過去の説教

過去の説教の一部を掲載しています。定期更新ではありません。

2022/06/05

マタイによる福音書7:7-12

「求めなさい」

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この言葉は一見すると、熱心に祈り求めさえすればどんな願いでも必ず実現するという意味に見えます。だから、アメリカではこの個所を持ち出して、「我々の言うとおりに一緒に祈れば必ず百万ドルを得ることができる」とテレビやラジオで宣伝する自称伝道師たちもいたそうです。さすがに日本ではそこまであからさまにこの個所を利用して悪さをする人は見たことはありませんが、しかし、誤解されやすい個所だということはできると思います。「病気が治らないのは祈りが足りない証拠だ」とか、本当に熱心に祈っていたら治るはずだとか、そういう間違ったことを言って病気の人を苦しめる人は、おそらくこれまで何人もいたのではないでしょうか。

 しかし、この個所は、そういう、熱心に祈りさえすれば自分の願いを何でもかなえることができるということを言っている個所ではありません。

 まずお金が手に入るなど私利私欲を求めることは論外ですけれども、病をいやしてほしいというのは、何も強欲な願いではありません。しかし、それにも関わらず、その願いさえも聞かれないということも現実にはあるのです。それは祈りが足りなかったからではありません。そうではなく神がお決めになったからです。わたしたちは祈りによって神を自由自在に動かせるなどという思い上がったことを考えてはなりません。神はわたしたちの祈りに対してまったく自由にお働きになるのです。

 パウロも、病をいやしていただきたいと祈りましたけれども、願いはかなえられませんでした。決して自分勝手な傲慢な願いではありません。この痛みを取り除いてくださいと祈っただけです。正当な訴えです。しかし、それが聞かれなかったのです。

 そのことはコリントの信徒への手紙Ⅱの12章に書かれています。読み上げることはしませんけれども、そこには、神から思い上がることのないようにと一つのとげが与えられたと書かれています。このとげとは何なのか、具体的には書かれていませんけれども、パウロは手紙を執筆する際に基本的には口述筆記の形を取っていました。パウロが話した内容を、他の人が書き記すということです。それは、パウロの目が悪かったからです。パウロは特に重要な個所はあえて自分自身で書くこともありましたけれども、そのときには自分の目でも見えるように、非常に大きな字で書く必要がありました。このことから、このとげというのは、一説には目の病気なのではないかと言われています。

 パウロはこのとげを取りのけてくださいと三度神に祈りました。しかし、願い通り病がいやされることはありませんでした。代わりに神から与えられた答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした。

 パウロの病がいやされなかったのは、パウロの祈りが足りなかったからでしょうか。または、パウロの信仰が足りなかったからでしょうか。そうではありません。パウロの病がいやされなかったのは、神の深いお考えがあったからです。パウロはその神の御心を受け入れました。そして、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言いました。このように、自分の願いに神を従わせるのではなく、神の御心にわたしたちが従わなければならないのです。

 主イエスのゲツセマネの祈りを見てもそれが分かります。主イエスはまず自分の願いを祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。「お父さん。どうか十字架にかからなくても済むようにしてください。お願いします!」と祈りました。しかし、祈りはそれで終わりませんでした。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と主イエスは祈られたのです。

 このように神を動かして願いを叶えさせるのではなく、自分の願いを率直に打ち明けた上で、しかし、最後には御心に服従するというのが本当の祈りなのです。

 それでは、今日の7節8節の意味は何なのでしょうか。求め続ければどんな願いも必ず叶うという意味ではないならば、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とは、いったいどういう意味なのでしょうか。

 一言で言えば、それは、善を行う力を人間は持っていないが、求めるならば神はその力を与えてくださるということです。隣人を愛し、敵を愛することは、神からの助けによって可能であるということです。

 なぜそうだと言えるのか。それをここから見ていきたいと思います。

 まず、「門をたたくならば開かれる」とありますが、この門とは何なのかを考えたいと思います。この門というのは、天の国の門のことです。つまり、神の国に入ることを求めるならば入ることができるということです。

