトロが言うように、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」。全ての民は救いへと招かれている。
ペトロを通して御言葉を聞いていると、コルネリウスたちの上に聖霊が降った。それを見た周囲の人々は大いに驚いた。コルネリウス自身驚いたに違いない。異邦人である自分のところにも神が来てくださるとは。それは喜びに満ちた驚きである。
この驚きが私たちにも与えられていることを思い起こしたい。主イエスが私たちのところに来てくださり、救ってくださったことは驚くべき恵みである。労して造り、育てた人間を神は愛し、救ってくださるのである。
2019年6月16日
詩編 78:1–4 使徒言行録 10:1–33
「残らず聞こうとして」 伝道師 永瀨克彦
ペトロは皮なめし職人シモンの家の屋上で幻を見た。天が開き、大きな布のようなものが四隅でつるされて地上に降りてくると、その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。神が「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」とお命じになると、ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことはありません」と答えた。神は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われた。神はペトロとそのやり取りを三度繰り返された。
これまで守ってきたことを止めてもいいのか。ペトロは確信が持てなかった。また不安を覚えた。しかし、神は三度も同じように命じ、ペトロに確信を与え、不安を取り去ってくださる。今やそれらは食べてもよいのである。
ペトロが思案に暮れていると、ローマの百人隊長コルネリウスからの使いが彼のもとに到着した。コルネリウスもまた幻を見て、ペトロを招くようにという神の声を聞いたのであった。ペトロはコルネリウスの使いが来たのを見て、幻のさらなる意味を悟った。神は異邦人たちを清めておられる。主イエスは彼らをも救われたのである。ペトロは神の御心を知り、それまで避けていた異邦人との交流をためらわず行った。彼らを泊め、(直接書かれてはいないが)食事を共にし、翌日コルネリウスを訪ねた。
わたしたちは今日語ってくださる神の言葉によって生きる。固定された過去の考えによるのではない。わたしたちは日々新たにされる。その日その時に、祈りを通して与えられる御言葉に従い為すことを決める者でありたい。神は三度語り確信を与えてくださる。
2019年6月9日
列王記下 4:32–37 使徒言行録 9:32–43
「多くの人が主を信じた」 伝道師 永瀨克彦
ペトロはリダに着くとアイネアという人に会った。アイネアは中風で八年前から床に着いていた人である。そこでペトロは主イエスの名によって命じ、アイネアを癒した。人々はそれを見て主に立ち返った。
その後、ペトロはヤッファでタビタという婦人を生き返らせた。彼女はたくさんの善い行いや施しによって、人々から慕われた人物であった。彼女が死んだとき、やもめたちは泣きながら彼女が作ってくれた上着や下着をペトロに見せた。ペトロが祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」というと、タビタは起き上がった。これがヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。
この二つの奇跡は何のために起こされたのであろうか。それは、それぞれの奇跡の結末を読めば明らかである。つまり、皆が主に立ち返り、また多くの人が主を信じるために奇跡は起こされたのである。癒し、また甦り自体が目的ではない。それは嬉しい出来事ではあるが、そこに住む人が皆救われることに比べれば重要ではない。
やもめたちの生活は楽ではなかっただろう。夫に先立たれた女性が一人で生きるのは厳しい時代であった。貧しさ、病、死と彼女たちは無縁ではいられなかった。将来に希望を持つことは難しかったかもしれない。しかし、主イエスはペトロを通してタビタを生き返らせ、死は恐れる必要がないことを示してくださった。主イエスを知った人が皆、恐れから解き放たれた。それが二つの奇跡によってもたらされた恵みである。そして、この奇跡を知らされているわたしたちもまた、同じ恵みをいただいているのである。
2019年6月2日
サムエル記上 10:1–9 使徒言行録 9:19b-31
「サウロと使徒たち」 伝道師 永瀨克彦
パウロはダマスコを出るとエルサレムに向かった。そこで他の弟子たちに加わろうとしたが、すんなりとはいかなかった。皆、ついこの間まで仲間たちを捕らえて処刑をしていたパウロを恐れたのである。それは当然の反応であった。そこでバルナバが仲介し、パウロが本当に主イエスと出会って回心したということ、そしてダマスコで力強く説教をしたことを説明した。そのことによってパウロは使徒たちに受け入れられた。
パウロは主イエスと自分という一対一の関係のみにおいて伝道者となったのではない。直接主と出会い、召命を確信していたパウロでさえ、使徒たちから確認される必要があった。主イエスは教会を通して、パウロの召命を客観的にも確かにしてくださる。
わたしたちもまた、信仰者となるとき、誰しも他の信仰者から確認を受けて教会に加わる。もちろん、主が出会ってくださり、信仰を与えてくださる出来事が最も重要である。しかし、それだけでキリスト者として歩み始めるかと言えばそうではない。洗礼の志が与えられたことを教会に申し出、それが確かであることを周囲が認め、信仰告白をし、そして洗礼を受けるのである。
パウロの信仰、また召命は、神と自分の関係だけで完結しない。パウロは神から受けたものを分かち合い確認し合うことへと促されている。
わたしたちは神から受けた愛を伝えていく者とされている。また、召しを確認し合い祈り合うことがわたしたち教会には許されているのである。