説教要約

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2024年12月1日
イザヤ書 2:1-5

「主の来臨の希望」 牧師 永瀨克彦

 アドベントに入った。アドベントは主を待ち望む期間である。それは、クリスマスのための備えのときでもあるが、なんと言っても主イエス・キリストの再臨を待ち望む信仰を新たにするときである。終わりの日に、主イエスが雲に乗って再び来てくださり、天の国を完成させてくださることが約束されている。これがクリスチャンの希望である。

 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。/彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。

 終わりの日、全ての人が「主は素晴らしいお方だ」「主を礼拝したい」という思いで一致する。そのとき互いに争う理由はなくなる。再臨こそが私たちの希望であり、私たちは自分の百年の生涯を全てだと思っているわけではない。  アドベントに「主の再臨を待ち望むとき」というイメージがあまり定着していないのはなぜだろう。本来はむしろそちらの意味が主であるはずである。もしかすると、クリスマスという世間に伝道する絶好の機会に、「再臨」という受け入れてもらいづらい内容を語ることに後ろ向きになることがあるのかもしれない。しかし、神の愛は「十字架(贖罪)」・「復活」・「再臨」という信じがたい出来事を通して表される。そして、私たちの喜びは、例えば「信じれば百年の生涯が満たされたものとなる」というような世間に受け入れてもらいやすいものではなく、「永遠の命」である。自分が喜んでいるものを伝えなければ意味はない。主の再臨の希望を伝えたい。

2024年11月24日
ミカ書 2:12-13

「王の職務」 牧師 永瀨克彦

 南のユダ王国の人々にとって北のイスラエル王国の人々は裏切り者と映っていたのではないか。ダビデの権威を否定し他の王朝を頂いたことは、王権を授けた神への不信仰に思えただろう。また、偶像崇拝は南におけるよりも北における方がより一層深刻であった。

 だから、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたとき、ユダ王国の人々は当然の報いだと思ったのではないだろうか。彼らは全イスラエルの回復を願ったのではなく、ユダ王国が北イスラエル王国と同じ目に遭わないことを願ったのではないだろうか。

 しかし、神の言葉はユダの願いを遥かに超えるものであった。ユダ王国の預言者ミカが伝えた神の言葉は、まさに全イスラエルの回復を告げるものであった。「ヤコブよ、わたしたちはお前たちすべてを集め イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に 群れのように、牧場に導いてひとつにする。」

 「あんな人たちとひとつにしないでください」と思った人もいただろう。しかし、そう思う人にとっても、真の幸いはひとつとされることであるとこの箇所は示している。一つとされ、そして共に主を賛美することである。

 私たちが願う幸いと、神が与えてくださる真の幸いは違う。人間にとっての真の幸いは、造られた全てのものと共に、造り主を礼拝できることである。

2024年11月17日
申命記 18:15-22

「救いの約束」 牧師 永瀨克彦

 「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない」。この言葉は一見「私の後継者に必ず従え」という偉そうな言葉に見えるが、そうではない。荒れ野をさまようイスラエルの民にとって神の言葉は唯一の道しるべであった。民は、もしモーセが死んでしまったら誰が御言葉を伝えてくれるのだろうかと心配であった。そして預言者を求めた。神はその民の願いに応えてくださったのである。

 「ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしのなによって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死ななければならない」。非常に厳しい処罰に思える。しかし、神の言葉は命である。だからこの預言者が「これは命です」と偽って実際には別のものを与えていたというのは、民を殺そうとした、あるいは殺したことに他ならない。そうであるならば、この処分は当然のものと言える。御言葉はそれだけ大事なものなのである。

 主イエスが「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と示された通り、私たちは毎日神の言葉を頂かなくては生きられない。一週間に一度説教を聞けば十分ということではない。神はいつも私たちに語りかけてくださっている。祈り、その声を聴くことによって、私たちはこの世の中で迷子にならずに進んでいくことができる。

2024年11月10日
創世記 13:1-18

「神の民の選び」 牧師 永瀨克彦

 アブラハムと甥のロトは、共に神からの祝福を受け豊かにされていたので、次第に一箇所に住むことが難しくなった。おそらく水場や草場のことで互いの家畜を飼うものの間で争いが起きるようになった。そこでアブラハムはロトに左右の好きな方を選びなさい、そうすれば自分は反対の方に進もうと提案した。本来であれば土地を選ぶことは神からアブラハムに与えられた権利である。だから、ロトは信仰に従うならばこの提案を断ってもよかったはずである。しかし、目を上げたとき東の方が非常に潤っているのが見えた。ソドムとゴモラが滅ぼされる前だったからである。そのときロトはそちらを選ばずにはいられなかった。信仰よりも目に見えるものを選ばずにはいられなかったのである。一方のアブラハムはカナンの地に住んだ。そこは何もないように見えたが、神が共におられるということが何よりの幸いであった。神はそこで、この地をアブラハムとその子孫に与えること、そして子孫を大地の砂粒のように、数えきれないほどにすることを約束されたのである。

 この後、ソドムとゴモラが滅ぼされたため、ロトは酷い目に遭うことになる。しかしこれは、「欲をかけばかえって損をするので慎ましくある方が良い」という舌切り雀のような話ではない。ロトもまた神によって災いから助け出される。つまり、カナンであろうがソドムであろうが、神が共におられることこそが幸いだったのである。私たちは目に見えるこの世の富や地上での命を全てだと思うのではない。地上にいようが天上にいようが、主が共にいてくださる。それが私たちの幸いなのである。

2024年11月3日
イザヤ書 44:6-17

「堕  落」 牧師 永瀨克彦

 「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主はこう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない」。神はイスラエルの王であり主である。このこと自体がすでに福音である。神は唯一の力ある神である。そのお方が、私はあなたの神であると言ってくださっているのである。「恐るな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない」。「私の他に神はいない」というのは、神が神のために言っている言葉では無い。そうではなく、その私があなたと共にいるという、人間のための言葉なのである。だから「恐るな、おびえるな」と言われているのである。

 偶像は金槌や炭火を使い、人間の手によって作ってもらわなくてはならない。鉄も木も人間も神がお造りになったものである。また人間の腹が減れば作業は中断してしまう。人間が摂る食物や水をお造りになるのもやはり神である。神が全てを整えてくださらなければ偶像の神は存在することができない。存在するために条件が必要なものは神では無い。

 人間は、神が与えてくださった木で暖を取りパンを焼いた後で、その木を使って偶像を作るのか。神からの恵みに対する感謝を、偶像の神にささげるのか。そうであってはならない。神は唯一の神である。その神が「私はあなたと共にいる。だから恐るな」と言ってくださる。この神に応えたい。

2024年10月20日
フィリピの信徒への手紙 3:7-21

「天国に市民権を持つ者」 牧師 永瀨克彦

 「あの犬どもに注意しなさい」とは、非常に厳しい表現である。しかし、これは元々ユダヤ人たちが異邦人を指して使っていた蔑称である。パウロはそれを律法主義者たちに投げ返しているのである。ユダヤ人たちはこの言葉を、卓上のご馳走、すなわち救いにあずかることのできない者たちという意味で用いていたのであろう。しかし、パウロに言わせれば、律法を守ることで救われようとするような生き方こそ、主に頼って生きるというまことの幸いを放棄し自分に頼って生きるという、わざわざ地べたの物を食べるような生き方なのである。

 パウロは誇ろうと思えば律法主義者たち以上に自分を誇ることができる人物である。彼は生まれも育ちも生粋のユダヤ人であり、生後八日目に規定通り割礼を受けたのはもちろん、高名な学者であるガマリエルの下で律法を学び、誰よりも忠実にそれを守ってきた。「律法の義については非のうちどころのない者でした」。この言葉に嘘はないだろう。パウロの生真面目さは彼の手紙を読んでいればよく分かる。しかし、以前は有利だと思っていたこれらのことは全て、今では損失であることが明らかとなったとパウロは言う。パウロは実際すごい人物だが、それは損失である。自分を誇りたくなればなるほど、主に頼ることが難しくなるからである。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」。主により頼み、主と共に生きることこそ真の幸いである。

2024年10月13日
ヘブライ人への手紙 9:11-22

「犠   牲」 牧師 永瀨克彦

 「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(12節)。

 「ただ一度」「成し遂げられた」ということが強調されている。また、ヨハネによる福音書によると、主イエスは十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取られた。成し遂げられたということは救いが完全に成就したという意味に他ならない。

 初代の教会には、主イエスの救いを否定する偽教師たちがいた。彼らは、「イエスの十字架と復活だけでは不十分なので、あなたがたはこれをしなければ救われない」と教えて人々を不安にさせ、それによって求心力を得ようとする。これは現代にも通じる話であり、あらゆるキリスト教系と呼ばれるカルト宗教に共通することは、やはり「あなたはまだ救われていない」と言って人々を不安にさせることである。

 あるいは、クリスチャンの中にも、主イエスの十字架は一度きりのものではなく、繰り返さなければならないものだと思っている人もいるかもしれない。毎週の礼拝をそのような犠牲の繰り返し、赦しの繰り返しの儀式だと考えているかもしれない。

 しかし、私たちは赦してもらうために礼拝に集っているのだろうか。断じてそうではない。私たちは二千年前の、主イエスの一度きりの十字架と復活によって、既に、完全に救われているのである。だから、既に赦していただいていることを感謝して神を褒めたたえるのが私たちの礼拝である。私たちにはただ安心と喜びがある。それが自然と礼拝となって現れるのである。

2024年10月6日
フィリピの信徒への手紙 1:12-30

「キリストにある生」 牧師 永瀨克彦

 「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)ほど難解な言葉はない。どうしてこのような時に喜んでいられようかと思うこともある。しかし、フィリピの獄中で手紙を書いたパウロの姿は、まさにこの言葉を体現しているのである。

 普通の人であれば、捕えられ拷問を受けたら、「助けてほしい」「励ましてほしい」と思うだろう。しかし、パウロは反対にフィリピの人たちに対して、パウロが捕えられたのを見ても不安に陥らないでほしい、むしろ喜んでほしいと書いているのである。

 それはパウロの精神が成熟しているからではない。自分が辛いのをぐっと堪えて他人を励ます包容力があるというのではない。そうではなく、パウロは事実、自分自身が心から喜んでいるのである。だから他人にも同じように喜ぶことを薦めることができるだけなのである。

 パウロが捕えられることで、初めて主イエス・キリストを知り、信仰を得る人たちがいた。兵営の中で信仰が広がった。パウロは主を信じ、この苦難が御心であると信じるが故に喜んでいるのである。さらに、死ぬことがあれば、ますますキリストが宣べ伝えられることになるし、自分も主のもとに行くことができ、それも恵みであるとパウロは言うのである。

 私たちには苦難がある。しかし、信仰によるならば、どのような時にも御心があり、恵みがあると信じることができる。それがいつも喜んでいるということである。

2024年9月29日
コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:1-10

「永遠の住み家」 牧師 永瀨克彦

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」。

 私たちの肉体や地上、あるいは宇宙はいつかは朽ちるものである。だから、それは幕屋、つまりテントである。私たちはこのテント暮らしのために苦しんでいる。自らの肉の弱さ、誘惑に悩み、また、戦争、犯罪、災害、悪口、無関心に満ちた世界を見て苦しむ。しかし、この仮住まいはずっと続くものではなく、また滅びればそれで終わりというものでもない。その後には永遠に続く天の建物が神によって準備されているのである。

 ではテントの方は一時的なものに過ぎないのだからどうでもよいのか、適当にやり過ごせばよいのかといえばそうではない。「それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」とある通りである。この地上は捨て去られるのではなく、天の国に飲み込まれる。つまり、地上全体が贖われ、救われるのである。

 自らの肉の弱さや世界の悪に嫌気が差すことがあるかもしれない。しかし、それらは全て神がお造りになった素晴らしいものである。そして将来完全に救われるものである。テントだからと軽んじてはならない。この地上を、この肉体をもって神と共に真剣に生きていきたい。

2024年9月22日
ローマの信徒への手紙 11:33-36

「神の富と知恵」 牧師 永瀨克彦

 神の知恵は人間には計ることはできない。人間には失敗としか思えないことが救いへと変えられていく。ユダヤ人たちは自らが待ち望んできたメシアを拒み、真っ先に救われるはずであった彼らは後塵を拝することとなった。そのために異邦人たちが先に救いに与ることとなった。これは異邦人にとって福音であることはもちろんだが、実はユダヤ人自身にとっても良い知らせなのである。

 「わたしは、わたしの民ではない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」(10:19)、「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです」(11:31)。選ばれた民であるはずの彼らが脇に追いやられたのは、ねたむほどに神を愛するようになるためであり、彼らが真の幸いに至るためのことだったのである。

 世界は、悪としか思えない出来事で溢れている。戦争、犯罪、災害、妬み、悪口、無関心。自らの心の内にもそれらを認める。それを目の当たりにするとき、神の支配を疑いたくもなるだろう。「このようなことが起こるということは、神が存在しないことの証拠だ」と言う人も多い。しかし、神はこの世界の中ですべてを治めておられ、救いの完成へと導いてくださっている。神は私たちを愛し、最も善いものを準備してくださる。人間の理解と想像を超えた仕方でそれは行われる。「失敗でしかない」と思うのは人間の認識である。神の善い御計画を信じ安心して歩んでいきたい。

2024年9月15日
エフェソの信徒への手紙 3:14-21

「キリストの住まい」 牧師 永瀨克彦

 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(3:16-17)。

 内なる人とは何か。それは、主イエスによって生まれた新しい命、新しい人である。私たちは洗礼を受けるとき、古い命を死に、新しい命を生き始めるのである。主イエスは私たちの代わりに十字架で死に、復活してくださった。それを信じ、その死と復活を自分のものとさせていただくのが洗礼である。聖書には新しく生まれるという表現が繰り返し出てくる。私たちは罪に支配された命を死に、自由に神に従うことができる新しい命としてもう一度生まれたのである。これが内なる人である。

 大事なことは、内なる人と外なる人は別の人であり、いくら外なる人が頑張っても仕方がないということである。過去の自分の在り方でいくら頑張っても仕方がない。つまり、自分の力で頑張って神を愛そう、人を愛そうとしても無理なのである。人は、愛されることによって初めて人を愛することができるようになる。親や配偶者、友から愛されて初めて人を愛することができる。そして、それら全ての愛の根源は、私たちのために独り子を十字架におつけになった神の愛である。日々聖書と祈りを通してこの神の愛に触れ、神と人を愛する内なる人を成長させていただきたい。


2024年9月8日
ペトロの手紙Ⅰ 2:11-25

「上に立つ人々」 牧師 永瀨克彦

 「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」。

 この手紙に一貫している主題は、「人は悪を行っても善を行っても苦しむのだから、神のために苦しむ方がはるかに良い」ということである。

 人間は自分のやりたいことを追求していけば幸せになれる、楽になれるということはない。欲求に身を任せても苦しむのは自分である。

 一方、神を信じれば単純に楽になれるということでもない。主イエスに従う人には主に従うが故の苦しみがある。迫害を受けたり、家族からの無理解、知人からの嘲笑を受けることもある。ただでさえ苦しい仕事が、礼拝生活を守るが故に時間的・体力的に一層苦しいものとなるかもしれない。信仰のために牢に入れられたり殺されたりということが今後無いとも限らない。

 しかし、同じく苦しむのであれば、主イエスのために苦しむ方がはるかに良い。その苦しみは意味のない苦しみではないからである。主のために苦しむとき、福音が宣べ伝えられている。また、自らの信仰が成長させられる。それは試練である。試練は無意味な苦しみとは違う。何よりも、主が共にいてくださり、主が共に苦しんでくださる。それは苦しみ以上の喜びである。いつもそれを覚えることは難しいかもしれないが。

 「上に立つ人々に仕えよ」とある。為政者から不当な仕打ちを受ける時、仕返しをしたいと思うのが人間である。しかし、仕返しをするどころか反対に愛を返しなさいということである。それが主イエスがしてくださったことである。主に倣い、悪意に愛を返す。それは苦しい道である。しかし、悪意を返すこともまた苦しみである。主に従う幸いな道を歩みたい。

2024年9月1日
ヨハネの手紙Ⅰ 5:10-21

「神に属する者」 牧師 永瀨克彦

 「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも、聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」(5:14-15)。

 この箇所の直前には、神が永遠の命を既に私たちに与えてくださったことが書かれている。私の内に主イエスが生きてくださっており、主イエスの内に私が生きている。

 このことが分かるなら、祈ったことは既にかなえられていることが分かる。「これからかなうかどうか」という不安は、「これから救われるかどうか」という不安に基づいている。私たちは既に救われており、神は私たちを愛し、最も良いことを行なってくださるのである。

 その上で何を祈るべきかというと、「罪に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」とこの手紙は勧めている。つまり、執り成しの祈りである。  主イエスは神と私たちの間を執り成してくださった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られ、十字架にかかってくださった。この執り成しによって初めて、私たちの罪は死に至らない罪とされたのである。私たちは主イエスによって執り成していただき、また、互いに祈りをもって執り成し合うものとされているのである。

2024年8月25日
エフェソの信徒への手紙 5:11-20

「新しい人間」 牧師 永瀨克彦

 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(5:8)。「頑張って光の子になりなさい」とは言われていない。私たちはすでに光とされている。光の子とされている。だから、後は光の子らしく生きるだけでよい。

 「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(5:10)。光の子らしく生きるとは、何が主に喜ばれるかを祈り、考え、行うことである。

 「時をよく用いなさい」(5:16)。以前の訳では「今の時をよく用い…」。ここで「時」と訳されているのはただの時ではなく、ギリシア語でカイロス、つまり神の時である。今、意味を持って備えられている時である。主に応えるとは、今主が何を求めておられるかを考えることなのである。

 私たちは、過去に囚われる必要はない。過去の罪は赦されているからである。主イエスの十字架と復活による赦しを信じて今を生きる。それが光の子らしい生き方である。

 私たちはまた、未来に囚われる必要もない。「明日のことまで思い悩むな」(マルコ6:34)と主イエスは言われる。神は明日も花を着飾ってくださるし、鳥を養ってくださる。だから、彼らは明日のために倉に収めたりはせずに今を生きている。主を信頼しているからである。

 私たちは、主を信じるとき、過去の罪と未来への不安から自由になり、「今主は何を求めておられるのか」を考え生きることができる。それが光の子らしい生き方である。

2024年8月18日
ローマの信徒への手紙 7:1-6

「霊に従う生き方」 牧師 永瀨克彦

 「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」。

 人間はかつて、「律法を守ることで救われようとする道」と結婚をしていた。だから、その頃に主イエスによって救われようとすることはできなかった。もしそうすれば、それは姦淫を犯したことになってしまう。姦淫は石打ちに処せられる罪であった。

 しかし、夫が死んだやもめが他の男と一緒になっても罪にならないように、今や私たちも主イエスによって救われる道を選ぶことができる。なぜならば、律法は生きている間だけ人を支配するのであり、私たちは一度完全に死んでいるからである。私たちは洗礼にあずかり、主イエスの十字架の死を自分の死とし、主イエスの復活を自分の復活をさせていただいた。私たちは、罪に支配されていた古い命を死に、罪から自由な新しい命、主イエスの復活の命を生き始めたのである。  律法によって救われようとする道は苦しみである。真剣に律法を守ろうとすればするほど、それができない自分の姿に気づくことになる。頑張れば頑張るほど罪が露わになり救いが遠ざかる。そして、他の方法で救われようとすることは姦淫の罪となるのでできない。苦しみから逃れる術さえもなかった。しかし、新しい道は喜びである。私たちはすでに救われている。私たちは、救われるためにではなく、すでに救われたものとして、自由に善い生き方をすることができるのである。