 しかし、天の国で暮らす者は善い者でなければなりません。そこで思い出したい言葉は5:20節です。5:20は、2月27日の礼拝で読んだ個所です。ですからずいぶん前のように感じられるかもしれませんが、5:20は山上の説教の前半で語られた言葉であり、今日の個所は実は山上の説教の終わりに差し掛かった部分です。ですから、今日の個所は山上の説教の前半からずっと繋がっているのです。

 5:20にはこのように書かれていました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」。

 主イエスがここで言っておられることは、律法を軽んじてはならないということです。ファリサイ派の人々は律法を厳格に守っていました。その彼らよりも律法を実行しなければ、決して天の国には入ることはできないというのです。これは非常に厳しい言葉です。

 律法は、要約すると、神を愛し隣人を愛するということです。これを行う者でなければ天の国に入ることはできないのです。だから、この後の話で、主イエスは敵を愛しなさいということをお話しになったのです。

 敵を愛するという不可能に思えることを実践しなさい。あなたがたはそれをしていないようでは天の国に入ることはできないと主イエスは言われるのです。

 これをあまり行為義認的に聴きすぎないようにということは注意が必要です。行為義認とは、信仰義認の対義語ですけれども、行いによって義と認められるという考えです。今後敵を愛することができるかどうかで救われるかどうかが決まる。そういう風に考えるべきではありません。なぜなら、救いは既に主イエス・キリストが十字架と復活によって成し遂げ、わたしたちに与えてくださったからです。聖霊は既にわたしたちの中に与えられ、わたしたちは永遠の命をすでにいただいています。

 一方ではわたしたちは既に救われたものとして安心してこの個所を読むことができます。

 しかし、もう一方では、天の国ではすべて善い者が暮らし、善いものが生活をするというは、よく考えれば当然のことなのです。天の国で悪い者が生活を送っているなんていうことは想像もできないですし、ありえないことです。ですから、わたしたちは悪いままでそこに入ることはできません。

 だから、わたしたちは善い者とならなければならない。敵を愛する者とならなければならないわけですけれども、わたしたちにはその力がありません。必死に頑張って敵を愛そうとしても、努力ではどうにもなりません。そこでわたしたちは途方に暮れてしまうかもしれません。「やはり、わたしは天の国には入ることはできないのか」と思うかもしれません。

 しかし、そこで主イエスは「求めなさい」と言われるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。そして、さらにこう言われます。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。

 わたしたちが、天の国に入りたいのですが、わたしたちにはその力がありません。敵を愛する力がありませんと祈るとき、神はその力を与えてくださいます。そして、神の力によって天の国に入らせてくださいます。

 人間は罪人ですけれども、その罪人でさえ、自分の子どもには良い物を与えようと必死になります。罪人でさえそうならば、唯一真に正しいお方である神は、なおさら、子どもであるわたしたちに良い物を与えてくださるのです。主を愛し、隣人を愛する力をわたしたちが願うならば、それを与えてくださるのです。

 そして、この「良い物」という言葉ですけれども、これは今日の並行箇所であるルカによる福音書11:13には「聖霊」と書かれています。そこにはこう書かれています。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。

 マタイによる福音書では、聖霊という言葉は使っていませんが、意味するところは同じです。わたしたちが祈り求めるとき、神は聖霊を与えてくださいます。特にペンテコステの礼拝をささげている今日、そのことを覚えたいと思います。わたしたちは、聖霊を与えていただくことで、主を愛し、隣人を愛するという善い業を行うことができるのです。

 このように、5章からの流れをずっと見て来ると、これまで唐突なように見えた12節が密接につながっている個所だということが分かります。

 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ、律法と預言者である」。

 わたしも以前は、なぜ急にこんなことが書かれているのだ。求めなさいという話からなぜ急に自分がしてもらいたいことを人にしなさいという話に飛んでいるのだと疑問に思っていました。しかし、実際にはこれは話が飛んでいるわけではないのです。

 そうではなく、敵を愛する力、隣人を愛する力を神は与えてくださる。だから隣人を愛しなさいと主イエスは言っておられるのです。

 現代は、人間の可能性を過度に評価している時代だと思います。善いものは人間の内側にあって、自分自身の奥深くに眠っていて、それを掘り起こし発見することが大事だと信じられています。ありのままの自分を取り戻せばすべてうまいくと信じられています。

