説教要約

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2022年9月25日
マラキ書 3:19-24 マタイによる福音書 11:1-19

「主の到来に備える」   牧師 永瀨克彦 

 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。これは当時のわらべ歌である。前段は、結婚式の祝うべきときに、祝ってくれなかったという意味である。主イエスはなぜこの歌を持ち出されるのか。それは、人々が、神が行ってくださることに対して無反応だからである。今や、待望のメシアが到来し、祝うべきときなのに、人々は祝わない。そして、自らの救い主が死んでしまう、その十字架のときに、人々は悲しまないどころか、「十字架につけろ」と騒ぎ立てるのである。

 また、断食し、悔い改めるべき時代には、人々はヨハネの断食を馬鹿にし、一方で主イエスが来られた祝宴の時代には、人々は主イエスの飲み食いを非難する。これも先ほどと同じで、人々は神がなさることに応じて自分の在り方を変える気がないのである。

 しかし、断食のときは終わった。今や祝宴のときが開始している。なぜなら、主イエスは復活し、わたしたちが永遠に神との交わりに生きることができるようにしてくださったからである。時代が変わったのだから、わたしたちは振る舞いを変えなければならない。いや、変えることができる。悲しみ顔を伏せる者だったのが、今や、既に救われていることを喜び祝う生き方を送ることが許されているのである。

2022年9月18日
ミカ書 7:1-7 マタイによる福音書 10:26-42

「剣をもたらすために来た」   牧師 永瀨克彦 

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」この主イエスの言葉を聞いて、わたしたちは驚くに違いない。主イエスは平和のために来てくださったのではないのか。人間が剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。そのために主イエスは来てくださったのではないのか。しかし、主イエスは間違いなく、平和ではなく、剣をもたらすために来たと言われるのである。ただ、それは、戦争をしなさい、殺し合いなさい、憎み合いなさいと言っておられるのではない。そうではなく、たとえ、愛する家族から切り離されても、捨てられそうになっても、それでも主に対する忠誠を貫きなさいと主イエスは言っておられる。わたしたちは、主イエスを捨てて家族を取るような者になってはいけないのである。

 信仰のために家族から疎外されるということは、特に初代教会の人にとっては当たり前であった。彼らはイスラエルから離脱したと見なされたからである。しかし、そのような者に対して、主イエスご自身が兄弟であると語ってくださる(12:49-50)。今日の個所は、積極的に家族との対立を勧める個所ではなく、信仰のために親族と疎遠になった者に対する慰めである。それは主に従うという正しい行いの故なのである。そして、主に従う先にこそ、神の愛によってまことに家族を愛する道があるのではないか。

2022年9月11日
エレミヤ書 1:4-10 マタイによる福音書 10:16-25

「話すのは父の霊である」   牧師 永瀨克彦 

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。(…)人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」。

 人々を警戒しなければならないとは、何とも悲しいことではないか。それよりも、「人を信頼しなさい」と言う方が、温かみのある、主イエスらしい言葉だと思うかもしれない。また、道徳的に優れた教えだと思うかもしれない。しかし、これは、人を信頼してはいけないとか、疑心暗鬼にならなければならないということではない。

 福音を伝えるということは、悔い改め、神に立ち返るよう導くことである。主と共に生きるという真の喜びに至るまでに、必ず自らの罪を認める苦しみがある。また、主に従うことは、神を神とし、自分が神のように振舞うことを止めることである。自分のために神を利用するのではなく、神のために自分が合わせなければならない。それは大変なことである。だから、福音を伝えるとき、そこに敵意が生じる。

 人々を警戒しなければならないとは、相手が自分を鞭打つ存在であることを忘れてはならないということであり、それはつまり、相手は福音を伝える対象であることを忘れてはならないということなのである。伝道者は必ず反発を受けるからである。迫害を恐れて伝道を止め、信仰を捨てるようなことがあってはならない。人と仲良くするために主を捨てては本末転倒である。迫害を恐れず語り続けなければならない。しかし、心配してはならない。話すのはあなたがたではなく父の霊である、と主は言われる。

2022年9月4日
出エジプト記 3:10-12 マタイによる福音書 10:1-15

「主の権能によって働く」   牧師 永瀨克彦 

 主イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになり、その後で「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言って派遣された。伝道するために必要なものを、主イエスはあらかじめ与えてくださっているのである。

 十二人の使徒は、伝道するにふさわしかったから選ばれたわけではない。もし、わたしたち人間が、選りすぐりの十二人を選ぶなら、知識の豊富な人や人望が厚い者、人格的に優れた人を選抜するだろう。しかし、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは漁師であり、聖書の知識が豊富なわけではなかった。マタイは徴税人であり、人々からは軽蔑されていた。熱心党のシモンが属する熱心党は極右政党だった。そして、イスカリオテのユダは主イエスを裏切ることになる人物である。彼らは伝道する力を備えているから出かけるのではない。欠けがあるにも関わらず、主が力を与えてくださるから出て行くのである。

 「足の埃を払い落とす」とは、責任が自分に降りかかることはないことのしるし。わたしたちは、福音を伝えたならば責任は既に果たしている。信仰をお与えになるのは神である。それを忘れ、自分の力で何とかしなければならない、信じさせなければならないと思ってはならない。わたしたちは、自分の力ではなく、主の権能によって働くのである。