2024年8月11日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 2:11-3:9

「神からの真理」 牧師 永瀨克彦

 「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(2:12)。「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり…」(2:7)。

 人間はいくら優秀であっても、またいくら努力しても、修行を積んでも、自らの力で神を知ることはできない。反対に、罪人であっても、神がご自身を示してくださるならば神を知ることができる。これが啓示である。私たちは聖霊によって神を知る。また、十字架と復活の福音を信じる。

 人の知恵によるならば、それはむしろ「愚かなこと」である。常識的に考えれば、イエスが復活したと本気で信じている人たちの方がどうかしているのである。例えばご主人が信仰を理解してくれないとき、「これだけ言っているのに分かってくれないなんて馬鹿なのではないかしら」と思うかもしれないが、それはご主人が愚かだからではなく、むしろ賢いからなのである。しかし、聖霊が働くとき、私たちは不思議と隠されていたことが分かり、十字架と復活を信じることができるのである。

 神は私たちに信仰を与えてくださる。この信仰によって、私たちは自分が愛されていることを知る。主イエスがこの私のために十字架にかかってくださったのだという信仰は、神から与えられるものなのである。神は私たちに信仰を与え、その信仰をいつも成長させてくださっているのである(3:6)。

2024年8月4日
ヨハネの手紙Ⅰ 5:1-5

「信仰による勝利」 牧師 永瀨克彦

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。キリスト者は、新しく生まれた者である。人は洗礼によって、罪に支配されていた古い命に死に、復活の主イエスの命、新しい自由な命を生き始める。「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。自らが神の子だと知るとき、他の人もまた神の子だと知る。このように神を愛し隣人を愛することが「神の掟」であるとこの手紙は言う。

 主イエスは、「第一の掟はこれである。『(…)心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:30-31)と言われた。

 大事なことは、隣人を自分のように愛するということであり、つまり、自分を愛していなければ隣人を愛することはできないということである。

 自分を愛する。それを当たり前のようにできる場合もあるが、できない人にとってはこれほど難しいことはない。ネットで「自己肯定感 高め方」と検索しても、自分を愛せるようになることは難しい。真の意味での自己肯定感とは、自分は罪人であるにも関わらず、このような私のために主イエスは喜んで命を差し出してくださったと知ることである。それほどまでに主は私を愛してくださっている。この信仰によって初めて、私たちは自分を愛し、隣人を自分のように愛することができるのである。

2024年7月28日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:23-29

「命の糧」 牧師 永瀨克彦

 初代の教会では、聖餐と食事は繋がっていた。問題は、先に来た人たちと後から遅れて来ざるを得ない人たちが別々に聖餐にあずかり、食事をしていたということである。パウロは、先に来た人たちに後の人たちを待ち、共に聖餐を守るように勧めている。

 先に来ることができる人たちは自由市民である。一方で奴隷たちは自らが仕えている家でまず主人の食事の世話をし、それから来なければならないので、普通の食事の時間には遅れてしまうのである。そこで上記のような分断が起きていた。これは一つの教会の中に二つの教会があるようなもので、第一部は自由市民の礼拝、第二部は奴隷たちの礼拝のようになってしまっていたのである。

 しかし、「これはあなたがたのためのわたしの体である」とある通り、聖餐は共にあずかるものである。礼拝もまた、共にささげるものである。

 説教もまた、自分だけが恵まれればよいというものではなく、皆で聴くものである。皆で恵みを受け、皆で喜び、皆で賛美する。そうして初めて良い礼拝になる。

 他の人たちが落ち着いて礼拝できる環境となっているだろうか、そもそも、集まることができるようになっているだろうか考えることは大切である。個々人が良い礼拝をしようとするのではなくて、主によって集められたものとして、心を合わせ、声を合わせて良い礼拝をする私たちでありたい。

2024年7月21日
ローマの信徒への手紙 14:10-23

「命の糧」 牧師 永瀨克彦

 当時の教会において、一方には、肉を食べてはいけないと考える人たちがいた。多くの肉は異教の神々の祭壇にささげられた後に店に並べられていた、つまり、儀式に使った後に販売されていたからである。それで、その肉を食べると汚れてしまうと考える人たちもいたのである。

 しかし、もう一方には、そんなものは食べたところで汚れたりしないと確信する人たちもいた。人は信仰によって救われるのであり、主イエスも言っておられる通り、口から入った物は腹を通って外に出される。食べ物よりも心が問題なのである。

 おそらく、論理的には後者の考え方の方が正しい。パウロも「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」と書いている。

 ここまでを見ると、「では前者の考え方は間違っているのだから正さなければならない」「恐れずに肉を食べられる強い信仰に立ち返らせなければならない」という結論にもなりそうなものだが、この箇所は決してそのようには語らないのである。パウロはむしろ信仰の弱いものをつまずかせないように、自らは食べても良いと確信しているにも関わらず肉を食べないという。  正しいか正しくないかが問題なのではない。仮に相手が間違っていたとしても、その人が立ち続けられるかどうか、つまり愛が問題なのである。「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます」(Ⅰコリ8:1)。そして、共に立ち主を讃えるのが私たちの礼拝である。

2024年7月14日
使徒言行録27:33-44

「破局からの救い」 牧師 永瀨克彦

 パウロは囚人としてローマに護送されることになった。しかし、船がエウラキロンという暴風に遭い漂流してしまった。そして、14日間、兵士、船乗り、囚人たちは皆、不安のうちにほとんど何も食べていなかった。そのとき、パウロは安心して食事をするように勧め、神に感謝の祈りをささげてパンを裂いた。一同は食事をし、元気を取り戻した。

 この直前の箇所には、水深が浅くなり始め陸地が近づいていることが分かったとある。そのため、一見すると助かる見込みが出てきたので備蓄していた食料を食べることにした、というように見える。しかし、実際にはむしろ傷んだ船が座礁して沈没する危険が高まったということである。その証拠に船乗りたちは船を見捨てて、隠れて小舟で逃げ出そうとしたのである。

 つまり、パウロは助かる見込みが全く見えない状況で、それにも関わらず心から安心しているのである。それは、神からの約束があるからである。「神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐るな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。』」(27:24)。

 教会は嵐の中を進む船である。嵐が止む気配は全く見えない。それにもかかわらず、私たちは礼拝に招かれるとき、安心して主を賛美し、感謝してパンを裂くのである。それは、終わりの日には主イエスが再び来られ、御国を完成してくださるという約束を信じているからである。兆候を目で見て安心するのではない。私たちは信仰によっていつも安心しているのである。

2024年7月7日
使徒言行録24:10-21

「復活の希望」 牧師 永瀨克彦

 パウロはフェリクスに弁明する。ユダヤ人たちが訴えているように、パウロがユダヤの伝統とは違う教えを広めて社会を混乱させているというのは誤りである。むしろパウロは、伝統と同じことを語っているのであり、聖書が語る希望の実現を告げているのである。

 パウロが告げている福音は、主イエス・キリストの十字架と復活である。これを、旧約聖書には無い、別の新しい教えだと考えるのは完全な間違いである。旧約聖書には、メシアの犠牲による救いが書かれている。そして、復活についても書かれている。ユダヤ人たちは先祖以来ずっとそれを待ち望んできたのであり、パウロがその成就を告げたことで逮捕されるというのはおかしな話である。

 パウロは新しい、別のことを教え始めたのではない。教会とは、イスラエルから分かれ出た別のものではない。教会はイスラエルの希望の成就を告げているのであり、教会は真の意味でイスラエルそのものである。ロマ書4章にも、アブラハムの信仰を受け継ぐものがアブラハムの子孫であると書いてある。

 宗教改革もまた、新しい教えではなく、聖書に立ち返っただけである。私たちはいつも旧約聖書と新約聖書に立ち返る。そして、そこに書かれている、三千年以上前から人々が待ち望んでいた希望とその実現を宣べ伝える。それは、罪の赦しと復活、そして永遠に神と共に生きるという希望である。

2024年6月30日
使徒言行録 9:36-43

「生命の回復」 牧師 永瀨克彦

 「主を賛美するために民は創造された」(詩編102:19)。タビタはまさに主を賛美した人であった。賛美の中心はもちろん礼拝であるが、礼拝から遣わされて、私たちは日常のあらゆる行いを通して主を賛美するのである。彼女はたくさんの善い行いや施しをして人々を助けた。人々はタビタを愛し、タビタを通して主を愛した。人々が主を讃えるようにすること。これ以上の賛美はない。

 タビタが死んだとき、人々は深く悲しんだ。そして、ペトロを呼び、泣きながらタビタと一緒に作った上着や下着を見せた。

 当時は現代以上に女性が活躍するのが難しい時代であった。つまり、主を賛美することが難しい時代であった。それは罪の働きである。罪は人間が神を賛美することを妨げる力である。タビタはこの罪の力に抗って懸命に主を賛美する生活を送った人物であった。

 しかし、罪の力は強力なので、ついにはそのタビタをも飲み込み、普通であれば永遠に神を賛美できない状態にしてしまった。これが死である。しかし、主イエスはタビタを死から甦らせ、再び主を賛美することができるようにしてくださったのである。これが恵みである。

 復活したタビタを見た人々はこのことをヤッファ中に広め、多くの人が主を信じた。繰り返しになるが、これ以上の賛美はない。私たちは、主イエスから新しい命をいただいている者である。私たちはただその姿を現すだけでよい。ともし火をわざわざ升の下に隠すのではなく、通常通りテーブルの上に置く。つまり、救われた喜びをもってただ生きるだけでよい。そのような、主を賛美する生活を送っていきたい。

エフェソの信徒への手紙 2:11-22

「異邦人の救い」 牧師 永瀨克彦

 「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」。

 ユダヤ人たちは、手による割礼を誇っていた。そして、割礼の無い異邦人を蔑んでいた。しかし、それは自らの手で、自らの善い業で救いに至ると考えることに他ならない。この手紙は、救いとは神の愛であることを思い起こせと説いている。

 私たちは、自分たちが善い行いをしたから救われたのではない。そうではなく、キリストの血によって、つまり十字架の贖いによって「近い者」となったのである。

 救いとは、神の近くにいることができるということである。神と共に生きることができるということである。多くの宗教は御利益宗教だろう。御利益宗教では、神の近くに行くというのは手段でしかない。「近くに行けることは分かったが、ではその結果どんな良いことがあるのか」「病が治るのか。願いが叶うのか」そのことばかりに関心が向かうことだろう。しかし、キリスト教においては、神の近くにいることができるということ自体が救いであり、最大の喜びなのである。神に感謝し、神と共に生きる。それが恵みである。

 ただ、近いというだけではない。私たちはキリストの体である教会に連なるものとされた。私たちは常に主と共にあるのである。

ヘブライ人への手紙 12:18-29

「天のエルサレム」 牧師 永瀨克彦

 「あなたがたは(…)燃える火、暗闇、暴風、ラッパの音(…)に近づいたのではありません」(12:18-19)。「その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら『わたしはおびえ、震えている』と言ったほどです」(12:21)。シナイ山に神が降り律法をお授けになったとき、民は山に近づくことを禁じられた。それは、罪人が神を見れば必ず死んでしまうからである。罪人が義の前に立つならば、裁かれる他はないからである。神が民を遠ざけたのは民を守るためであった。

 しかし、今や私たちが到達したのは、このような裁きではない。私たちは赦しに到達したのだとこの手紙は語るのである。主イエスは天使でもなければ、最も優れた預言者という訳でもない。つまり、主イエスは「神の次に優れた者」ということではなく、神と等しいお方であり、神である(1-4章)。そして、この神が大祭司となってくださり、私たちと神との間を取り成してくださった(5-11章)。この大祭司は十字架において、ご自身の血によって永遠の贖いを成し遂げられた。この取り成しは人間の大祭司の取り成しとは根本的に異なる。この贖いは完全であり、それゆえに一度きりのものである。主イエスの犠牲は繰り返す必要はないし、繰り返そうとしてはならない(7:27,10:10)。私たちは、罪を赦してもらうために礼拝をしているのでは断じてない。何度も主イエスを十字架につけてはならない。私たちは赦しに到達した。私たちの全ての罪は二千年前に既に赦されている。私たちはそのことを喜び、感謝して主をほめたたえているのである。それが、私たちの礼拝なのである。

2024年6月9日

ヨハネの手紙Ⅰ 2:22-29

「信仰の道」 牧師 永瀨克彦

 ヨハネの手紙は、互いに愛し合いなさいと勧めている(4:7)。そして、そうすることが神の内にとどまることであると語る(4:16)。それは、神の内にとどまるからこそ人を愛することができるということでもある。神の内にとどまるとは、神が私たちを愛してくださったことを知るということである。神が私たちのために独り子を十字架につけてくださったことを信じるということである。この神の愛がなければ、私たちは互いに愛し合うことができない。

 この手紙で何度も繰り返されていることは、主イエスは本当に現れてくださったということである。当時、グノーシス主義という考えが流行し教会を蝕んでいた。彼らは、霊は善いものであり、肉は汚れたものであり、人間は霊を高め肉の牢獄から解放しなければならないという霊肉二元論を説いた。彼らは神の子が人となって世に来てくださったこと(受肉)を否定した。至高の霊が汚れた肉をまとうなどということは彼らに取って受け入れがたかったからである。彼らに取ってイエスとは霊を高める知識でしかなかった。

 この手紙は、この考えを激しく批判している。グノーシスは十字架に示された神の愛を見えなくさせているからである。主イエスが本当にこの世に来てくださり、十字架についてくださった。ここに神の愛がある。知識ではなく、十字架と復活が私たちの救いなのである。十字架と復活の信仰により神の愛を知ることで、私たちは初めて互いに愛し合う者となるのである。

2024年6月2日
ローマの信徒への手紙 10:5-17

「神の民の誕生」 牧師 永瀨克彦

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」

 イスラエルは、神からの律法をいただいていた。それは、本来は人間を神への信頼へと向かわせるものであった。救いは神から来るということを、イスラエルも初めは分かっているはずであった。しかし、すぐにそれでは不安で仕方がなくなった。神は目に見えないし、その神の約束はもっと目に見えないからである。だから、律法を守るという自分の目に見える行い、成果に頼りたくなった。律法を守っているのだから救われると思えば安心できるからである。しかし、これは偶像崇拝であり、モーセがなかなか下山せず不安になった民がアロンに金の子牛を造らせたのと同じなのである。  しかし、私たちには、既に福音が与えられている。主イエスの十字架と復活の救いは既に成し遂げられており、完全なものとして私たちのところにある。だから、「誰かそれを取ってきてくれればなあ」などと言う必要はない。救いのために律法を守ったり、何か他の教義を生み出す必要はない。ただ、既に完全に与えられている救いを信じ、受け入れるだけで良いのである。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。「救いのために何をするか」ではない。「救ってくださった神にどう応えるか」である。救いを信じ、神の愛を知るとき、初めて自らが何をすべきかが定まってくるのである。

2024年5月26日
テモテへの手紙Ⅰ 6:11-16

「真理の霊」 牧師 永瀨克彦

 「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(6:11)。という一文から今日の箇所は始まる。この言葉の前段、また手紙の冒頭から一貫して語られてきたことは、金銭、またそのための地位を追い求めるなということである。そして、教会の指導者、また全ての奉仕者はそれらを避け、福音を語るものでなければならないというのがこの手紙の主題である。地位を求める者は、自らの利益のためにかえって違う教えを説き始める。主イエスの十字架と復活によって既に救われ、信じるだけでよいということを否定し、自らの教えに従うようと人々を惑わすのである。  教会に仕える者はこれらのことを避けなさいと言われている。金銭を追い求めることが単に下品だとか、不道徳だということを言っているのではない。それは、地上の命が全てだと思うことであり、永遠の命、神と共に生きる命を忘れさせるが故に有害なのである。福音を曲げてでも地上の地盤を固めることに夢中になるのは、それが全てだと思っているからである。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」(6:12)。地上の、目に見えるものに頼りたくなる誘惑に打ち勝ち、永遠の、神との命を望みとし生きるものは幸いである。


2024年5月19日 ペンテコステ
使徒言行録 2:1-11

「聖霊の賜物」 牧師 永瀨克彦

 五旬祭、すなわちペンテコステの日、弟子たちが集まっていると、主イエスが約束してくださっていた聖霊が降った。ここには「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と書かれている。「舌のような形をした」ということではなく、「炎のような舌」が降ったのである。聖霊は私たちを燃え立たせる炎であり、私たちに福音を語らせる舌そのものである。

 聖霊が降ると、弟子たちは皆、あらゆる言語で話し始めた。人々は「この人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と言って驚いた。

これは単に、弟子たちが知らないはずの言語を話したという奇跡の話ではない。人間業ではないことを強調しているのではない。そうではなく、あらゆる言語で、つまり、すべての民に福音がもたらされるようになったということを言っているのである。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」とある通り、彼らはあくまでも神の業、福音を語ったのである。

聖霊により、絶対に福音を届けられないと思っていた人々にそれが届けられる時代が到来した。単に外国の人にということではない。たとえ同じ言語を話す人でも、人間には「絶対に伝えられない」と思われる人はいる。しかし、聖霊によって全ての人が福音を聞くようになったのである。

2024年5月12日
ヨハネによる福音書7:32-39

「キリストの昇天」 牧師 永瀨克彦

 ファリサイ派の人々は主イエスを捕えるため下役たちを遣わした。そこで、主イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。下役たちは、イエスがはるか遠くの離散のユダヤ人に匿ってもらうつもりなのだろうかと思った。

 しかし、主イエスが言われたことはもちろん、復活した後天に昇られるということである。それは弟子たちにとって極めて厳しい言葉である。彼らは地上のどこを捜しても主イエスを見つけることはできないのである。

 それにもかかわらず、何も心配する必要がないということが、37節以降に書かれていることである。主イエスは言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。

 主イエスが言っておられるのは、聖霊のことである。そして、主イエスはペンテコステ(聖霊降臨日)を予告しておられるのである。主イエスを信じる者に、主イエスは聖霊を送ってくださる。聖霊は私たちの内に住んでくださる。それによって、私たちは自身の内に、常に主との豊かな交わりを持つのである。地のどこを捜しても見つけることができない、天におられる主イエスといつも共に生きることができる。それが私たちの生きる水である。

2024年5月5日
ヨハネによる福音書16:25-33

「わたしは既に世に勝っている」 牧師 永瀨克彦

 「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」。

 主イエスは、父との豊かな交わりを予告しておられた。いまや、予告ではなく、実際にそれを味わう時が来る。

 それは、ペンテコステの日に実現した。弟子たちに聖霊が降り、聖霊が私たちの内に住んでくださるようになったのである。神との豊かな交わりが私たちの内に与えられている。私たちは、主イエスの名によって父なる神に直接祈ることができる。これも聖霊によるものである。