 しかし、実際には善いものは人間の内側にはありません。善いものはすべて神からいただかなくてはならないのです。自分の心の中に神を発見するのではありません。神は私たちを越えたお方であり、光は完全に外側から与えられるのです。

 だから、わたしたちは善いものを求めるのです。善い業を行う力を求めます。そのとき、神は必ず善いものを与えてくださいます。神は聖霊を与えてくださいます。わたしたちは聖霊の力により頼み、神により頼み、善い働きをなしていきたいと思います。祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神さま。ご自身の子どもであるわたしたちに、何としても善いものを与えようとしてくださる神に感謝いたします。どうぞ、主を愛し隣人を愛する力を祈り求め、それを主の助けによって行っていくわたしたちとなることができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。

2022/05/22

マタイによる福音書6:25-34

「思い悩むな」

 主イエスはここで、神のことを繰り返し、「あなたがたの天の父」と呼ばれます。わたしの父ではなく、あなたがたの父と呼ばれるのです。つまり、わたしたちは神の子だということです。そして、それは主の祈りの個所(6:5-15)から繰り返し語られてきたことです。神に信頼し、安心することができるというのもそのことに基づいています。わたしたちは神の子だから安心し、思い煩いを捨てることができるのです。

 25節で主イエスは言われます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。

 ここで衣服と言われているのは、ファッションのことではありません。そうではなく体を保護するための服を着られるかどうかということです。今は、物があふれかえっている時代ですので、忘れてしまいがちですけれども、服を着られるかどうかということは、本来は体を寒さや怪我から守ることができるかどうかということであり、服が手に入るかどうかは死活問題なのです。単にみすぼらしい服だと恥ずかしいというだけの問題ではなく、生きられるかどうかの問題です。

 しかし、そうしたことに思い悩むなと主イエスは言われます。何を食べようか、何を着ようかと思い悩むなと言われます。わたしたちは、最初は自分が生きられるかどうかを心配し、だからこそ何を食べようか、何を着ようかと考えるのですが、いつしか、何を食べようか、何を着ようか、その心配だけで頭がいっぱいになってしまうのです。しかし、主イエスは最初に立ち戻れと言われるのです。つまり、あなたがたは、食べ物は手に入るだろうか、服は手に入るだろうか、そのことを心配しているが、そもそもの心配は何だったのか思い出しなさいということです。それは、生きられるかどうかでしょう。そうであるならば、食べ物や服のことで思い悩む必要はないのです。なぜならば、神が養ってくださるからです。食べ物や服のことではなく、命のことを考えればいいのです。そして、神が生かしてくださることを知って安心すればいいのです。

 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。

 鳥は毎日、虫などを食べて生活しています。明日食べるものをどうしようなどと考えたりはしません。鳥は常に今食べるものを探して飛んでいるのです。そして、鳥が虫を食べることができるのは、前の日に虫を準備しておいたからではありません。神がその日虫を与えてくださったからです。いや、鳥は自分の力で虫を見つけたのだと言われるかもしれません。しかし、では虫を造ったのは誰でしょうか。やはり、世界を造り、虫を造り、鳥が生きていける環境を造られたのは神なのです。

 このように、鳥がその日生きるために必要なものを神は備えてくださいます。

 ましてやあなたがたはなおさらであると主イエスは言われます。

 主イエスは「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われます。

 主イエスは、「わたしの天の父」ではなく「あなたがたの天の父」と言われるのです。あなたがたは神の子であるということを、主イエスはこれまで繰り返し語って来られました。主の祈りを教えられたときには、「天におられるわたしたちの父よ」と祈るようにと教えられました。神のことを父と呼ぶようにとは、驚くべき教えでありました。わたしたち罪人が神の子とされている。神がわたしたちをご自分の子どもとして愛してくださる。それは驚くべき恵みでありました。

 その後も主イエスは「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」であったり、「隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」そして、今日の個所でも二度、「あなたがたの天の父」という言葉が出てきます。このように、主イエスは、神は私の父であるだけでなく、あなたがた自身の父でもあるのだということをことさらに、繰り返し、強調しているのです。

 主イエスはもののたとえで言っているのではなく、わたしたちは本当に神の子であると言っておられます。主イエスはわたしたちの罪を背負って十字架にかかり復活することによって神とわたしたちとを隔てる壁を取り除いてくださいました。そこのことで、わたしたちは神の前に進み出ることができるようになり、こうして礼拝することができているのです。罪のために神の前に行くことができなかった以前とは違い、神のところに行き、神と交わりをもつことができます。つまり、主イエスはただ口だけで神を父と思いなさいと言ったのではなく、その後実際に十字架にかかり復活することで、わたしたちが本当に神の子となることができるようにしてくださったのです。

 主イエスは、父と子と聖霊というご自身の交わりに、わたしたちを入れてくださったのです。父と子という関係の中に、わたしたちを引き入れてくださった。その間を仲介してくださり、わたしたちをまことの神の子どもとしてくださったのです。

 だから、あなたがたは鳥よりも価値あるものではないかと主イエスは言われるのです。それは単に人間の方が優れた存在だからということではありません。人間の方が賢く複雑な、高等な生物だからということではありません。神は鳥でさえ養われるのだから、我が子のことはなおさら大事にされるに決まっているではないかと主イエスは言っておられるのです。

 27節で主イエスは言われます。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」。

 食べ物や服のことで思い悩むとき、わたしたちは自分で自分を生かすことができると考えています。しかし、よく考えてみれば、わたしたちは、神がわたしたちに与えてくださった寿命以上には生きられないのです。つまり、神が生かしてくださっていなければわたしたちは生きられないということです。そう考えれば、自分で自分を生かすことができるというのが間違いだということが分かります。わたしたちは確かに、明日の食べ物を倉に納めることはできます。しかし、明日、命を与えてくださるのはやはり神なのです。そうであるならば、思い悩むのではなく、自分で自分を生かさなければならないといって苦しむのではなく、神が生かしてくださることを信頼すればいいのです。

 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」。

 主イエスは野の花に目を向けさせます。わたしたちはつい人間の栄華に目が行ってしまいがちですが、実は野の花の方がずっと美しいのです。ソロモンの時代、イスラエルの繁栄は最盛期を迎えました。列王記上の10章には、シェバの女王が来訪したとき、ソロモン宮殿とその暮らしがあまりに豪華絢爛で、息が止まる思いであったと書かれています。しかし、そのソロモンでさえ、野の花ほどには着飾っていなかったと主イエスは言われます。

 では、この野の花は自分で自分を着飾ったのかといえばもちろんそうではありません。自分で働いて服を買ったわけではありません。つまり花は着飾るのにふさわしい働きをしたから着飾っているのではなく、ただ神からの恵みとして美しくされているのです。ですから、わたしたちも、ふさわしい働きをして、その対価として着飾っていただくわけではありません。神はただわたしたちを愛しておられるから、価なく、功なくわたしたちに服を与えてくださいます。服を与えてくださるというのは、文字通り衣服をということに留まらず、命と体に対する保護を与えてくださるということです。野の花が働かなくても装っていただけるように、わたしたちも、守られるにふさわしい働きをしているかどうかに関わらず、神がただ愛によって守ってくださるのです。花でさえ守られるのですから、子どもであるわたしたちはなおさらです。

 31節で主イエスは再び「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」と言われます。そして、「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と言われます。

 つまり、自分で自分を生かそうとするのは、まるで異邦人と同じ考え方だと主イエスは言われるのです。

 あなたがたはそうではなく、天の父が自分を生かしてくださることを知っているはずだろうということです。

 さらに主イエスは、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われます。

 神の国と神の義を求めるとは、神の御心が全て行われることを求めるということです。そうすれば、わたしたちの命と体に必要なものはすべて与えられると主イエスは言われます。それはなぜでしょうか。それは、神がわたしたちを愛しておられるからです。神の御心が行われるとは、わたしたちが生きることができることを意味します。神は愛する我が子が生きることを望まれるからです。親が子の命を願うことはあまりにも当然のことです。改めて説明するまでもありません。愛する子が生きることを願う。それが神の御心です。そして、その御心が行われるとき、わたしたちは生きるのです。

 単に地上の命のことだけではありません。地上の歩みを終えた後も、復活の命をわたしたちが生きる。永遠に神との交わりを生きる。それが神が願ってくださっていることです。わたしたちは、せいぜい明日のことや、地上の命のことしか考えられませんが、神はそれ以上のことを考えてくださっているのです。だから、わたしたちは、わたしたち以上にわたしたちのことを考えてくださっている神に信頼して、安心すればいいのです。