 主イエスが願ってくださるから、私たちは助けていただけるのではない。「愛する子であるイエスの友達だから助けてあげよう」というのではない。父は私たち自身を愛しておられる。

 主イエスは、全ての弟子がご自身を見捨てて逃げることを悟っておられた。しかし、父が共にいてくださるから大丈夫だと言われた。「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」。

 祈ることは、この神との交わりを味わうことそのものである。たとえ、神が祈りを聞いてくださり、願った通りになったとしても、願いが叶ったという結果ではなく、神に祈ることができることそれ自体が私たちの恵みなのである。父が共にいてくださる。そのことを、祈りを通して日々味わい、安心して生きることができることは幸いである。

2024年4月28日
ヨハネによる福音書15:18-27

「聖霊の実」 牧師 永瀨克彦

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい。もしあなたがたが世から出た者であるなら、世はあなたがたを自分のものとして愛するだろう。だが、あなたがたは世から出た者ではない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。

 世が聞き慣れた言葉を語るなら、世はその人を愛する。しかし、世に馴染みの無い言葉を語るなら、世はその人を憎む。驚くような、ギョッとするような言葉を語るなら、世はその人を拒み、警戒する。これは当然のことである。しかし、教会とはまさにそのようなものである。

 十字架の贖罪や復活の福音は、世から見れば異質な言葉である。「イエスが十字架で死んだ」ということ自体は、世と同質な言葉である。それは誰にでも受け入れることができる。しかし、その死が私たちの罪の贖いであったというのは異質な言葉である。それは、普通は到底信じることができない馬鹿げた言葉としか思えない。だが、私たちは聖霊によって、神の恵みによってそれを信じるのである。復活も同じである。

 私たちはこの人間を超えた神の言葉を忠実に伝える。そして、そのとき世から憎まれるのは当然なのである。むしろ、世が受け入れることができるようにと、異質な神の言葉を世と同質な言葉に変えてしまうことをこそ避けなければならない。例えば「復活とは心から消えなかったことだ」というような説明は陥りがちな失敗である。私たちはただ、聖霊によって主を証しする(26-27節)。そのとき、迫害だけでなく信仰者も必ず起こされる。

2024年4月21日
ヨハネによる福音書21:15-25

「わたしの羊を飼いなさい」 牧師 永瀨克彦

 主イエスは「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われた。ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えると、主イエスは、「わたしの子羊を飼いなさい」と言われた。

 三度同じ問答が繰り返された。ペトロは主イエスが三度も「愛しているか」と問われるので、悲しくなった。しかし、主イエスは、ペトロが三度「主を愛している」と答えられるようにしてくださったのである。こうして、ペトロが三度主を否んだことが打ち消されている。主イエスはペトロを赦し、主の羊を飼うように命じてくださっているのである。

 それに続いて、ペトロの殉教が予告されている。主イエスが羊に対してされたように、彼も主の羊を飼うであろう。私たちは互いに牧会をする。互いに主の羊の世話をする。それは必ずしも殉教を意味しない。しかし、主がされたように、神を愛し、隣人を愛し、仕え合う。

 それが具体的にどうすることであるのか、私たちは自らに与えられた使命を祈りをもって問う。ペトロは主イエスに、ヨハネが決して死なないという噂は本当かどうか尋ねる。しかし、主イエスは「あなたに何の関係があるか」と言われる。ペトロがなすべきことは他人を気にすることではなく、「私の羊を飼いなさい」という使命に応えることである。私たちはそれぞれ違うタレントや使命が与えられているが、皆主イエスの体であり、それぞれはその部分である。そこに優劣はない。主イエスは私たち一人一人を愛し、命を捨てられた。私たちは自らに向けられた愛に応えれば良いのである。

2024年4月14日
ヨハネによる福音書21:1-14

「復活の主の食卓」 牧師 永瀨克彦

 弟子たちは夜通し漁をしたが、何もとれなかった。明け方、主イエスが岸に立っておられるのが見えた。だが、弟子たちにはそれが主イエスだとは分からなかった。主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた。その通りにすると、魚があまりに多くて、網が上げられないほどであった。

 主によって伝道へと遣わされたものには、必ず多くの収穫があることが約束されている。「伝道どころか、今教会にいる人も減る一方ではないか」と言う声があるのも当然である。しかし、舟の右側に網を打ったときも、とても魚がとれるとは思えない状況であったのである。私たちは、どのような苦境でも、終わりの日にはすべてのものが主を賛美するようになるという希望を常に持っていなければならない。

 ヨハネが「主だ」と言うと、それを聞いたペトロはすぐに湖に飛び込んだ。主と共にいることができるという喜びはこれほど大きいものである。聖書が語る福音とは、主イエスの十字架と復活によって、私たちが神と共に生きることができるようになったということである。福音を他のものにしてはいけない。神と共にいる喜びを見つめたい。  主イエスは炭火を起こし、魚とパンを用意しておられた。そして弟子たちと食事をされた。復活の体は、新しい、霊の体である(Ⅰコリ15:44)。しかし、あくまでも「体」なのである。復活とは霊魂の不死のことではない。私たちは、新しい体を伴って復活させられるのである。そして、天の国において、まさに炭火で魚を焼くような、楽しい主イエスの食卓に与る。それが私たちの希望であり、無味乾燥なものではないのである。

2024年4月7日
ヨハネによる福音書20:19-31

「見ないのに信じる人は幸いである」 牧師 永瀨克彦

 復活なさった主イエスが弟子たちの真ん中に立たれたとき、トマスだけはそこにいなかった。弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。

 主イエスの復活を信じなかったトマスの不信仰をあげつらうこともできる。しかし、主イエスはトマスを叱責なさらない。八日後、主イエスは再び弟子たちの真ん中に立たれた。今度はトマスも一緒であった。主イエスはトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われた。

 主イエスはトマスの不信仰を叱るのではなく、釘跡に手を触れてもよいと言われる。それでも良いから信じる者になるように勧められる。しかし、触れずに信じる者はもっと幸いであり、触れもせず見もしないのに信じる者はそれよりもさらに幸いなのである。

 なぜならば、見ないのに信じる人は、神との深い信頼で結ばれているからである。神が私たちを愛し、信頼してくださっている。それに応えて私たちも神を愛し信頼する。この神との関係に生きることこそ福音であり、主イエスはこの豊かな交わりへと招いておられるのである。

2024年3月31日
マタイによる福音書28:1-20

「主の復活を伝える」  牧師 永瀨克彦

 天使は婦人たちに告げた。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。婦人たちは大喜びで出て行って他の弟子たちに伝えた。これこそが私たちの伝道の本質である。教会は世の人々に何を伝えているのだろうか。何よりも主の十字架と復活という福音を伝えているのである。そして、抑えきれない喜びによってそれをするのである。

 「復活なさったのだ」は、原語では「復活させられた」というような受動態である。受け身形だと、主イエスにはその力がなかったという印象になり違和感があるかもしれないが、主イエスが父によって復活させられたということが重要である。  復活をめぐる理解には両極端の陥りがちな過ちがある。一つは復活を否定したり、あるいは精神的な意味に過ぎないものとして曲解するあり方である。例えば「主イエスの精神や霊が弟子たちの心の中に生き続けたことが復活なのだ」というものが典型である。そして、もう一方の対極には、「イエスは神なのだから、復活なんて当たり前ではないか」というように、復活をあまりにも簡単に片付けてしまうあり方がある。しかし、主イエスは父の御手に全てを委ねて十字架におかかりになった。復活は当然のことではなく、父への信頼と人間への愛によって主イエスは十字架を選んでくださった。後者の考え方はこの信頼と愛の両方を分からなくさせるのである。復活は当たり前のことではなく、死への勝利である。この福音を伝えたい。

2024年3月24日
ヨハネによる福音書18:1-11

「十字架への道」  牧師 永瀨克彦

 主イエスの逮捕の場面は、マタイ・マルコ・ルカのいわゆる共観福音書と、それに対して第四福音書と呼ばれるヨハネでは大きく異なる。前者では、主イエスの弱さが描かれている。主イエスは、十字架とは別の方法がないのか父に問うため、祈るためにゲツセマネに行かれる。一方、ヨハネでは主イエスの強さが強調されている。主イエスは祈るためではなく、主を裏切ったユダがその場所をよく知っていたから、つまり、逮捕されるためにキドロンの谷の向こうへ出て行かれたのである。そして、「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」、進み出て「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、主イエスは「わたしである(原語では「わたしはある」と訳せる言葉)」と言われた。これは、モーセの召命の場面で神が燃える柴の中から「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたことを思い起こさせる。主イエスは神の権威をもってお答えになった。だから兵士と祭司長たちは後退りして、地に倒れた。

 このように、ヨハネは主イエスの強さを強調しているが、そのことで本当に強調していることは、その強い方が十字架にかかり私たちのために弱い者となってくださったということである。

 苦悩の末、人間のために十字架を選び取ってくださったというのは、ヨハネにおいても共観福音書と同じである(12:27)。私たちに対する主イエスの愛がなければ十字架は実現しなかったのである。

2024年3月17日
ヨハネによる福音書12:20-36

「一粒の麦」  牧師 永瀨克彦

 何人かのギリシア人が来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのですが」と言った。聖書において、主を見るとは主を信じるということである。弟子はギリシア人のことを伝えた。すると主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われた。一見、「お目にかかりたい」という願いと話が噛み合っていないように見えるが、主イエスはご自身に従いたいと願う人に、その方法を教えておられるのである。

 その方法とは、主に従うことである。命令を聞くということではなく、主が進まれる道を後からついていくのである。その道とは十字架への道であり、それは「栄光を受ける」ことである。

 自分の十字架を背負って主の後に従う。その最たるものは殉教である。「殉教者の血は教会の種子である」という言葉があるが、殉教者の信仰を見て多くの人が信仰を得たという事実がある。まさに一粒の麦である。

 しかし、主に従うことは殉教することだけではない。地上の命ではなく、神と共に生きる永遠の命を愛することである。生まれてから死ぬまでに良い生き方をすることが全てではない。キリスト者はむしろ死後のことに希望を抱かなければならない。私たちがそのような生き方をするとき、それぞれの地で殉教者の血が流されているのである。私たちは古い命に死に、キリストの復活の命を生きているからである。それが一番の伝道である。

2024年3月10日
マタイによる福音書27:57-66

「確かに死んでくださった主イエス」  牧師 永瀨克彦

 福音書が書かれた頃の初代教会は、復活を否定する外部からの攻撃に晒されていた。「イエスは実は死んでおらず、十字架から下された後、奇跡的に一命を取り留め回復した。それを弟子たちが復活と偽ってイエスを神格化したのだ」と言われたり、あるいは「弟子たちが墓からイエスの遺体を盗み出し、復活したと主張したのだ」と言われたりした。マタイはその両者を真っ向から否定している。

 まずマタイは、主イエスの死はピラトにより確かめられ、埋葬の許可が正式に出されたことを記述する。そして、アリマタヤのヨセフが主イエスを自分の墓に葬り、入り口には岩が転がされ確実に蓋がされたことを強調する。さらに、墓から遺体が盗まれたという主張に対しては、ローマ当局もそれを警戒しており、番兵を置いていたのでありえないと反論する。このようにして、マタイは、主イエスの復活が弟子たちの創作ではなく歴史的な事実であると強く主張するのである。

 復活が事実であると主張する道は困難な道である。それに比べれば、復活は観念的な教えであると答える方がよほど容易な道である。それにも関わらず、マタイや他のすべての新約の記者たちはあくまでも復活の事実性を主張する困難な道を選んだ。なぜならば、それこそが福音の中心だからである。  私たちは、洗礼によって主の死を自分の死とし、主の復活の命を自分の命とさせていただける。つまり、神から見捨てられる死を過去に、既に終え、回復させられた者としていただける。主の死と復活を信じずに、どうしてこの自分の死と復活を信じることができるだろうか。私たち教会も、主の復活を事実として伝える困難な道をあえて行くことが何よりも重要である。

2024年3月3日
マタイによる福音書27:45-56

「なぜわたしをお見捨てになったのですか」牧師 永瀨克彦

 十字架の上で、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。そして、再び大声で叫び息を引き取られた。

 主イエスの弱い姿がはっきりと描かれてる。それは、キリスト教に敵対する人にとっては格好の攻撃材料ともなる。「イエスが神ではないことについては、その男が十字架で処刑されたという事実を指摘するだけで十分である」と言った人もいる。しかし、聖書は主イエスの弱さを覆い隠すのではなく、むしろ鮮明に描く。主イエスが私たちの弱さを担ってくださったところに福音があるからである。

 主イエスは、十字架の上で苦しみ、絶望し、叫び声を上げられた。それは、私たちの代わりに主イエスが引き受けてくださったものである。しかし、それは単に十字架刑の肉体的・心理的な苦痛のことではない。主イエスが味わわれた苦しみとは、神から見捨てられる苦しみである。木に架けられ、神に呪われ、陰府(よみ)に落とされる。神から切り離される。それが主イエスが私たちに代わって引き受けてくださった苦しみ、あらゆる苦しみの中で最大の苦しみである。

 主の十字架と復活によって、私たちは既に神から見捨てられ、そこから復活させられた者としていただいた。だからもう神から見捨てられることはない。永遠に神と共に生きる者としていただいたのである。弱い者となってくださった主イエスのお姿にこそ、この福音が現されている。

2024年3月3日
マタイによる福音書27:27-44

「主をののしる」    牧師 永瀨克彦

 主イエスの死刑判決から、鞭打ちそして十字架の死に至るまで、強調されているのは身体的な痛みよりもむしろ人間による侮辱とそれを黙して受け入れる主イエスのお姿であろう。

 受難節には、主イエスがお受けになった身体の痛みが強調されることがあるかもしれない。確かに、主イエスが耐え難い身体の痛みを味わわれ、それらが全て私たちに代わって受けてくださったものであることは間違いない。しかし、主イエスがお受けになった最大の苦しみは、身体の痛みではなく、十字架において父なる神から見捨てられるという苦しみであったことは忘れてはならない。それこそが私たちが本来受けるはずの苦しみであった。

 マタイは、身体の痛みよりもむしろ、侮辱に対してあえて黙して耐える主イエスのお姿に目を向けるように促しているように思える。主イエスは十字架を担げないほどの暴行を受けているのに、その過程はほとんど描かれていないからである。

 人々は主イエスをののしった。良いときは神をたたえ、悪いときには神をののしる。群衆の姿に自らを重ねずにはいられない。

 人間からの侮辱を黙って受けるのは、主イエスがご自身をののしるまさにその相手のために、十字架を成し遂げようとされるからに他ならない。私たちは、侮辱を黙って受け入れられる主イエスのお姿に、私たちに対する愛を見るのである。

2024年2月18日
マタイによる福音書27:11-26

「血の責任」    牧師 永瀨克彦

 「その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい」。この言葉は、キリスト教徒によるユダヤ人迫害のために利用されてきた歴史がある。しかし、教会がユダヤ人を自分たちとは全く別の存在と捉え、彼らが血の責任を負うのだと、まるで傍観者のように考えることはまことにおかしなことである。この言葉は、イスラエルが待ち望んできた救い主を自らの手で十字架にかけたということであり、私たちはまさにそのイスラエルに加えられた者である。血の責任は私たちにあり、私たちの罪を贖うために主イエスは来てくださった。主イエスは、一部の人たちが十字架にかけたから死んだのではない。そうではなく、主イエスは私たちの(この私の)罪を贖うために十字架にかかってくださったのである。

 ピラトは「この人の血について、わたしには責任がない」と言ったが、ピラトは十字架に責任がない、だから清いのだと考えてはならない。つまり、「だから私も十字架に関わっていないが故にユダヤ人と違って清いのだ」と考えてはならない。もし、ピラトに責任がないなら、ピラトは最も不幸な人である。なぜならば、主イエスはその罪を担わなかったということになるからである。その場合、主イエスはピラトの主ではないことになる。しかし、実際には主イエスはピラトの罪も担って十字架にかかってくださった。血の責任は私たちにある。そして、主イエスは私たちの罪を贖い、私たちの主となってくださったのである。

2024年2月11日
マタイによる福音書27:1-10

「イスカリオテのユダ」    牧師 永瀨克彦

 ユダの自殺の記事がこの位置に挿入されているのは不自然である。祭司長たちがピラトの面前から突如として神殿に移動し、また戻ったことになるからである。それにも関わらずマタイがこの記事をここに置いているのは、直前のペトロの否認の記事と対比させるためである。

 ペトロもユダも、主イエスを裏切ったという点では同じである。また、私たちも同じである。ユダの罪だけは主イエスを売った罪であり、特別であり、永遠に赦されることはないという考え、私たちはユダよりはマシであるという考えは全て間違っている。パウロは自分のことを罪人の頭と呼んだのであり、「ただしユダを除いて」などとは全く思っていなかったはずである。

 だから、ペトロとユダの違いは罪の大きさではなく、罪を犯した後に悔い改めたかどうかである。確かに、ユダは深く悔いている。しかし、悔い改めてはいないのである。ペトロは、自らが主を捨てたことに気づいたとき、主イエスの言葉を思い出したとき、激しく泣いた。自らの強さを信じていた彼は、実際には自分の力ではどうすることもできないと悟った。そして、子供のように泣き主に頼る者となった。一方で、ユダは自分で金を返そうとする。それは、自らの罪を自らの力で贖おうとすることである。

 自分により頼もうとしてきたことを悔い、それだけではなく、神により頼む新しい、幸いな生き方を始めることが悔い改めなのである。

2024年2月4日
マタイ26:31-35、69−75

「主を否むペトロ」    牧師 永瀨克彦

 最後の晩餐のとき、主イエスはペトロのみならず、全ての使徒が主イエスを見捨てて逃げることを予告された。驚くべきことは、それにもかかわらず「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたことである。つまり、「後から着いてきなさい」と主イエスは言っておられるのである。ここには、離反の予告と同時に赦しと招きが語られている。

 弟子たちは、この主の赦しにより頼めば良いのである。しかし、ペトロにはまだそれができない。ペトロは自分の正しさにより頼もうとしている。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。

 しかし、大祭司の中庭で人々に取り囲まれ、「お前もあの連中の仲間だ」と言われたとき、ペトロは三度主を否定した。そのとき、鶏が鳴いた。ペトロは主の言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

 同じ頃、主イエスは館の中で三度正しい証しをされた。主イエスはペトロの弱さを補ってくださる。人間はこの主に頼ることで、主によって正しいものとしていただける。  激しく泣くペトロは、信仰のスタートラインに立っている。彼はついに自らの弱さに気づき、主に頼るものとなることができたのである。

2024年1月28日
マタイによる福音書26:47-68

「黙り続ける主イエス」    牧師 永瀨克彦

 主イエスと一緒にいた者の一人が、剣を抜き、大祭司の手下の耳を切り落とした。主イエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言われた。主イエスは、十字架による人類の救いが実現するために、あらゆる抵抗を避け、黙って従われるのである。

 主イエスが父に願いさえすれば、すぐにでも天が開き、天使の大軍団が介入するという言葉を、私たちは何かの比喩ではなく事実と捉えるべきである。なぜならば、そうでなければ主イエスが十字架を簡単に回避できたのに、私たちへの愛によって回避しなかったのだということが分からなくなってしまうからである。  裁判の場でも、主イエスは様々な偽証に対して「黙り続けておられた」(26:63)。一方、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまった。弟子たちはそのような者であるにも関わらず赦され、後に主イエスを立派に宣べ伝える者として用いられる。私たちは自らの正しさによって救われるのではなく、私たちのためにあえて黙り続け十字架にかかってくださった主イエスの愛によって救われたのである。

2024年1月21日
マタイによる福音書 26:36-46

「しかし、御心のままに」    牧師 永瀨克彦

 主イエスは祈るためにゲツセマネという所に来られた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子に「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われ、少し離れてうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。

 主イエスは十字架を目前にして非常に苦しまれ、それを回避できないかどうか、父なる神に祈られた。ただ逃れられるようにということではなく、人類の救いのために、十字架以外の方法は本当にないのですかということを、主イエスは父に問うておられるのである。

 「イエスは神なのだから全てが分かっていたはずだ」と思われるかもしれない。しかし今、父の御心は子に隠されている。主イエスは予定通りに淡々と工程をこなしたのではない。苦しみ喘いで問い続け、そして最後には人間の救いのためにあえて十字架を選び取ってくださったのである。そこにこそ、主イエスの愛が示されている。  福音は、ただ形式的に神の子の血が流され人間の罪が贖われたということではない。主イエスが私たちを愛し、私たちのために自ら十字架にかかってくださった。この主イエスの愛によって私たちは救われたのである。

2024年1月14日
出エジプト 15:11-16 マタイによる福音書 26:14-30

「新しい出エジプト」    牧師 永瀨克彦

 主イエスがパンを裂き、また杯を取り、「これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われたとき、弟子たちはさぞかし驚いたことだろう。過越の食事の席では、家長がパンを裂いた後、出エジプトの出来事を物語るのが慣わしだったからである。

 主イエスが語っておられるのは、ファラオの奴隷ではなく、罪の奴隷の解放という、新しい出エジプトなのである。聖書が語る福音とは、まさにこれである。私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪の奴隷から解放され、自由とされ、神のもとに帰ることができたのである。

 罪の奴隷とはどういうことだろうか。奴隷は、自分がしたいことを自由にすることはできない。主人が許せば別だが、許さなければ奴隷はそれをすることができない。そして、主人である罪は、奴隷が神に従うことを許さない。だから、罪の奴隷は、神に従おうとしても、それをさせてもらえない。「善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ロマ7:18-19)。

 しかし、私たちは、主イエスによって罪の奴隷から解放され、自由民としていただいた。これによって初めて、私たちは神に従いたいと願えばそれができるようになったのである。主イエスの十字架のおかげで、私たちは、神を礼拝し、日々聖書を通して神の御言葉を聴くような、新しい生き方をすることができるようになったのである。

2024年1月7日
イザヤ書 53:11-12 マタイによる福音書 26:1-13

「主イエスの埋葬の準備」    牧師 永瀨克彦

 主イエスが(ペトロとは別の)シモンという人の家で食事の席に着いておられるとき、一人の女性が極めて高価な香油の入った壺を持ってきて、主イエスの頭に注ぎかけた。

 弟子たちは憤慨して言った。「なぜこんな無駄遣いをするのか。高く売って貧しい人々に施すことができたのに」。

 しかし、主イエスは、この女性は私に良い(原語では「美しい」)ことをしてくれたのだと言われ、彼女は私の体に香油を注いで埋葬の準備をしてくれたのだと説明された。

 果たして、この女性がそこまで考えていたかは分からない。しかし、主イエスへの愛によってこれをなしたことは確かである。その愛を主イエスは喜んでおられるのである。  

香油は、売ればおそらく三百デナリオン以上(現在の価値で言えば三百万円以上)のものであった。また、ほんのひと塗りで十分に香るものだろう。それを食事の席で突然ドバドバ注ぎかけるわけだから、周囲が騒然となるのも当然である。強烈な香りが充満し、食事も駄目になったかもしれない。それは、普通であれば「美しい」光景ではない。しかし、主イエスはそれを美しいと言われる。私たちが主のためにと思って何かをなすとき、外見的には上手くいかないこともあるかもしれない。しかし、心から主のためを思うその愛を、主イエスは一番に喜んでくださるのである。

2023年12月31日
マタイによる福音書2:1-12

「全ての民の喜び」    牧師 永瀨克彦

 東方の博士たちは、救い主のお生まれを告げる星を見て、宮殿へとやってきた。しかし、それを聞いたヘロデ王とエルサレムの人々は不安を覚えた。彼らは変化を望まなかったのである。

 主イエスがもたらしてくださったものは、まさに変化である。主イエスは、私たちを罪の支配から解放してくださり、私たちが神に応えようと望めば応えられるようにしてくださったのである。それが自由である。

 しかし、この変化を受け入れることは、大変なことでもある。まず、自らの罪を見つめ、認め、悔い改めなければならない。その上で、神に喜ばれる新しい歩みを始める。それは、誤解を恐れずに言えばしんどいことである。しかし、そのようにして、自らの十字架を背負い主の後に続く歩みにこそ、真の喜びがある。

 ヘロデやエルサレムの祭司たちは、変化をもたらすメシアを嫌い、現状維持を望んだ。おそらく、現状を保ってくれるメシア、彼らの地位を保証してくれるメシアであれば、彼らは大歓迎したことだろう。要するに、彼らにとって、メシア、また神とは、自分の願いを叶えてくれる存在でしかないのである。

 私たちにも、自分の期待するメシアだけを望む心があるかもしれない。しかし、変化をもたらしてくださったメシアを受け入れ、神と共に新たな歩みを始めるところにこそ真の喜びがあるのである。

2023年12月24日
ヨハネによる福音書1:1-14

「キリストの降誕」    牧師 永瀨克彦

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は神と共にあった」。

 言とはイエス・キリストのことである。初めに、父なる神と子なる神であるイエス・キリストとの豊かな交わりがあった。主イエスは父なる神と共におられた。この、神と共にいるということが、聖書が語る最大の喜びなのである。そして、この神と共にいる恵みに私たち人間を引き入れてくださったのが主イエス・キリストなのである。

 「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。

 人間が造られたとき、それは言によるものであった。つまり、造られたとき、人間は神と共にある恵みにあずかっていた。それは命であり光であった。しかし、人間は光を理解しなかった。

 人間は光を拒み、そのことによって、今暗闇の中で苦しんでいる。そう言われても、そんな覚えはないし、それは所詮神話的な、抽象的な話に過ぎないと思われるかもしれない。しかし、心では善いことを求めていながら、実際にはそれとは正反対の道を選択してしまうということは、誰しも覚えがあることではないだろうか。

 しかし、人間が光を拒んだために今自ら苦しんでいるのであれば、主イエスはもう一度人間を照らすために来てくださる。いや、既に来てくださった。それがクリスマスの出来事なのである。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。

2023年12月17日
マラキ書 3:19-24

「子の心を父に向けさせる」    牧師 永瀨克彦

 「見よ、その日が来る。(……)高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる」、「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」、「わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける」。

 一見すると、悪人たちが裁かれて、正しい私たちだけが裁きを免れる、それ自体が希望であるように見えるかもしれない。しかし、そうではない。救いとは、裁きを免れること、苦しまなくて済むことなのではない。また、今まで自分を苦しめてきた悪人どもを踏みつけて胸がすく思いがすることでもない。そうではなく、救いとは、神に心を向けることができるということなのである。

 ここで書かれていることは、悪人が裁かれて正しい自分が報われる喜びではなく、その日には主を礼拝することを妨げるものは遂に無くなるという希望なのである。そして、そこには、自分自身の内面の罪も含まれるだろう。自分自身が心から神を礼拝できるということ。そして、周りのもの全てが、神によって造られたもの全てが、心を合わせて共に神を礼拝することができるということ。それこそが、わたしたちの喜びなのである。

2023年12月10日
列王記上 22:6-17

「旧約における神の言葉」    牧師 永瀨克彦

 北のイスラエル王国の王アハブは、南のユダ王国の王ヨシャファトを首都サマリアに呼び寄せた。ラモト・ギレアドの土地をアラムから取り返すべく、共に戦ってくれるよう頼むためである。

 ヨシャファトは快諾したが、同時に、「まず主の言葉を求めてください」と言った。そこでアハブは四百人の預言者を集め、戦うべきか、それとも控えるべきか尋ねた。すると預言者たちは皆一様に、「攻め上ってください」と答えた。彼らは王の望みを汲み取って、その通りに答えるだけの存在であり、また、アハブにとっても預言者とはそういう存在でしかなかった。ただ、自らの望む方策に神からのお墨付きが得られればそれでいいのである。

 しかし、ヨシャファトには、預言者とはそういう存在ではないことが分かっている。そこで、「他の預言者はいないのですか」と尋ねたところ、アハブは渋々預言者ミカヤを呼ばせた。ミカヤはいつもアハブの望まない神の言葉を告げるので、アハブは彼を嫌っていたのである。

 神の言葉は、私たちの望み通りのものではない。私たちが望み通りに神に語らせるのではなく、神は自由にお語りになる。そして、私たちが神の言葉を定めるのではなく、むしろ神の言葉によって私たちの方が変えられる。そこに恵みがある。日々聖書を読む時も、聞きたい言葉を聖書に語らせるのではなく、思いがけない神の言葉を、驚きを持って受け入れる。そこに新たにされる喜びがある。

2023年12月3日
イザヤ書 52:1-10

「主の来臨の希望」     牧師 永瀨克彦

 ここには、バビロンからの解放とエルサレムの回復という希望が書かれている。「ただ同然で売られたあなたたちは」とあるが、原語には「同然」という言葉はない。「ただで売られた」とは、何か理由があって売られた訳ではないということ。ただ神が、自由な意思によってイスラエルをバビロンに引き渡されたのであり、イスラエルの行いの結果そうなった訳ではない。王国時代に人々の心が神から離れたのは事実だが、それでもバビロンに引き渡すかどうかはあくまでも神が決めることなのである。

 つまり、イスラエルはバビロンに売られたのは自分たちの悪の結果なのだから、善を積むことでそれを挽回できると考えることはできない。今回のエルサレムへの帰還は、自分たちが神に立ち返ったからであると言って自らの信仰を誇ることはできないのである。エルサレムの回復はあくまでも神からの恵みであることを覚え、自らを誇るのではなく、主を礼拝しなければならない。

 「その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。/彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを」。イスラエルが実際にエルサレムに帰るのはまだ少し先だが、既に民の間に喜びが満ち溢れている。主が先にエルサレムに入ってくださったことを伝令から伝え聞いているからである。教会はまさにこの伝令である。救い主が既に生まれてきてくださり、救いを成し遂げてくださった。だからわたしたちの勝利はもう与えられている。その福音を伝えていきたい。

2023年11月26日
レビ記 19:18  マタイによる福音書 25:31-46

「小さい者にしたことは神にしたこと」 牧師 永瀨克彦

 「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」。

 この箇所は、小さい者に対して私たちが奉仕するように勧められているものだと理解されることも多い。しかし、神からそれが期待されているのは当然としても、人はそれによって天の国に入るわけではないのである。ここで言われている小さな者とは実は私たちのことであり、伝道者のことである。その伝道者を助ける者は、異邦人であっても天の国に入れられるのだということがここで語られている。

 マタイ10章では、主イエスは「下着を二枚持っていってはならない」と言って弟子たちを派遣された。それは、神が必ず必要を満たしてくださるから、それを信じて何も持たずに行きなさいということである。

 今回の箇所でも、言われていることは同じである。伝道者を助ける人が必ず与えられる。神は助け手のことを大いに祝福される。だから恐れずに伝道へと出て行く者となりたい。


2023年11月19日
エレミヤ書 1:7 マタイによる福音書 25:14-30       「多くの賜物」 牧師 永瀨克彦

 主人は、僕の一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン預けて旅に出た。五タラントン預かった僕は、それを用いてさらにもう五タラントン儲けた。二タラントン預かった僕も、さらに二タラントン儲けた。しかし、一タラントン預かった僕は、それを失えば主人から罰せられると考えて、土に埋めて隠しておいた。彼はそれを安全に保管していたことを、主人から褒められるとさえ期待したかもしれない。

 しかし、主人は帰ってきてタラントンを用いた二人の僕を褒め、それを土に埋めておいた僕を厳しく処罰した。

 この「タラントンのたとえ」は「talent(タレント)」という言葉の語源となった聖書箇所である。「タレント」は日本ではすっかりテレビタレントの意味になってしまったが、本来は「才能」、特に神から与えられた才能という意味である。つまり「賜物」のことである。

 この箇所は、神は私たちが神からの賜物を土に埋めず、しっかりと用いることを何よりも喜んでくださることを示している。五タラントンの僕と二タラントンの僕は、儲けた額は全く違っても、それを用いたということで全く同じ言葉で主人から褒められているのである。

 「自分は一タラントンしかもらっていないから何もできない」と思うかもしれない。しかし、一タラントンとは二十年分の労働賃金であり、今の価値で言えば六千万円以上の額である。全ての人は、神から多くの賜物をいただいている。それを用いて伝道するものでありたい。増やした額よりも、いや、減らすことさえあるかもしれないが、それよりも、賜物を用いて働くこと自体を神は一番に喜んでくださる。

2023年11月12日
創世記 39:1-5 マタイによる福音書 24:45-25:13        「愚かなおとめと賢いおとめ」 牧師 永瀨克彦

 賢い五人のおとめはランプと共に油を用意していた。一方の五人の愚かなおとめは油を用意していなかった。花婿が来るのが遅れ、賢いおとめも愚かなおとめも皆眠気がさして眠ってしまった。夜中に声がして、花婿が来たのが分かったが、愚かなおとめは油を持っていなかったので婚宴の席に入ることができなかった。

 油とは、主を待ち望む心である。賢いおとめは、花婿が待ち遠しいからこそ油を準備していたのである。一方で、愚かなおとめの関心事は「今」の楽しみであり、油はそのときが来たら買いに行けばいいと思っているのである。
このたとえは、わたしたちの関心が今にしかないのか、それとも主の再臨という将来に向いているのかを問うている。キリスト教は、地上での一生をより豊かなものにするという、「今」のためにだけにあるのではない。世間一般では、宗教とはあくまでもQOL(生活の質)を向上させるために存在するものだと思われているかもしれないが、そうではない。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(Ⅰコリ15:19)。地上で物質的・心的に豊かに生きることが全てではない。むしろ、主が来てくださり、永遠に神と共に生きるその交わりを完成させてくださることがわたしたちの最大の希望であり、楽しみなのである。

2023年11月5日 聖徒の日召天者記念礼拝
創世記 2:7 ヨハネによる福音書 11:17-27

        「わたしを信じる者は、死んでも生きる」 牧師 永瀨克彦

 「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 主イエスを信じる人は死んでも生きるとはどういうことだろうか。生きていて主イエスを信じる人は決して死ぬことがないとはどういうことだろうか。クリスチャンだって死ぬではないかと思われるかもしれない。しかし、主イエスは確かに、あなたがたは死んでも生きると言われるのである。

 それは、主イエスを信じる人は死んでも神との交わりを持ち続けるからである。神から愛され、神を愛して生きる。それが真の意味での生である。そして、主イエスを信じるならば、死でさえもこの神との交わりを断ち切ることはできない。

死というのは、全てを終わらせる力に見える。それまで何を続けていても、突然死が襲えば、全てはそこで終了させられる。そのように思える。しかし、そうではないことを主イエスが教えてくださった。主イエスは復活し、死に勝利してくださったからである。だから、あらゆるものを終わらせることができる死も、神と人間の愛の交わりを終わらせることはできない。主イエスがそれを守ろうとしておられるからであり、死は主イエスに負けたからである。

2023年10月29日
詩編 42:1-12 マタイによる福音書 24:32-34

            「目を覚ましていなさい」     牧師 永瀨克彦

 「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである」「人の子は思いがけない時に来るからである」。

 終わりの日には、主イエス・キリストが再び天から降って来られ人々を裁かれる、いわゆる最後の審判があるとされている。そこで人は、「主が来られるときには予兆があるだろうから、再臨が近づいたら気を引き締めて裁きを免れれば良い」と考えるかもしれない。しかし、そうした考えは通用しない、主は思いがけない時に突然来られるからである、ということがここで語られている。つまり、人間は、いつ主が来られてもいいように、常に善い生き方をしていなければならないということである。

 それは、一見とても厳しい教えである。どの瞬間を切り取られても義と認められるような生活など、人間に送ることが可能なのだろうか。それが可能だと思うとき、この教えは厳しいものとなる。しかし、実際にはそれは不可能である。むしろ、それができない自らの弱さを認めて、神の救いにより頼むことが大切であり、それが義である。だから、いつ主が来られてもいいような善い生き方とは、いつも神により頼んでいる生き方である。

 常に善い生き方をすることは、大変で辛いことではない。神に頼り、神と共に生きることは、わたしたちの恵みそのものなのである。

2023年10月15日
ゼカリヤ書 14:4-5 マタイによる福音書 25:15-31

           「稲妻がひらめき渡るように」     牧師 永瀨克彦

 「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」。

 「山に逃げなさい」や「屋上から下に降りてはならない」といった言葉は、一見災害(この箇所では特に戦争災害)から命を守る方法を教えているものに見えるが、主イエスはなにもサバイバル術について話しておられるのではない。主イエスが話しておられるのはあくまでも、「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難」である。災害は言うまでもなく非常に大きな苦しみだが、それは、過去・現在・未来と繰り返される苦しみである。そうではなく、人間にとって比類のない最大の苦しみとは、神からの断絶以外にはない。

 それを神が縮めてくださるとはどういうことだろうか。それが、主イエス・キリストの十字架と復活である。主イエスは、わたしたちの罪を背負って十字架にかかり死んでくださった。それは、わたしたちの代わりに神から呪われてくださった、捨てられてくださったということである。その苦しみは、本来わたしたちが永遠に受けるはずのものであった。しかし、主イエスは三日目に復活してくださった。最大の苦しみは縮められたのである。そして、わたしたちは、洗礼を受けるとき、この主イエスの死と復活にあずかる。一度水に沈められるが、神との断絶という真の死の苦しみは縮められ、すぐにそこから引き上げていただけるのである。

2023年10月8日
詩編 113:1-9 マタイによる福音書 24:1-14

            「それから、終わりが来る」     牧師 永瀨克彦

 「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい」「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。

 イエス・キリストの福音とは、十字架と復活による救いは、既に、完全に成し遂げられたという福音である。主イエスは十字架の上で、「成し遂げられた」と言って息を引き取られた。わたしたちは、既に救われている。だから、終わりの日を安心して待つことができる。それがクリスチャンの恵みである。

 それに対して、偽メシアや偽預言者は、「このままでは駄目だ!」と言って人々を不安にさせるのである。キリスト教を自称するカルトは無数にあり、それぞれが「自分たちは他とは違う」と思っているが、「今のままだと地獄に落ちるからこれをしなさい」と教える点で、皆共通している。

主イエスが既に救ってくださっており、わたしたちが今更やらなければならないことなど何もない。ただ、既に救っていただいていたのだということを信じて感謝するだけでよい。それがキリスト教である。一方、救いはまだ先にあり、今のままでは滅ぼされるから何とか頑張りなさいと言って人を脅す宗教は全てキリスト教ではない。これが一番簡単なカルトの見分け方である。既に救っていただいている。その福音を聴き、安心して神と共に生きる者となりたい。

2023年10月1日
箴言 3:5-8 マタイによる福音書23:13-39

            「羽の下に集めるように」     牧師 永瀨克彦

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。

 天の国とは、神の支配が完全になされるところである。御国が来るとは、神の支配が完成することである。だから、天の国に入るとは、神のご支配を喜び、御手に自分自身を委ねることである。神により頼むことである。

 そう考えると、ファリサイ派たちが人々に教えていることは、まさにその逆である。彼らは主により頼むことではなく、自分の力に頼ることを人々に教えている。つまり、律法を頑張って守ることで救われるように教えている。そうやって、彼らは主に頼る能力を人々からどんどん奪っている。それが、自分だけではなく、他人をも天の国に入らせないということである。

 この箇所では、主に頼らないファリサイ派がいかに不幸であるかが書かれている。しかし、それは、あくまで彼ら自身が選び取ったものであって、神はあくまでも彼らを招き続けておられたということが主イエスの口から語られている。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」。  わたしたちには自由がある。その自由をもって、神により頼む幸いを選びたい。神は、わたしたちが自ら神を愛することを選ぶことを何よりも喜んでくださる。

2023年9月24日
出エジプト記 20:2-3  マタイによる福音書 23:1-12

           「先生と呼ばれてはならない」     牧師 永瀨克彦

 「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」。

 牧師を権威だと思ってはならない。もちろん、牧師だけでなく、人を権威だと思ってはならない。真に権威あるお方は神おひとりである。当たり前だが、牧師も信徒も皆、神の前に罪人であり、ただ神の救いにより頼む他ない存在でしかない。その点で、皆平等である。

 しかし、「先生」という言葉を使ってはいけないと律法主義的になり、言葉狩りをしても意味はない。そこに権威という意味を込めるから問題なのであって、単なる敬称として用いるならば、それは「誰々さん」といった言葉と変わりはない。相手を敬い、自らが謙ることはむしろ必要なことである。敬称を用いない結果、相手より自分が上に立つようなことがあれば本末転倒である。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と主イエスは言われるのである。当然、牧師もまた信徒に仕えなければならないし、そうした区別以前の問題で、主イエスの弟子は皆、互いに足を洗い合わなければならない。

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる」。それが、ファリサイ派たちのような、上からの権威、偽の権威である。しかし、真の権威は、下から人を支える。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11:29)。荷を載せるのではなく、代わりに背負ってくださるのが主イエス・キリストなのである。

2023年9月17日
詩編 110:1-7 マタイによる福音書 22:41-45

           「神の子イエス・キリスト」     牧師 永瀨克彦

 主イエスは、ファリサイ派の人々にお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」。単に家系の話ではなく、「どう思うか」、つまり、メシアとはどのようなメシアか、どのような救い主だと思うか、ということを主イエスは問うておられるのである。それに対して彼らが答えた、「ダビデの子です」というのも、やはり血筋のことではなく、彼らは、メシアとはダビデのようなメシアだと考えているのである。つまり、上から強い力によって支配する王、また、他国を押さえつけてくれる王である。彼らは、メシアとはそのような者だと思い、また、そのようなメシアをこそ待ち望んでいるのである。

 しかし、主イエスは詩編を引用し、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」と言われる。主イエスは神の子であり、真のメシアはダビデのようなメシアではなく、謙り、下から救ってくださるメシアなのである。主イエスの十字架と復活こそがわたしたちの救いである。

 つまり、「メシアとはあなたがたが期待するような者ではない」ということを主イエスは言っておられる。その通りであり、メシアとは、わたしたちが期待する以上のお方なのである。人間には、それぞれ自分が求める救いがある。しかし、教会はその求めに合わせて、人々の期待通りの言葉を語るのではない。人々の期待とは異なる、期待を大きく超えた十字架と復活の福音を伝えていきたい。

2023年9月10日
出エジプト記 3:1-6  マタイによる福音書 22:23-33

             「復活を信じる恵み」     牧師 永瀨克彦

 「あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」。律法全体はこの二つの掟に基づいていると主イエスは言われる。一見バラバラのことを言っているように見える律法は、実は全て神を愛しなさいということを言っているのである。だから、それらは、守らないと滅びるから守るのではなく、神を愛するために守るのである。

 隣人を愛することも、神を愛することの実践である。ヨハネの手紙にも、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽りものです。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(Ⅰヨハネ4:20-21)とある。キリスト教を単なる人間愛の教えとして捉えたがる人もいる。しかし、隣人愛は神への愛と結びついている。神への愛を知るためには、神からの愛を知らなければならない。そして、神からの愛とは、十字架と復活に他ならない。  隣人を愛しなさいとは、単に自分を愛してくれる人を愛することではなく、敵をも愛するということである。それは人間の力でできることではない。しかし、主イエスは、まさにご自身の敵であったわたしたちを愛し、代わりに十字架にかかってくださった。わたしたちは、そのことを信じることによって初めて、主に倣い敵を愛することへと押し出される。隣人愛は、信仰によって初めて成し得ることなのである。

2023年9月3日
出エジプト記 3:1-6  マタイによる福音書 22:23-33

             「復活を信じる恵み」     牧師 永瀨克彦

 サドカイ派の人たちが持ち出したたとえは、普段から彼らが復活を否定するために用いていたものだろう。長男が跡継ぎを得ないまま死に、次男が跡継ぎを残すために長男の妻をめとった。しかし、次男も死んでしまい、その弟、さらにその弟と、ついに七人の兄弟が同じようにした。すると復活のとき、その女は誰の妻になるのか、と彼らは問う。確かに、跡継ぎがない場合に、弟が長男の妻をめとらなければならないという規定は、レヴィレート婚と呼ばれるが、律法に定められている。「もし復活などというものがあるのなら、律法に従っているのにこんなに馬鹿馬鹿しいことになってしまう。だから復活はないのだ。」というのが彼らの主張である。

 第一の誤りは、聖書の言葉を、復活を否定したいという自分の願望のために捻じ曲げていることである。レヴィレート婚の趣旨は家名の存続であり、子は弟の子でありながら長男の子であり、妻は弟の妻でありながら長男の妻である。それを、兄弟が妻を取り合うだろうとするのは曲解である。サドカイ派は弟の義務を定めた申命記の言葉を、弟の権利の話かのように曲解している。私たちは御言葉を利用するのではなく、私たちの方が御言葉に服さなければならない。
第二に、彼らは天の国の幸いを、地上の価値観によって測っている。妻を勝ち取ったものが幸せだというのである。そこにはおそらく肉体的な快楽も含まれている。しかし、天の国の幸いは、神との交わり、また、それに基づく人との交わりである。めとることも嫁ぐこともないと言われると寂しいような気もするが、今の価値観では測れない、最も良い交わりを神が与えてくださると、私たちは信じることができる。何よりも、「復活はある」という主イエスのメッセージをここから聞き取りたい。

2023年8月27日
創世記 1:26-28 マタイによる福音書 22:15-22

           「神のものは神に返しなさい」     牧師 永瀨克彦

 ファリサイ派の人々は、主イエスを陥れようとして、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」と問うた。彼らの狙いは、主イエスにそれは違法であると言わせて、ヘロデ派に逮捕させることである。

 主イエスは「これはだれの肖像と銘か」と言われた。デナリオン銀貨にはカエサルの肖像が彫ってある。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。

 神のものを神に返すとは、例えば、神から与えられた収穫の一部を献げものとして献げたり、神から与えられた歌声を用いて神を賛美したりということがあるだろう。しかし、最大のものは、わたしたちが自分自身を神に返すことである。創世記には、神がご自分にかたどって人をお造りになったとかかれている。コインにカエサルの像が刻まれているように、わたしたちには神の似姿が刻まれている。わたしたちは神のものなのである。

 人間は自分が生きたい方向に進んでいくのではない。そうではなく、神のもとに帰り、神が願われる生き方を送っていく。わたしたちが神に返すものでこれ以上のものはないのである。

2023年8月20日
ヨエル書 2:12-14 マタイによる福音書 22:1-14

               「招きに応える」     牧師 永瀨克彦

 主イエスは、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と言われる。王は家来を遣わし、「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。」と言わせる。しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。

 王子の婚宴というのは一度しかない出来事である。そこに招かれるというのも、生涯に一度きりの名誉である。それを断れるというのは、そのありがたみが分かっていないということである。

 礼拝は、まさに天の国における祝宴の先取りである。わたしたちは皆礼拝に招かれているが、それをあっさり断れてしまうならば、それは、礼拝の喜びにまだ気づいていなかったり、または忘れてしまっているからである。

 礼拝は、願いを叶えるための手段ではなく、それ自体が喜びである。また、それ自体が主イエスが救ってくださったことによる成果である。わたしたちは、罪から自由にされたから、神を礼拝できるようになったのである。

 礼拝出席者を増やしたいという思いはある。しかし、ただ「礼拝は出ないといけないものだから」と言って義務感で人を増やそうとしても仕方がない。礼拝それ自体が恵みであり、招きを断るのはもったいないことであると、一人一人に伝わっていくことが大切である。御言葉が語られ、それに応えて神を賛美する。この神との交わり、祝いの席にあずかることが喜びであることを知り、また伝える者となりたい。

2023年8月13日
サムエル記下 12:1-9 マタイによる福音書 21:33-46

                「隅の親石」     牧師 永瀨克彦

 「ぶどう園と農夫」のたとえ。ある家の主人が、ぶどう園の環境をすっかり整え、それを農夫たちに貸して旅に出た。このぶどう園で収穫を得られるのは主人のおかげだが、農夫たちは「自分が汗水流して得たものだから、全部自分たちのものだ」とばかりに、収穫を独占しようとする。彼らは、収穫を受け取りに来た僕たちをことごとく殺す。それでも主人は彼らを信頼し、また僕を送るが、やはり殺されてしまう。最後に主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、自分の息子を送る。だが、農夫たちは、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言って殺してしまった。

 主イエスが「さて、ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」と問うと、祭司長たちは「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は他の農夫たちに貸すにちがいない」と答えた。祭司長たちは「その悪人ども!」と言って憤っている。しかし、実はこの農夫とは祭司長たちのことである。イスラエルは神の預言者たちを何人も殺し、最後に神が遣わした神の独り子さえも十字架につけて殺すのである。わたしたちは、神が悲しまれることをしていてもなかなか自覚がない者である。

 しかし、主イエスは隅の親石となってくださった。わたしたちが主イエスを捨てたこと、十字架がわたしたちの救いとなった。神は、わたしたちの背きの罪を救いへと変えてくださった。だから、主を捨てたことが一巻の終わりなのではない。悔い改め、捨てた主イエスの方に向き直り、「あなたがわたしの真の親石だったのですね」と思い直すならば、そして主イエスを受け入れるならば、わたしたちはむしろそれによって救われるのである。

2023年8月6日
詩編 51:18-112 マタイによる福音書 21:28-32

「後で考え直して」     牧師 永瀨克彦

 主イエスは「二人の息子のたとえ」を話された。ある人に息子が二人いた。「子よ、今日ぶどう園へ行って働きなさい」というと、兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。一方弟は、「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。

 弟とは、祭司長たちのことである。彼らは、自分たちこそ神に従う者だと自負している。しかし、いざ洗礼者ヨハネが来て主イエスを指し示すと、ヨハネを拒絶した。一方の兄とは、徴税人や娼婦たちのことである。彼らは罪人の頭だと見做されていたが、ヨハネが来ると、考え直して神に立ち返った。

 重要なのは、主イエスは「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」と言っておられることである。つまり、主イエスが怒っておられるのは、初めにヨハネを拒絶したことではなく、後からでも考え直すことをしなかったことなのである。真っ先に主に従うのが当然である祭司長たちが信じず、徴税人や娼婦たちが先に信じた。本来、それだけで裁かれてもおかしくないことである。しかし、主イエスは考え直すならば赦されると言っておられる。これは驚くべきことである。  私たちは誰一人として、完全に正しい人はいない。大事なことは自分を正当化することではなく、過ちを犯したとしても後で考え直し、悔い改めることである。悔い改めるならば、神は赦してくださる。なぜならば、主イエスが十字架にかかって死んでくださったことにより、私たちの罪に対する裁きは既に済んでいるからである。だから、安心して自らの罪を認め、悔い改める者となりたい。

2023年7月30日
詩編 119:105-112 マタイによる福音書 21:18-27

「神の権威によって」     牧師 永瀨克彦

 主イエスは、いちじくの木を呪われる。空腹を覚えたので近づいてみたが、実がなっていなかったので、主イエスは木を枯らされるのである。木からしてみれば理不尽な話だが、聖書がこの出来事を記すからには、わたしたちに伝える内容があるはずである。まず、これは福音書が記す唯一の否定的な奇跡だが、奇跡であることに間違いはない。つまり、人間にはできないことであり、主イエスが神の権威をもっておられることを示している。

 そして、主イエスは弟子たちに対し、信仰をもって祈るならば、この木に起こったようなことができるばかりでなく、山に「立ち上がって、海に飛び込め」と言ってもその通りになると言われた。修行を積んだ人、信仰が強い人ならそれができるということではない。それをなさるのは神である。だから、誰でも神がそうしてくださることを求めることができる。そして、それをなさるのは神だから、わたしたちは神が望まないことを祈りによって実現することはできない。

 続く祭司長たちとの論争では、祭司長たちはヨハネの権威は人間のものだと考えていながら、ヨハネを支持する群衆を恐れてそれを公言することができない。つまり、彼らは人間の権威に屈しているのである。

 いちじくの木の奇跡が示しているもう一つのことは、主に応える者となれということである。わたしたちは、善く生きようと思うときに、人間の権威に従って、他人が求める正しさを実践するのではない。ただ、神の権威に従って、主が喜ばれることは何か、日々祈り求め、神に応える生活を送る者となりたい。それは決して人を無視することにはならず、かえって他人に仕える歩みともなるはずである。

2023年7月23日
詩編 8:1-10 マタイによる福音書 21:12-17

              「神殿を清める」     牧師 永瀨克彦

 主イエスは、神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。

 主イエスの過激な行動に戸惑うかもしれない。しかし、神は熱情の神であり、妬む神である。神は人間の心がご自身に向くこと激しくお求めになる。だから、主イエスは激しい思いをもって、人々の心を神に向けて正そうとされるのである。

 神殿で商売をすること自体が悪とは言い切れない。ユダヤはローマに統治されていたが、神殿でローマの貨幣であるデナリオン銀貨を献げるわけにはいかない。だから、ユダヤの貨幣であるシェケル銀貨に両替しなければならず、両替所はどうしても必要だった。また、遠方からの旅行者のために献げ物となる家畜を販売する屋台も必要であった。屋台は、人々が神を礼拝するための助けとなるならば、本来は良い物であるはずである。しかし、実情は、売る者も買う者も、自分の利益のためにそれをしていた。買う者は、神に感謝を献げるのではなく、ただ自分の罪の赦しのために買っていた。主イエスは、商売で儲けていた人だけでなく、買っていた人々も追い出される。  おそらく、当時の人々は神殿が多くの人で賑わっているのを誇りに思っていたのではないか。しかし、いくら大勢の人が集まっていても、皆が自分の利益のために集まっているのでは何の意味もない。わたしたちは、ただ神を礼拝し、感謝をささげるために教会に集いたい。その信仰を神に祈り求めたい。

2023年7月16日
ゼカリヤ書 9:9 マタイによる福音書 21:1-11
「子ろばに乗って」     牧師 永瀨克彦

 主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入られる。エルサレムに入るのは、人間の罪を贖うため、十字架にかかるために他ならない。子ろばに跨られたのは、預言が実現するためであり、ご自身が謙遜なお方であると示すためである。つまり、十字架にかかることで、人間に仕えるメシアであるということである。また、「柔和な方で」というのは、マタイだけが記していることである。それは、十字架という暴力に対して、剣で抗うのではなく、あえてそれを引き受けるお方ということである。人間の救いのために、主イエスは十字架を受け入れられる。

 人々は、自分の服を道に敷いて主イエスを迎えた。それは、王の戴冠式の習わしである。子ろばに乗り、謙遜な者となってくださった主イエスを、人々はまるで、軍馬に跨る尊大な王のように迎える。それこそが人々の理想だからである。人々が求めるのは、十字架で死ぬ弱い王ではなく、生きて軍を率い、ローマを打ち倒してくれる強い王なのである。人々は目の前の主イエスご自身を見るのではなく、自分の理想を投影したイエス像を見ている。  わたしたちは、自分が求めるイエス像ではななく、子ろばに跨る目の前の主イエスご自身を見、受け入れるものとなりたい。人間がイエスに求める理想像は、昔とは変わったかもしれないが、色々な形で今も存在している。社会はキリスト教に、人々の心の支えとなることを期待しているかもしれない。しかし、人間が何を期待していようとも、主イエスは期待に応えるためではなく、ご自身の目的を果たすために来られた。それは、十字架と復活によって人間の罪を贖い、神と人間の関係を回復することである。それは、人間の期待とは違ったが、期待を遥かに上回るものだったのである。

2023年7月9日
イザヤ書 35:1-10 マタイによる福音書 20:29-34

            「喜ぶときが来た」     牧師 永瀨克彦

 二人の盲目の人が、主イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。二人は、主イエスこそイザヤ書35章に予言されたメシアだと確信しているのである。

 主イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。普通に考えて、二人の願いが「目を開けていただきたい」というものであることは明らかである。だから、わざわざそれを尋ねるというのは、なんだか意地悪なのではないかと思われるかもしれない。しかし、主イエスがあえてこれをお尋ねになったのは、二人に、主により頼むという応答を起こさせるためである。果たして二人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と自分の口で答えることができた。そして、主イエスが深く憐れんでその目に触れられると、二人はすぐに見えるようになり、主イエスに従った。

 おそらく二人には、目が治ったらこれがしたいという願いがあったはずである。しかし、二人は主イエスに従った。主に応える。そこに救いの恵みがある。いつの間にかいやされ、主への応答を起こされず、家に帰り幸せに暮らしましたというのでは、実は救いにはならない。  わたしたちは、主イエスの十字架と復活によって救っていただいた。しかし、それを喜ばず、感謝せず生きるなら、せっかく救われた恵みを味わっていないことになる。神に応答するとき、救いの喜びがある。応答の最たるものは礼拝である。礼拝は恵みを得るための手段ではない。救っていただき、神に応えることができるようにされた。礼拝することができるということ自体が、救われた者の恵みそのものなのである。

2023年7月2日
イザヤ書 53:10 マタイによる福音書 20:17-28

            「命を献げるために来た」     牧師 永瀨克彦

 ヤコブとヨハネの母が来て、主イエスに願った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。主イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」。「あなたがたは」という言葉は、この願いが母親だけのものではなく、ヤコブとヨハネ自身の願いでもあることを示している。そして言われた。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。杯とは、主イエスの十字架の死のことである。主イエスは、王座の隣に座ろうとするのではなく、へり下り十字架にかかるご自身に従うことを弟子に要求される。そして、「あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われた。  仕えること、僕となること、それらは全て将来、天の国で報いを受けるためだと思うかもしれない。「今苦労すれば、後で報われる」と思うかもしれない。ヤコブとヨハネはまさにそうした思いで「(盃を飲むことが)できます。(だから天の国では右と左に座らせてください)」と答えたのである。しかし、わたしたちにとって、仕えることは、将来報いを受けるための手段ではない。そうではなく、仕えることは、仕える者となってくださった主イエスに従うことであり、その隣にいることなのである。将来、王座の隣がどうなるかは知らないが、仕える者となるとき、わたしたちは今、主イエスの隣にいるのである。

2023年6月25日
詩編 145:9 マタイによる福音書 20:1-16

           「私の気前のよさを妬むのか」     牧師 永瀨克彦

 主イエスは「天の国は次のようにたとえられる」と言ってぶどう園の労働者のたとえを話された。ある家の主人が夜明けに出かけて行って、一日一デナリオン(大雑把に言って一万円くらい)の約束で労働者をぶどう園に送った。十二時と三時にも出かけ、同じようにした。さらに、五時にも出かけていき、一日仕事が見つからずに立っていた人たちを憐れに思い、雇ってぶどう園に送った。六時になり、主人は最後に来た者から順に賃金を支払った。五時に雇われた人たちが賃金を受け取ると一デナリオンであった。そこで、最初からいた人たちは、もっと多くもらえるだろうと思った。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。彼らが不平を言うと、主人は「あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。(……)自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむとか」と答えた。

 最後に来た人と同じ扱いをされたとき、一デナリオンがあたかも少ないかのように感じてしまう。しかし、実際は、それは十分である。わたしたちは、初めから居た者も、最後に来た者も、完全な救いをいただくのである。教会史上の偉人に比べれば、わたしたちは皆、最後の方にちょろっとやって来たような者である。そのようなわたしたちが完全な救いを受け取るというのは、神の恵みと言う他ない。そして、実はそれは偉人や聖人と呼ばれるような人にとっても同じである。救いに値するほどの人間の善い業というのはあり得ない。人間の世界では報酬は働きによって決まる。しかし、天の国では、報酬は働きとは全く無関係に、ただ恵みによってのみ決まるのである。

2023年6月18日
箴言 17:6 マタイによる福音書 19:13-26

「神の子供となる」     牧師 永瀨克彦

 一人の金持ちの青年が主イエスに近寄ってきて尋ねた。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。永遠の命は、人間が自分の功績で獲得するものではなく、神からの恵みによって与えられるものである。だから、それを得るために何をすればよいかという問いは根本的に間違っている。わたしたちが何かをする前に、神はひとり子を十字架につけてくださったのである。

 主イエスは「もし命を得たいなら、掟を守りなさい」と言われた。十戒、律法を完全に守れる人などいない。主イエスは、こう問うことによって、青年が掟を守れない自分の弱さに気づき、神に依り頼むようになることを期待されたのである。しかし、彼の返答は「そういうことはみな守ってきました」というものであった。このように答えられることが彼の凄さであり、同時に不幸でもあった。事実彼は非の打ち所がないような生活を送ってきたのである。真面目で立派な青年であったに違いない。しかし、事実立派であったばっかりに、彼は自分の正しさに依り頼みたい、依り頼むことができると思ってしまったのである。

 主イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われた。自分の力に頼るとき、人間は神の国入ることはできない。実は金持ちもそれ以外も同じである。ただ自分に頼る誘惑が大きいかどうかだけの違いである。そして、ただ神の恵みに依り頼むとき、人間は針の穴より入りづらい神の国にさえ入ることができる。これもまた、金持ちもそれ以外も同じことである。

2023年6月11日
申命記 24:1-4  マタイによる福音書 19:1-12

「人が離してはならない」     牧師 永瀨克彦

 新約聖書の時代、離縁は妻が姦淫を犯した場合にだけ許されるのか、それとも妻の言動に問題がある場合にも許されるのかという論争があった。そして、好き勝手に妻と離縁し、若い妻を迎えたいと思うような人たちからは、後者の主張が支持を集めていた。

 しかし、主イエスは夫が自分の都合で妻に離縁状を渡すこと自体を否定された。「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。(……)それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 これを単純に「離婚は絶対にいけないのだ」「離婚は罪なのだ」と解釈することはできない。ここで言われていることは、人が離してはいけないということであり、それ以上ではない。神が結ばれたものを神自らが離される可能性には言及されていない。つまり、わたしたちは、自分の欲や思いで離婚するべきではないのである。しかし、暴力やモラハラなど、離婚が必要な場合もあるだろう。新約時代の一部の人々のように、肉の欲によって離婚をするのはもっての外だが、御心に従いそうした結論に至ることはあり得るのではないだろうか。  離婚という極めて私的な決断すら、自分の好きなようにしてはいけない、神の御心に従わなければならないというのは、現代では特に受けの悪そうな考え方である。しかし、自分の欲を追求する先に幸いがあるのではない。信仰によって、配偶者を自分自身の体の一部だと信じ仕えることができることは幸いである。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」。御心に従おうとする人は少ないが、そこに真の恵みがある。

2023年6月4日
哀歌 3:31-33 マタイによる福音書 18:21-35

「赦す力をください」     牧師 永瀨克彦

 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と主イエスは言われる。ここで言われているのは軽微な罪のことではなく、普通の人なら一度だって赦すことができないような罪のことである。ペトロはそれを七度も赦して見せましょうと言ったのであるが、主イエスは七回どころか七の七十倍、つまり、無限に赦しなさいと言われるのである。ペトロのように七回までなら、何とか人間の力でできないこともなさそうである。しかし、普通一度も赦せないことを無制限にとなると、それは人間業ではあり得ない。わたしたちは、赦す力を神からいただかなければならないのである。

 そのためには、まず自分が神から赦していただいたことを知ることである。ある王の家来は、王から一万タラントンの借金をしていた。これは大雑把に言えば6千億円くらいの金である。王は取り立てようとしたが、家来がひれ伏し「どうか待ってください」としきりに願うので、憐れに思って借金を帳消しにしてやった。ところが、家来は帰り道に、自分に百デナリオン(百万円程度)借金している仲間に出会うと、捕まえて首を絞め厳しく取り立てた。そして、仲間が「待ってくれ」と頼んでも赦さず牢に入れた。  この家来は、王が自分を赦してくれたことを知っているが、本当の意味では知らないのである。その憐れみの深さ、恵みの大きさを本当には分かっていない。わたしたちも、イエス・キリストの十字架と復活を本当の意味で知る者となりたい。世界中のほとんど全ての人は、それを知識としては知っている。一方、十字架と復活が、本当に自分自身の救いの出来事であったと信じる人は少ない。しかし、そう信じるとき、わたしたちは自分が既に赦されていることを知る。他者を赦す力は、その信仰を通して神から与えられる。

2023年5月28日
サムエル記下 12:1-9 マタイによる福音書 18:6-14

「小さな者を愛する神」     牧師 永瀨克彦

 「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。

 なんと厳しい言葉だろうと思われるかもしれない。しかし、除名に至る前に、まず二人だけのところで忠告しなさいと言われている。それは、その人が悔い改めた場合、速やかに教会生活に復帰できるようにするためである。また、その後も二人または三人の証人によってその人の問題が証言されなければならない。それは偽証を防ぐためであり、罪を犯した人を守るための規定である。そして、計三度にもわたって忠告がなされ、それでも受け入れない場合に初めて除名となることが定められている。つまり、非常に厳しいと思われるこの規定には、かなりの配慮が含まれていると言える。また、Ⅰコリント5:5には「それは主の日に彼の霊が救われるためです」とある。罪を犯し処分を受けた人も、最後まで悔い改めと救いへと招かれているのである。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」というのは、18:6からの文脈を考慮すると、「兄弟があなたをつまずかせたなら」という意味である。つまり、「兄弟があなたの信仰を失わせ、神から離れさせるようなことをしたなら」という意味である。そのとき、神は原因を取り除いてでも、小さな者一人がつまずくことがないように守ってくださるのである。非常に厳しいこの規定は、わたしたちを守られる神の愛であることを忘れてはならない。除名などの戒規は、「不快な思いをさせられた」等の人間の感情に基づくのではなく、その人が他の人の信仰を失わせ、神から引き離すようなことをしたかどうかという基準によってなされなければならない。

2023年5月21日
サムエル記下 12:1-9 マタイによる福音書 18:6-14

「小さな者を愛する神」     牧師 永瀨克彦

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせるものは、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。……もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」。

 この箇所は、文脈から切り離されて、神の裁きの厳しさを述べている文章だと理解されることもあるだろう。しかし、これは直前の「この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」という箇所の続きである。神は子供をつまずかせる者、つまり、子供を教会から追い出し神から離れさせる者を決して容赦されず、反対にそのような者をこそ教会から切って捨てられるということがここでは語られている。「それを切って捨ててしまいなさい」という言葉は確かに厳しい。しかし、それは、それをしてでも一人の小さな者を守らなければならないという神の愛なのである。そして、その小さな者、子供というのは、わたしたちのことである。わたしたちは皆神の子供なのである。  神は迷い出た一匹の羊ために、九十九匹を山に残してでも捜しに来てくださる。人間の羊飼いであれば、九十九匹を心配して一匹は諦めるかもしれない。しかし、神はこの小さなわたしのために、全てを置いて捜しに来てくださるのである。

2023年5月14日
詩編 71:4-8 マタイによる福音書 18:1-5

「子供のようにならなければ」     牧師 永瀨克彦

 弟子たちは、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに尋ねた。彼らは、皆神に頼らなければならない弱い存在であり、その点で同列であることをわかっていない。自分は他の弟子に比べて、自分の力で生きられると思っている。しかし、それはその分神に頼らなくても良いと思っているということであり、大きな間違いなのである。

 主イエスは一人の子供を真ん中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。  この言葉はしばしば「子供のように純粋にならなければならない」という意味だと理解される。しかし、子供にも悪い心はあることを忘れてはならない。子供の特性として間違いなく言えることは、親に頼らざるを得ない存在であるということである。赤ちゃんは親や、代わりに世話をしてくれる大人がいなければ一日だって生きていることはできない。親は子供を愛し、子供はその愛を喜んで受け入れる。主イエスは、わたしたちもその子供のように、神の愛を喜んで受け入れるものとなりなさいと言っておられるのである。ここで示されていることは、わたしたちは神の子供であり、まず神がわたしたちを子供として愛してくださっているということである。大人はつい、自分の力に頼ろうとする者である。大人は子供より、親に頼ることが不得意なのである。わたしたちは子供を侮ってはならない。自分より優れた点を持つ一人の人間、良いお手本として受け入れ、子供に倣い、自らも神により頼む者となりたいのである。

2023年5月7日
エレミヤ書 31:20 マタイによる福音書 17:22-27

「子供たちは納めなくてもよい」     牧師 永瀨克彦

 主イエスの一行のところに、神殿税の徴収人が来た。主イエスはペトロに言われた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか。それとも他の人々からか」。ペトロが「他の人々からです」と答えると、主イエスは「では子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と言われた。そして、釣りをして最初に釣れる魚の口から銀貨を取り、神殿税として収めるように指示された。

 王は、国民から税を徴収する。それが、王が軍隊を組織し、国民を他国の侵略から守ったり、治安を維持することの見返りなのである。つまり、王は国民を愛するが故に無償で守っているのではない。国民は守ってもらうためには対価を支払わなければならない。だが、王の子供は違う。彼らは守ってもらうために対価を支払う必要などない。王はただ、子供を愛し、守りたいから守るのである。

 ならば、神の子供も同じである。彼らが神殿に税を収めるというのはおかしな話である。神の子供は、税を収めるから守ってもらえるのではない。神はわたしたちのことを、ただ愛するが故に救ってくださったのである。わたしたちは献げ物を献げるのであるが、それは、あちらから徴収される税ではない。そうではなく、救ってくださった神の愛に対するこちらからの自由な応答である。対価は親子の関係には馴染まないが、応答は親子の関係において本質的なものである。親からの一方的な愛で終わらせず、わたしたちも神に愛を返す。そこで初めて、わたしたちは神との豊かな親子の交わりを生きることができるのである。

2023年4月30日
出エジプト記 4:1-9 マタイによる福音書 17:14-20

「山をも動かす信仰」         牧師 永瀨克彦

 ある人が主イエスにひざまずいて言った。「主よ、息子を憐れんでください。〔……〕お弟子たちのところに連れてきましたが、治すことができませんでした」。主イエスはその子をいやされた。

 弟子たちが、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねると、主イエスは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」と言われた。

 からし種は一ミリもないような小さな粒である。弟子たちには、その程度の信仰すらなかったことになる。かつて、主イエスは十二弟子を派遣した際、汚れた霊に対する権能を授けてから送り出した。弟子たちは、神からの力によってのみ、悪霊を追い出すことができるのである。また、弟子たちは、修行をし成長したからその力を得たのではなくて、それは初めから与えられている。だから、どのような弱い者であっても、神からの力により頼む信仰が一ミリでもあれば、悪霊を追い出すことができるのである。弟子たちにそれができなかったのは、おそらく神からの力に頼ることを忘れ、自分の力で何とかしようとしたからである。  わたしたちは、主イエス・キリストの福音を伝え、人々を救いに導くという、困難で恐れ多い働きを、ただ神の力によってのみ成すことができる。「自分にはできないから、もっと優秀な人に任せます」と言うべきではない。それは「自分の力で成す」と思っていることの裏返しである。何十年修行した人も昨日洗礼を受けた人も全く同じであり、神の力に頼るならばそれができるし、自分の力に頼るならばそれはできないのである。

2023年4月23日
詩編 67:1-8 マタイによる福音書 17:1-13

「苦難のメシアの栄光」         牧師 永瀨克彦

 主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて山に登られた。そこで主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていた。

 この光景は、もちろん、主イエスが栄光をお受けになるお方であることを示しているのだが、それは普通人間が思い描くような栄光ではない。つまり、強い王、人間が望むような救い主の栄光ではない。

 主イエスはこの出来事の六日前に弟子たちに死と復活を予告された。そして、山には(ルカの並行記事によると)祈るために登られた。祈られた内容は、おそらく十字架についてであろう。そして、モーセとエリヤと語り合っていた内容も(やはりルカによれば)主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後についてであった。

 雲の中から、父なる神の声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。主イエスは何をもって父から「わたしの心に適う」と言われているのだろうか。それは、人間の救いのために十字架の死を引き受ける決心をされたことをもってなのである。そして、三人の弟子はこれを証言する証人として立てられているのである。わたしたちも、主イエスの栄光とは、苦難のメシアの栄光であることを忘れてはいけない。自分が望むメシア像、イエス像を伝えるのではない。弱いものとなってくださり、わたしたちの代わりに十字架にかかり、復活し、ただそのことによってのみ、わたしたちを救ってくださった救い主、イエス・キリストを伝えなければならないのである。

2023年4月23日
申命記 30:15-20 マタイによる福音書 16:21-28

「命とは何か」 牧師 永瀨克彦

 主イエスは、ご自身の死と復活を三度も予告された。それは、その福音が人間にとってそれだけ受け入れ難いものであることを示している。実際、弟子たちは三度も予告されておきながら、主イエスが逮捕されると見捨てて逃げてしまった。十字架が救いであると理解していなかったからである。

 この箇所で、主イエスは十字架と復活によって人間を救おうとしてくださっている。しかし、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って引き止めようとする。一見主イエスを心配しての言葉にも見えるが、実際には、ペトロは主イエスに対し、自分の願いどおりのメシアでいるように要求しているのである。  人間は、主イエスを自分の思い思いの救い主に仕立て上げようとする。例えば、イエスとは自分が愛されている存在であることに気づかせてくださった救い主、自己肯定感を高め、自信を持って生きられるようにしてくださった救い主だと思うかもしれない。もちろん、それも信仰によって与えられる恵みである。しかし、あくまでも十字架と復活による神との和解、そしてそれによる神と共に生きる生活を通して初めて得られる恵みである。十字架と神の愛は切り離すことができない。このことを忘れ、十字架と復活を取るに足らない迷信、あるいは単なる比喩と考え、イエスの愛だけをありがたがるならば、イエスを単なる愛の伝道師として崇めるならば、それは「主よ、とんでもないことです」と言って十字架の主を拒んだペトロと同じなのである。わたしたちは、十字架へと進んでくださった主イエスをそのようなお方として受け入れなければならない。自分の理想のイエス像を造るのではなく、十字架と復活によって救ってくださった主イエスを受け入れなければならないのである。

2023年4月9日
詩編 98:1 マルコによる福音書 11:1-11

「恐れを抱かせる良い知らせ」 牧師 永瀨克彦

 婦人たちが主イエスの墓に行くと、入り口の石はどかされ、中は空であった。天使は言った。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。〔……〕さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」。

 婦人たちは、いつも優等生であった。主イエスが逮捕されたあと、弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げたが、そんな中でも最後まで十字架を見届けたのが婦人たちであった。だから、ここでも天使の言葉に従ったに違いないと思いきや、そうではなかった。彼女たちは逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、「告げなさい」と言われたにもかかわらず、誰にも何も言わなかった。これは、婦人たちの弱さを強調しているのではなく、むしろ、最も強い弟子たちでさえ、主の復活をすぐには受け入れることができなかったということである。ならば、復活をすんなり受け入れられる人などいないのである。

 わたしたちが伝えているのは、このような、万人に拒絶反応を引き起こさせるような福音である。復活は科学が発展した今の時代には受け入れられないから、聖書を今流にアレンジして伝えようなどと思ってはならない。復活が受け入れられ難いことは、今に始まった話ではない。昔の人は無知だったから無邪気に復活なんて信じていたのだと、昔の人を馬鹿にしてはいけない。婦人たちは逃げ出すし、パウロもアテネで復活の福音を伝えたとき、嘲笑を受けた。聖書は、イエス・キリストの復活が、世間から拒絶され馬鹿にされるような知らせであることを百も承知の上でそれを書いている。それこそが良き知らせだからである。

 十字架と復活。そこにこそ、人間の罪の贖いと神との関係の回復という福音がある。この受け入れてもらい難い福音を、めげずに伝えていきたい。

2023年4月2日
ゼカリヤ書 9:9 マルコによる福音書 11:1-11「主イエス、死ぬためにエルサレムに入る」 牧師 永瀨克彦

 主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入られた。主イエスは、王が馬に乗って戦から凱旋するようにではなく、身を低くし、仕える者として都に入られた。つまり、主イエスは十字架にかかって死ぬためにエルサレムに入られたということである。主イエスの十字架は、わたしたちの罪を背負って死に、それによってわたしたちの罪を贖うものであり、人間に対するこの上ない奉仕である。同じことが主イエスの御降誕に対しても当てはまる。主イエスは、ただ十字架にかかって死ぬためにこの世界に来てくださったのである。

 だから、福音とは、十字架と復活による罪からの贖いに他ならない。そして、それによる神との関係の回復である。しかし、人間は主イエスを自分の好きなような救い主として捉えがちである。この箇所では、群衆は主イエスをダビデ依頼の強力な王として担ごうとする。しかし、それは実際の主イエスとは正反対である。主イエスはへりくだり、弱い者となってくださっているのである。

 わたしたちも、自分の望むイエス像ではなく、主イエスご自身を心の内に迎え入れるべきである。「自分にとっての救いは、イエスの愛によって心が満たされることであり、十字架は求めていない」というならば、それは仕えようとしてくださる主イエスを拒むことである。しかし、洗足のとき、主イエスの奉仕を拒もうとしたペトロは注意を受けた。主イエスは、十字架と復活によってわたしたちを救ってくださった救い主である。

2023年3月26日
詩編 46:1-2 マタイによる福音書 16:13-20

「教会の土台」   牧師 永瀨克彦

 ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」という正しい信仰告白をした。これは驚くべきことである。この時点では弟子たちは主イエスの十字架と復活についての予告を聞いていないし、聞いた後でも、彼らはろくに理解することもできなかった。それにも関わらず、ペトロが主イエスこそ全ての人間を罪から贖う救い主であると告白できたのは、真に神の力という他ない。主イエスは「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言って念を押しておられる。

 だから、ペトロは天の国の鍵を授けられていることを誇ることはできない。主イエスは、ペトロの信仰を指して教会の土台、岩と言われたのであり、その信仰を与えたのは神なのである。

 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」とあるが、18:18では「あなたがたが地上でつなぐことは…」とあり、いわゆる「鍵の権能」は個人のものではなく教会のものであることが分かる。地上で福音を伝え、罪の赦しを宣言し、洗礼を授けることは、まさに神と人間を「つなぐ」ことである。この尊い業を、恐れ多くもわたしたちがなすことができるのは、神がわたしたちに信仰を与え、その岩の上に教会を建ててくださったからに他ならない。わたしたちが自らの権威に頼るとき、教会は倒れる。教会の頭は主イエスであり、わたしたちはその肢(えだ)である。主の権威により頼み、伝道をしていきたい。

2023年3月19日
詩編 145:4 マタイによる福音書 16:1-12

「悪いパン種に注意しなさい」   牧師 永瀨克彦

 ファリサイ派とサドカイ派の人々は、結託して主イエスにメシアである目に見える証拠を見せるように要求した。しかし、主イエスは十字架と復活というしるし以外は与えられないと言われた。

 ファリサイ派とサドカイ派という普段激しく対立する両者が主イエスを陥れる目的で一致している姿は、神の存在すらも認めてやるのは自分であるという驕りが、特定の立場だけでなく、全ての罪人に共通するものであることを示している。

 十字架と復活のしるしは、ファリサイ派とサドカイ派が要求したような目に見える証拠ではない。むしろ、信仰が無い人から見れば十字架は弱さのしるしであり、やはりメシアではなかったことを示す証拠ですらあるだろう。また、復活は信仰によって初めて受け入れられるものである。つまり主イエスは、目で見て信じるのではなく、見ないでも信仰によって信じなさいと言っておられるのである。

 実は見ずに信じるところに恵みがある。神が約束を与え、その約束を人間が神の言葉によって信じるところに、神との豊かな関係がある。この神との関係こそ、救いそのものである。永遠の命とは、この神との関係が永遠に奪われないことである。反対に、仮に証拠を見たならば信じるのは当たり前であり、そこに神との信頼関係も喜びも何もない。わたしたちには、目に見える証拠などよりもずっと素晴らしいものが与えられている。それは御言葉である。信頼する神の言葉を信じて待つ。そこに真の喜びがある。

2023年3月12日
イザヤ書 2:2-3 マタイによる福音書 15:29-39

「全ての民に及ぶ憐れみ」   牧師 永瀨克彦

 主イエスは言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」。主イエスは七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えて裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちが群衆に配ると、四千人が満腹した。

 ここを読んで、「実際には七つのパンで四千人が満腹することはあり得ないから、何かの比喩だろう」とか、「イエスに感銘を受けた群衆が持っていたものを分け合ったのだ」と解釈してもあまり意味はないだろう。ただ奇跡を奇跡として受け止めるときに初めて、主イエスが神の子、メシアであるという福音を受け取ることができる。

 しかし、主イエスはただご自身の神性を示すためだけにこの奇跡を行われたのではない。奇跡のための奇跡ではなく、主イエスは群衆を憐れに思い、養うために奇跡を行われたのである。わたしたちにとっても、十字架と復活の救いは、ただ奇跡が行われたというだけでなく神の愛である。

 直前の「カナンの女の信仰」の箇所では、主イエスは「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」ことが明言されていた。それにも関わらず、主イエスはカナンの女性の娘をいやし、この箇所では異邦人の群れをかわいそうに思い、養われる。つまり、主イエスはその憐れみにより、天の父からの使命に反し、異邦人を救ってしまわれるのである。この神の深い御憐れみにより、本来救いから遠い異邦人であり罪人であるわたしたちは救っていただけたのである。

2023年3月5日
イザヤ書 52:10 マタイによる福音書 15:21-28

「分不相応な恵み」   牧師 永瀨克彦

 カナンの女性、つまり異邦人の女性が主イエスの前に進み出て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、主イエスは何もお答えにならなかった。その後も主イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と言って、彼女を退けようとされた。しかし、彼女が、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言うと、主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とお答えになった。そのとき、娘の病気はいやされた。

 主イエスの態度はあまりにも冷たいのではないかと思われるかもしれない。しかし、わたしたちはまず、神は救いたいと思うものを自由に救う権限を持っておられることを、畏れをもって認めなければならない。そして、わたしは本来救っていただけるようなものではなく、罪人であるということを、やはり謙遜をもって認めなければならない。それが、女性が「主よ、ごもっともです」と言ったことなのである。  その上で、それでもわたしを憐れんでくださいと女性は願った。この謙遜と大胆さの両方を見習いたい。神は、本来救いから遠い罪人を、憐れみをもって救ってくださる。自分の力により頼むのではなく、この女性のように、ただ主の憐れみを粘り強く願い求める者となりたい。

2023年2月26日
詩編 50:14 マタイによる福音書 14:34-15:20

「心から出るものが人を汚す」   牧師 永瀨克彦

 ファリサイ派の人々は主イエスに言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」。彼らは、口から汚れが入ることを恐れていたのである。しかし、主イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すのである」。また、弟子たちに言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪行などは、心から出てくるからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」。

 そもそも、手から汚れが入ることを恐れたことがない現代人からすれば、前半で言われていることはあまりピンと来ず、心から出るものが人を汚すという部分にばかり目がいってしまうかもしれない。よって、この箇所は心に悪意を抱くだけで人は汚れ裁かれるという、非常に厳しい箇所と思われるかもしれない。しかし、主イエスは、口から入るものは人を汚さないという良き知らせを伝えてくださっているのである。それは、心が神に向いていれば、誤って汚れに触れてしまっても汚れることはないということである。もし、口から入ったものが人を汚すなら、いくら心から主を畏れていても、出された食物が汚れていたら、自分の信仰とは関係なしに汚されてしまうことになる。そんなことを恐れて生きる生活はなんとも窮屈で不自由なものに違いない。しかし、キリスト者は余計なことを恐れる必要がなく、ただ心が主に背くことを恐れ、自由に主に応える生活を送ることができるのである。

2023年2月19日
ヨブ記 9:8 マタイによる福音書 14:22-33

「安心しなさい」   牧師 永瀨克彦

 弟子たちは、主イエスが湖上を歩いておられるのを見て「幽霊だ」と言い、恐怖のあまり叫び声をあげた。「大の大人が何を言っているのだ」とおかしく思うかもしれないが、弟子たちは一晩中、暗闇の中で波に悩まされ、おびえきっていたのである。その弟子たちを主イエスは助けに来てくださった。そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。単に幽霊ではないから安心しなさいということではなく、弟子たちは暗闇の中でも波の中でも、はじめから恐れる必要などなかったのである。

 ペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と頼んだ。波が猛っていようと、主が共におられるなら恐れはないと分かったのである。主イエスが「来なさい」と言われると、しばらく水の上を歩き主に近づくことができたが、強い風に気がつくと怖くなり、沈みかけてしまった。主イエスはすぐに手を伸ばし、ペトロを引き上げられた。

 風が吹いたから沈んだのではない、風に気づいたから沈んだのである。つまり、風はずっと吹いていたが、主が共におられることを覚えている間は、ペトロは大丈夫だったのである。  わたしたちは、いつも安心していることができる。風が無いからではない。暗闇の中でも風の中でも、主が共におられるから安心して歩を進めることができるのである。

2023年2月12日
エゼキエル書 34:13-14 マタイによる福音書 14:1-21

「五千人の供食」   牧師 永瀨克彦

 弟子たちは群衆を帰らせようとした。とてもではないが五千人分の食べ物は無かったからである。しかし、主イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。弟子たちが「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と答えると、主イエスをそれを手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちがそのパンを群衆に与えると、すべての人が満腹した。

 神はわたしたちを養ってくださる。ただパンだけではなく、神の言葉によって日々生かしてくださる。そして、それを人々に与えるために用いていただける。わたしたちが持つものは、弟子たちのパンと魚のようにごくわずかでも、主はそれを豊かに祝福し大いに用いてくださる。  「五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹することなどありえない」と言って、「これは、イエスの教えに感銘を受けた人々が鞄から食べ物を取り出して分け合ったのだ。少しずつでも皆で分ければ全員が満たされるのだ」と説明する人もいる。しかし、この個所はそのような、単に助け合いの大切さを説くような小さなものではない。主イエスは奇跡を行われたのである。それは、主イエスが神の子であり、このお方が十字架と復活によってわたしたちの罪を贖われたということをわたしたちに示す。奇跡を奇跡として正面から受け止めなければ、この恵みは決して味わえない。助け合いの大切さは、偉人や学校からも学ぶことができる。教会にしか語れない福音を、ただの道徳の話に引き下げてしまうとは、何ともったいないことだろうか。

2023年2月5日
出エジプト記 20:4 マタイによる福音書 13:53-58

「神のイメージを勝手に作らない」   牧師 永瀨克彦

 主イエスは故郷のナザレにお帰りになった。会堂で主イエスがお教えになられると、人々はその知恵に驚いた。しかし、同時に「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか」と言って主イエスにつまずいた。

 人々の心中には、「素晴らしい教えに聞こえるが、この間まで近所で大工をしていた人が、高名な学者のような言葉を語れるはずがない。やはりどこかが間違っているのではないか」、「ナザレから何か良いものが出るはずがない」という疑いがあったのではないか。人々は「イエスが語るのであれば、この範囲に収まる言葉であるはずだ」という枠をあらかじめ決めてしまっているのである。
 わたしたちも、「神の言葉とはこういうものであるべきだ」と決めつけてしまうことがあるのではないだろうか。薬局で薬を買うように、こういう言葉が聞きたいんだと言って御言葉を聞く時、その枠を超えた御言葉は聞こえなくなってしまう。しかし、御言葉はわたしたちの要求や想像をはるかに超えて、上から語られる神の言葉である。時には耳が痛い言葉、悔い改めに導く言葉もある。しかし、それは、わたしたち以上にわたしたちの必要を知っていてくださる神の言葉である。自分が御言葉を規定するのではなく、御言葉に聴き従い、自らが変えられるとき、わたしたちに真の喜びがある。

2023年1月29日
箴言 2:1-5 マタイによる福音書 13:44-52

「宝を見つけた人は」      牧師 永瀨克彦

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。

 畑に宝が隠されていることを知り、そのまま隠しておく人のような気持を、わたしたちは味わっているだろうか。「この宝は絶対に手に入れたい。他の人に取られるなんて考えられない。どうか他の人に見つかりませんように」そこまでの執着を見せているだろうか。神に従って生きることができる。この恵みは、本当はそれほどまでに奪われたくない恵みなのである。

そして、実際には、この恵みはこのたとえのように隠す必要はない。取り合う必要はない。主イエスは全ての人間の罪を背負って十字架にかかってくださったからである。そして、罪の奴隷から解放し、自由に神に従うことができるようにしてくださった。  これほどまでに自分のものにしたい喜び、取られたくない喜びが、わたしたち皆に与えられている。この恵みが、このたとえほどに大きな喜びなのだということを忘れないようにしたい。何に代えてでも、絶対に手に入れたい。その、神に従って生きるという大きな恵みがわたしたちは既に与えられているのである。

2023年1月22日
詩編 126:6 マタイによる福音書 13:24-43

「毒麦のたとえ」      牧師 永瀨克彦

 主イエスは毒麦のたとえを話された。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。僕たちが主人に「行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。借り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう」と答えた。

 わたしたちの周りには多くの罪がある。戦争や病など、理不尽に思えることがある。また、罪はわたしたちの内側にもある。そうした罪を見ていると、神は存在しないと感じる人も多いだろう。神がいるならこのような悪を放っておくはずがない。また、放っておくならそんな神は善ではないと思うかもしれない。しかし、神は終わりの日にそれらをまとめて焼くために、今はそれらをそのままにしておられる。罪の世でも、わたしたちは主の御支配を信じ安心して良いのである。  毒麦は若い頃は麦そっくりだが、収穫のころには黒ずみ、選別が容易になる。また、毒麦は根が強いので麦まで一緒に抜けてしまう恐れがある。そのため、収穫の時まで待ち、それからまとめて焼くのが毒麦の正しい対処法である。わたしたちは罪が存在することに焦り、自分で対処しようとするべきではない。収穫前に麦と毒麦は似ているため、間違えてしまうかもしれない。また、その判断は正しくても、麦を巻き添えにしてしまうかもしれない。正しく裁くことができるのは神だけである。わたしたちは、罪の現実に焦ることなく、主の御支配を信じ、安心して主の裁きを待つ者となりたい。

2023年1月15日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 13:18-23

「御言葉を聞いて悟る人」      牧師 永瀨克彦

 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれた者を奪い取る。道端に蒔かれたものとはこういう人である」。

 御言葉を聞いて喜んでいても、それがその人の血となり肉となっていなければ、いつの間にか悪い者が来て奪い去られてしまう。しかし、御言葉が深くその人に根付いていれば、持ち去ることはできない。主イエスは、聞くことと、聞いて悟ることを区別される。わたしたちは、御言葉を頭で理解するだけではなく、御言葉によって変えられなければならないのである。

 「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」。

 熱しやすく冷めやすい。これは、自分が変えられることなく、御言葉を自分の願望に沿って理解し喜んでいたというような場合だろう。だから初めは熱烈に喜ぶが、やがて自分の期待通りではないと分かると急に冷めるのである。しかし、御言葉によって変えられた者は、自らの十字架を背負って主の後を歩み始める。

 単に御言葉を聞いて納得し、「そういうことか、良く分かりました」と言って喜ぶのが真の喜びなのではない。御言葉によって変えられ、実際に主と共に生きる新しい生き方を始めるところに、真の喜びがあるのである。

2023年1月8日
詩編 119:97-105 マタイによる福音書 13:10-17

「聞くことができる幸い」      牧師 永瀨克彦

 「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と聞く弟子たちに対して、主イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」とお答えになった。これは驚くべき答えである。群衆には悟ることが許されていないから、たとえを用いて、あえて分からなくさせたと主イエスは言われるのである。

 普通たとえとは、相手が理解できるように用いるものである。しかし、主イエスは相手を分からなくさせるためにたとえをお用いになる。なぜそんな意地悪なことをされるのかと思うかもしれない。しかし、ここには、神の国の秘密は、神の側からの啓示によらなければ、決して人間には理解することができないという厳粛な事実が書かれているのである。

 福音は、たとえ最高峰の頭脳を持った人が、最高の方法で聖書を研究しても、神の許しが無ければ理解することはできない。しかし、わたしたちは、最高の頭脳を持っているわけではないかもしれないが、神の許しによって、主イエス・キリストの十字架と復活による救いについて余すことなく知らされており、それを理解し、信じることができていることを感謝したい。  わたしたちには、福音を知ることが許されている。聞く耳が与えられている。だから、しっかりと御言葉を聞いて、それを受け入れる者となりたい。

2023年1月1日
サムエル記上 1:20-28 ルカによる福音書 2:21-40

「神殿での奉献」         牧師 永瀨克彦

 ヨセフとマリアが幼子の主イエスを神殿で主に献げたとき、ザカリアは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。

 一体、この言葉のどこが祝福だというのか。しかし、シメオンは確かにこれを祝福として語るのである。

 主イエスはわたしたちの反対を受け、わたしたちの心にある思い、罪のために十字架につけられた。それは、母の心を刺し貫いた。そして、それこそがわたしたちの救い、祝福となった。

 主イエスの前に人々は起きもすれば倒れもする。主イエスの福音は悔い改めを必要とするからである。主イエスが十字架で死なれたのは、まことにこのわたしの罪のためであったと認めるとき初めて、わたしたちはその罪の赦しを知ることができる。だから、福音は人間にそのままでいることを許さず、聞く者を二分する。それが、倒される者もいるという厳しさであり、悔い改めなければならないという厳しさである。しかし、この厳しさの中にこそ真の慰めがある。わたしたちは悔い改めることができる。そして、罪の赦しの福音を聞くことができるのである。

2022年12月25日
ミカ書 5:1-3 ルカによる福音書 2:1-20

「大きな喜び」         牧師 永瀨克彦

 主イエスは生まれると飼い葉桶に寝かされた。宿屋には家族が泊まる場所が無かったからである。このことは、主イエスが神の子でありながら、身を低くし、人間に仕える者となってくださったことを意味する。主イエスは人間に奉仕をするために来てくださった。つまり、十字架にかかって全ての人間の罪を贖うために生まれてくださったのである。

 世間では、クリスマスはイエスの誕生日であり、クリスチャンは皆イエスの誕生日をお祝いするために教会に集まっていると思われているかもしれない。しかし、クリスマス礼拝は誕生日パーティーではない。クリスマス礼拝は、主イエスがわたしたちのために十字架にかかって死のうと決意して生まれてくださったことを感謝する礼拝である。だから、主イエスの誕生日を祝うのではなく、祝われているのはわたしたちの方である。わたしたちは、救い主が生まれてくださったことを互いに祝い合い、神に感謝をささげる。

 天使は羊飼いたちに「恐れるな」と語る。羊飼いは、当時のユダヤでは罪人と見なされていた。家畜の世話で安息日を守ったり、神殿で献げ物を献げることができなかったからである。罪人が神の前に出ることは、本来恐ろしいことである。しかし、天使は「恐れるな」と告げる。罪人が罪赦され、神の前に立つことができる。神と共に生きることができる。これこそが、主イエスが生まれてくださり、十字架と復活を通してわたしたちに与えてくださった恵みなのである。

2022年12月18日
イザヤ書 11:1-10 ルカによる福音書 1:26-38

「お言葉通り成りますように      牧師 永瀨克彦

 天使が「マリア、恐れることはない」と言った通り、マリアの身に起こったことは、普通であれば恐ろしくなるようなことである。婚姻前の女性が身ごもれば、姦通を犯したと判断される可能性が高い。婚約中の女性が姦淫の罪を犯した場合、石で打ち殺されなければならないことが律法で定められている。また、永遠にヤコブの家を治める王を生み育てなさいと突然命じられたわけである。これも普通であれば恐ろしいことである。

 マリアも初めは恐ろしく思ったのではないだろうか。「どうして、そのよなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」という言葉には、「そんなはずはない」というだけでなく、「そうであっては困る」という気持ちも含まれているのではないか。

 しかし、天使が「神にできないことは何一つない」と言うと、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と言った。マリアにも自分の計画があったはずである。思い描いた結婚準備と結婚生活があったはずである。しかし、天使が告げたことはそれらすべてを打ち壊すものである。婚約を破棄されるかもしれないし、処刑されるかもしれない。しかし、マリアは、自分の計画を捨て、神の計画が成ることを願った。ここにマリアの信仰の偉大さがある。わたしたちも、自分の計画にこだわらず、主がいつ再び来てくださっても、喜んでお迎えする者となりたい。

2022年12月11日
創世記 45:1-8 マタイによる福音書 13:1-9

「妨げられない計画」        牧師 永瀨克彦

 種を蒔く人のたとえ。このたとえでは、蒔く種の大半は実を結ぶことはない。道端に落ちた種は鳥に食べられ、芽を出すことすらない。石だらけの土に落ちた種といばらの間に落ちた種は、どちらの芽を出すが、実を結ばない。

 種を蒔く人は福音伝道者を指しており、実はその成果である。鳥に食べられ芽すら出ないのももちろん悲しいが、芽が出たのに実を結ばないのはもっとつらい。つまり、初めからなしのつぶてであるよりも、福音を受け入れ、教会の一員となったのに、その兄弟姉妹が躓き、教会を去る。信仰を失うということも現実に起こるのである。この場合、悲しみは一層深刻である。

 わたしたちは、長年教会生活を送っていれば、そのような悲しみを実際に何度も経験する。しかし、希望を捨ててはならない。このたとえにおいて、大半の種は実を結ばないにもかかわらず、良い土地に落ちた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなる。実を結ぶ種は極一部なのに、収穫はあふれんばかりのものとなるのである。ほとんどが上手くいかないからといって、全体が失敗すると考えるのは人間の見方である。神の計画は、そうした多くの失敗や挫折によって挫かれるものではない。多くの困難にもかかわらず、神は計画を推し進めてくださり、神の国を完成させてくださるのである。

2022年12月4日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 12:46-50

「主イエスの兄弟、姉妹」        牧師 永瀨克彦

 主イエスが群衆に話しておられるとき、主イエスの母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。主イエスの家族は、おそらく主イエスを連れ帰りに来たのだろう。マルコによる福音書には、主イエスの家族は、「あの男は気が変になっている」と聞いて取り押さえに来たと書いてある。一族の恥だと思ったのかもしれないし、あるいは純粋に心配して保護しようとしたのかもしれない。いずれにしても、母たちは、主イエスが語っていることを全く理解することができなかったということである。主イエスがなお話しておられるときにやって来て、説教を止めさせようとした。伝道を止めさせようとした。そのことが問題である。

 主イエスは、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言われた。「何と冷たい」と思われるかもしれない。しかし、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と主イエスは言われる。御言葉の伝達を止めさせようとするのは、まさにこれと逆である。主イエスは感情的になって「あなたのことは母とも思わない」と言っているのではなく、「御心に背く者は神の子ではなく、神の独り子である自分と兄弟とは言えない」ということを言っておられるのである。主イエスは肉親を見捨てたのではなく、母と兄弟たちは後に教会の一員となっている。

 この個所の主題は、肉親との決別ではなく、主イエスがわたしたちのことを家族だと言ってくださっているということである。初代教会には、信仰のために家族から切り離された人が大勢いた。しかし、主イエスがわたしたちのことを兄弟姉妹だと言ってくださる。家族からの誤解や無理解に悩むとき、わたしたちにとってもこれ以上の慰めはない。

2022年11月27日
創世記 18:1-5 マタイによる福音書 12:43-45

「主を待ち望むアドベント」  牧師 永瀨克彦 

 アドベントは、ただクリスマスを待つ期間ではない。また、わたしたちは救い主のお生まれを待ち望むのでもない。救い主、イエス・キリストは、二千年前に生まれてくださった。「メシアよ、どうか生まれて来て下さい」という人々の願いは、既に叶えられているのである。アドベントのとき、わたしたちは、主の降誕を待ち望んでいた人々に自らを重ね合わせつつ、終わりの日の主の来臨を待ち望むのである。

 主イエスはたとえを話される。悪霊がある人から出て行き、さまよった後、「やはり我が家に戻ろう」と言って戻ってみると、空き家になっており、掃除をして整えられていた。そこで悪霊はさらにわるい七つの霊を連れて来て住み着く。そうすると、その人の状態は前より悪くなる。

 イスラエルは、これまで偶像を拝み神から離れることもあった。しかし、ヨシヤ王は国中の偶像の祭壇を破壊したし、主イエスの時代の律法学者たちも、潔癖なまでに罪を遠ざけようとしている。それは、家から悪霊を追い出し、家を綺麗に片づけるようなものである。そこまでは素晴らしい。掃除をするのは、来るべき主をお迎えするためだからである。しかし、その肝心の主を拒んでしまえば、主のために用意した広い場所に誤った他の者が入り込んでしまう。待ち望んでいる主イエスを、しっかりと迎え入れることが何よりも大切である。

2022年11月13日
ヨナ書 3:1-10 マタイによる福音書 12:38-42

「主イエスの復活というしるし」  牧師 永瀨克彦 

 ファリサイ派の人々は、「ベルゼブル論争」で主イエスを貶めようとしたが反対に論破されてしまった。そこで、この個所では、「今ここで、あなたがメシアであるという目に見える証拠を出して見ろ」と彼らは迫っているのである。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」とは、ヨハネによる福音書で主イエスがトマスに言われた言葉であるが、今回の個所でも同じことが主題となっている。

 主イエスは、預言者ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたことが、主イエスが三日目に死人の内から復活することのしるしであると言われる。ヨナの出来事が、主イエスがメシアであることのしるしである。

 主イエスは、ファリサイ派の人々に応えてしるしを提示された。しかし、それは彼らが求めていたような目に見えるしるしではない。ヨナのしるしは、結局は信じるしかないものである。当時の人の誰もが知るあの物語が、実は主イエスの復活を指し示しているというのは、信じるしかないものである。主イエスは見て信じるのではなく、福音を聞いて信じるようにと招いておられるのである。  証拠によって信じさせられても、そこに神との交わりはない。しかし、神が御言葉を語ってくださり、わたしたちが、神を信頼するがゆえに神からの約束を信じるとき、神との相互の交わりがある。見て信じるのは当然であり、信仰ではない。神が愛してくださり、その神をわたしたちも信頼するから信じる。そこに恵みがある。だから、主イエスは福音を聞いて信じるように、わたしたちを招いてくださるのである。

2022年11月6日聖徒の日召天者記念礼拝
詩編 102:19 Ⅰテサロニケ 4:13-18

「いつまでも主と共にいることになる」  牧師 永瀨克彦 

 聖徒の日、召天者記念日礼拝をおささげすることが許され感謝である。召天者記念日礼拝は、一つには既に天に召された信仰の先達の歩みを、敬意をもって振り返るひとときであると言える。しかし、それだけではない。このときは、既に召された人も、わたしたちも、終わりの日には復活し、共に主を賛美することができるという福音によって慰められるときでもある。

 パウロは言う。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。

 主イエスの復活を信じるときに初めて、わたしたちは自らの復活、そして愛する人の復活を信じることができる。そのとき初めて、わたしたちには希望がある。そうでなければ、わたしたちはこの世の生活に全ての望みをかることになる。だから、復活の信仰は、キリスト教の沢山ある良い教えの内の一つというのではなく、教会が伝える福音の中核である。

 わたしたちは、既に眠りについた人たちについて希望を持っている。終わりの日に再び相まみえ、共に主を礼拝し、いつまでも主と共にいるという希望である。わたしたちは、過去を懐かしむだけではなく、将来に希望を持っているのである。

2022年10月30日
イザヤ書 55:8-11 マタイによる福音書 12:33-37

「木が良ければその実も良い」     牧師 永瀨克彦 

 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとしなさい」と主イエスは言われる。わたしたちは、主という良い木に繋がるとき、初めて良い実を結ぶことができる。一方、罪という幹からは悪い実しか生まれない。茨をいくら丁寧に育てても、リンゴを実らせることはない。

 「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」。わたしたちは、良い言葉を口にし、良い実を結ぶとき、良い木に連なる枝であることを確認することができる。そして、良い実の中心は礼拝であることを忘れてはならない。神が神として礼拝される。これ以上に本来なされなければならないことはない。そして、造り、生かし、救い、愛してくださっている神に応えて祈り、賛美する言葉、礼拝におけるわたしたちの応答はどれも麗しい、良い言葉である。わたしたちがそのように良い言葉を口にすることができるのは、神によって礼拝に招かれているからである。わたしたちは今、礼拝をささげることができている。まさに、この現実を通して、神はわたしたちが既に救われ、永遠に神のものとされていることを確証してくださっているのである。この恵みを感謝したいと思う。

 礼拝という最大の良い実から押し出され、良い言葉を語っていく者となりたい。

2022年10月23日
イザヤ書 42:1-3 マタイによる福音書 12:22-32

「神の国は来ている」        牧師 永瀨克彦 

 主イエスは、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われた。聖霊が働いているとき、そこに神の国は来ている。もちろん、神の国の完成は将来の出来事である。しかし、聖霊が働くとき、終わりの日に実現するはずの神の支配、神との全き交わりが先んじて与えられるのである。

 教会がまさにそうである。ペンテコステの日、聖霊が降り教会が生まれた。教会の中において、神との全き交わりが実現している。礼拝がそうである。神が御言葉を語ってくださり、わたしたちがそれを感謝し、賛美している。これは豊かな交わりである。こういうわけで、教会の中では、天の国の恵みが先に与えられている。つまり、天の国は既に来ているのである。

 そして、この事実は、将来の神の国の完成が確実であることを保証することでもある。なぜなら、今既に実現しているものは、将来完成することが確実であるからである。つまり、わたしたち教会は、将来神の国が来るということが間違いないということを世に向かって証しする存在である。教会は、世の人々が神の支配の完成に希望を持てるようになるための兆しとなることができる。

今教会の中で実現している、この神との豊かな交わりが世に広まり、遂には完成することを確信して世に伝える者となりたい

2022年10月16日
イザヤ書 42:1-3 マタイによる福音書 12:15-21

「裏通りに届く福音」        牧師 永瀨克彦 

 主イエスは皆の病気をいやし、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、人々がいやしそれ自体をもてはやさないようにするためである。人々がいやしを目的に集まり、ただいやしのみを喜んで帰っていくのでは仕方がない。主イエスを見出し、そのことを喜ばなければならないのである。わたしたちにとっても、いやしはそれ自体が目的ではなく、主イエスが救い主であることを指し示すためにあることを忘れてはならない。

 また、沈黙命令はユダヤ人ではなく異邦人が福音を受け入れるという預言が実現するためでもあった。「彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」。主イエスは、異邦人が福音を聞くために、ユダヤ人が主イエスの評判を聞かないようにされるのである。

 ユダヤ人は選ばれた神の民であり、大通りを歩く者であった。一方、異邦人には、神を知る可能性すら与えられていなかった。わたしたち異邦人は隅に追いやられ、路地裏で肩をすぼめて生きる者であった。しかし、主イエスはその異邦人に御声が届くようにしてくださったのである。主イエスの十字架は全ての人間の罪を背負うものであった。

 主イエスは全ての人間に語り掛け、招いてくださっている。その招きに応える者となりたい。

2022年10月9日
申命記 6:5 マタイによる福音書 12:1-14

「律法の完成」          牧師 永瀨克彦 

 ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたことを批判した。他人の麦を食べることがいけないのではない。律法では、空腹を覚える者が隣人の麦畑に入って食べることが許されている。神は人間が飢えることのないように配慮してくださるのである。だから、ファリサイ派の人々が批判しているのは、弟子たちが安息日に労働したという点である。

 しかし、安息日を守るのは、十戒が書かれている出エジプト記20章を見ると、主が六日の間に天地を創り、七日目に休まれたからである。つまり、安息日には、神こそが天地の造り主であることを覚えることが重要なのであり、ただ単に休めと命令されているから労働すると裁かれるという話ではないのである。このように、律法には、神がそれをお与えになった目的があるはずである。しかし、ファリサイ派の人々はそれを忘れ、律法を守ること自体が目的になってしまった。律法は主に従うためにある。律法全体は、主を愛することと、隣人を愛することに基づいているからである。

 主イエスは、弟子たちの行為は罪にならないと言われた。また、会堂で安息日に手の萎えた人をいやされた。いずれの場合も、主イエスは形式的には律法を破ってでも、人間を生かそうとされたのである。それは、律法を軽んずるのではなく、むしろ真の意味で律法を行うことであった。神は独り子を犠牲にしてでも人間を生かそうとされるお方であり、律法は神の御心に従うためにあるものだからである。人間の命とは、ただ肉体が生きることではない。主に立ち返り、主と共に生きることである。文字面にとらわれ過ぎず、主に応えることで、真に律法を重んじる者となりたい。

2022年10月2日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 11:20-30

「休ませてあげよう」   牧師 永瀨克彦 

 主イエスは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町に、終わりの日に裁きが下されることを宣告された。主イエスがそれらの町で奇跡を行われたのに、悔い改めなかったからである。

 なんて厳しいのだと思われるかもしれない。そんなことを言わずに、全ての町を救ってあげればいいじゃないか、信じる者しか救わないというのは酷いのではないか、信じない者も全て救えばいいではないか、と。しかし、そうした意見は、救いを誤解している。聖書が語る救いとは、神に立ち返り、神と共に生きることができることなのである。だから、それらの町が悔い改めなければ救われないというのは、実は当然のことなのである。そして、主イエスは、それらの悪い町々に出向き、奇跡を行い、悔い改めへと招かれた。そのことが重要である。主のもとに行く資格が無いものなどいない。悪い者こそ、主のもとへ招かれているのである。

 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。そして、わたしたちは主イエスと同じ軛(くびき)を負う。主が隣で、共に荷を負ってくださる。「わたしにはそうする資格がありません」などと言う必要はない。主は正しくない者をこそ、悔い改めへと招いてくださっているからである。正しくあることができず、疲れたわたしたちは、主イエスのもとに行って休むことができるのである。

2022年9月25日
マラキ書 3:19-24 マタイによる福音書 11:1-19

「主の到来に備える」   牧師 永瀨克彦 

 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。これは当時のわらべ歌である。前段は、結婚式の祝うべきときに、祝ってくれなかったという意味である。主イエスはなぜこの歌を持ち出されるのか。それは、人々が、神が行ってくださることに対して無反応だからである。今や、待望のメシアが到来し、祝うべきときなのに、人々は祝わない。そして、自らの救い主が死んでしまう、その十字架のときに、人々は悲しまないどころか、「十字架につけろ」と騒ぎ立てるのである。

 また、断食し、悔い改めるべき時代には、人々はヨハネの断食を馬鹿にし、一方で主イエスが来られた祝宴の時代には、人々は主イエスの飲み食いを非難する。これも先ほどと同じで、人々は神がなさることに応じて自分の在り方を変える気がないのである。

 しかし、断食のときは終わった。今や祝宴のときが開始している。なぜなら、主イエスは復活し、わたしたちが永遠に神との交わりに生きることができるようにしてくださったからである。時代が変わったのだから、わたしたちは振る舞いを変えなければならない。いや、変えることができる。悲しみ顔を伏せる者だったのが、今や、既に救われていることを喜び祝う生き方を送ることが許されているのである。

2022年9月18日
ミカ書 7:1-7 マタイによる福音書 10:26-42

「剣をもたらすために来た」   牧師 永瀨克彦 

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」この主イエスの言葉を聞いて、わたしたちは驚くに違いない。主イエスは平和のために来てくださったのではないのか。人間が剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。そのために主イエスは来てくださったのではないのか。しかし、主イエスは間違いなく、平和ではなく、剣をもたらすために来たと言われるのである。ただ、それは、戦争をしなさい、殺し合いなさい、憎み合いなさいと言っておられるのではない。そうではなく、たとえ、愛する家族から切り離されても、捨てられそうになっても、それでも主に対する忠誠を貫きなさいと主イエスは言っておられる。わたしたちは、主イエスを捨てて家族を取るような者になってはいけないのである。

 信仰のために家族から疎外されるということは、特に初代教会の人にとっては当たり前であった。彼らはイスラエルから離脱したと見なされたからである。しかし、そのような者に対して、主イエスご自身が兄弟であると語ってくださる(12:49-50)。今日の個所は、積極的に家族との対立を勧める個所ではなく、信仰のために親族と疎遠になった者に対する慰めである。それは主に従うという正しい行いの故なのである。そして、主に従う先にこそ、神の愛によってまことに家族を愛する道があるのではないか。

2022年9月11日
エレミヤ書 1:4-10 マタイによる福音書 10:16-25

「話すのは父の霊である」   牧師 永瀨克彦 

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。(…)人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」。

 人々を警戒しなければならないとは、何とも悲しいことではないか。それよりも、「人を信頼しなさい」と言う方が、温かみのある、主イエスらしい言葉だと思うかもしれない。また、道徳的に優れた教えだと思うかもしれない。しかし、これは、人を信頼してはいけないとか、疑心暗鬼にならなければならないということではない。

 福音を伝えるということは、悔い改め、神に立ち返るよう導くことである。主と共に生きるという真の喜びに至るまでに、必ず自らの罪を認める苦しみがある。また、主に従うことは、神を神とし、自分が神のように振舞うことを止めることである。自分のために神を利用するのではなく、神のために自分が合わせなければならない。それは大変なことである。だから、福音を伝えるとき、そこに敵意が生じる。

 人々を警戒しなければならないとは、相手が自分を鞭打つ存在であることを忘れてはならないということであり、それはつまり、相手は福音を伝える対象であることを忘れてはならないということなのである。伝道者は必ず反発を受けるからである。迫害を恐れて伝道を止め、信仰を捨てるようなことがあってはならない。人と仲良くするために主を捨てては本末転倒である。迫害を恐れず語り続けなければならない。しかし、心配してはならない。話すのはあなたがたではなく父の霊である、と主は言われる。

2022年9月4日
出エジプト記 3:10-12 マタイによる福音書 10:1-15

「主の権能によって働く」   牧師 永瀨克彦 

 主イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになり、その後で「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言って派遣された。伝道するために必要なものを、主イエスはあらかじめ与えてくださっているのである。

 十二人の使徒は、伝道するにふさわしかったから選ばれたわけではない。もし、わたしたち人間が、選りすぐりの十二人を選ぶなら、知識の豊富な人や人望が厚い者、人格的に優れた人を選抜するだろう。しかし、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは漁師であり、聖書の知識が豊富なわけではなかった。マタイは徴税人であり、人々からは軽蔑されていた。熱心党のシモンが属する熱心党は極右政党だった。そして、イスカリオテのユダは主イエスを裏切ることになる人物である。彼らは伝道する力を備えているから出かけるのではない。欠けがあるにも関わらず、主が力を与えてくださるから出て行くのである。

 「足の埃を払い落とす」とは、責任が自分に降りかかることはないことのしるし。わたしたちは、福音を伝えたならば責任は既に果たしている。信仰をお与えになるのは神である。それを忘れ、自分の力で何とかしなければならない、信じさせなければならないと思ってはならない。わたしたちは、自分の力ではなく、主の権能によって働くのである。