 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と主イエスは言われます。

 わたしたちは、つい明日のことまで考えて悩んでしまいます。それは苦しいものです。しかし、それは、味わう必要のない苦しみまで味わっているということなのです。神は明日のことどころか、わたしたちが永遠に生きることを考えてくださっているのだから、神に任せればよいのです。

 わたしたちは今日のことで苦労します。それだけで十分なのです。今日の個所は、何も、神にすべてを任せて、自分は何もしなくてもよいということではありません。そうではなく、明日も神は生かしてくださる。そのことに信頼して、自分は今日、神が命を与えてくださったことに応えれば良いということです。今朝目覚めを与えてくださり、命を与えてくださった神に、自分は今日、応答する歩みをするのです。だから、何もしなくても良いということではなく、今日には今日、神に応える喜びもあれば、苦労もあるのです。わたしたちは、その苦労を今日、負えばいいのです。

 鳥が倉に納めないように、自分も何も蓄えなくてもいい。単純にそういう話ではないでしょう。先週もお話ししましたが、富に守ってもらおう、富に生かしてもらおう、そういう富への信仰がいけないのです。貯蓄が全て悪いというのではなく、神ではなく富を信仰するというのがいけないのです。だから、神により頼みつつ、余ったものを少しずつ蓄えていくというのは悪いことではありません。例えば、ヨセフがエジプトに遣わされたとき、エジプトは神の言葉によって、豊作のときに麦を倉に蓄えることで飢饉を乗り越えることができたわけですし、また、箴言6:6-7にはこのような言葉があります。新共同訳だと少し分かりにくいので、聖書協会共同訳でお読みします。そのままお聞きください。「怠け者よ、蟻のところに行け。その道を見て、知恵を得よ。蟻には指揮官もなく、役人も支配者もいない。夏の間に食物を蓄えても 刈り入れ時にもなお食糧を集める」。ここでは、食料を蓄える蟻の勤勉さに倣うようにと言われています。

 やはり、神に信頼して何もしないことが偉いわけではないのです。お金をあればあるだけその日に使ってしまう。それが果たして、その日生かしてくださった神に応える生き方なのかということです。わたしたちが富を蓄えるならば、それは自分を生かすためではなく、神に応えるために蓄えるのです。富に限らずですが、キリスト者は、何をするにつけても、主に応えるためにどうすべきかを考えて生きるのです。

 富によって、自分を生かそう、富が大きくなればなるほど、自分という存在がゆるぎないものになるだろう。そう考えるならば、それは不信仰です。しかし、神は今、自分に蓄えるという勤勉さを求めておられると思って余剰分を蓄えるならば、それはむしろ信仰的な姿勢だと思います。

 わたしたちは、蓄えないと死んでしまうと恐れる必要はありません。神が生かしてくださるからです。だからわたしたちは、明日のことを心配するのではなく、今日どうやって神に応えようかを考えればいいのです。

 なぜ、神が生かしてくださるのか。それはわたしたちが神の子どもだからです。神の子どものように、ではなく、神の子どもなのです。このことが分かるときに、わたしたちは初めて安心することができます。神はわたしたちのことを、まるで子どもように愛されるのではなく、事実自分の子どもだから愛してくださるのです。独り子を犠牲にしたというのがその証拠です。他人の子どものために自分の子どもを犠牲にしたりはしません。

 わたしたちは神の子どもとして自信を持ってもいいのです。わたしたちが正しいからではなく、働きが良いからでもなく、神の子どもだから、明日も明後日も、この世の歩みを終えた後も、永遠に生きることができるのです。神の子どもだからそうする資格があるのです。神から与えられた資格です。生きる資格がある。だから思い悩まなくても良いのです。祈りましょう。

主イエス・キリストの父なる神さま。神とわたしたちとの間の隔ての壁を取り除き、わたしたちをまことの神の子としてくださった主イエスに感謝いたします。そして、わたしたちのことを我が子として愛してくださる神に感謝いたします。どうぞ、神が父であるということに安心し、すべてを委ね、ただ神の義と神の国を求める者となることができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン。