2019年5月26日
ヨナ書 3:10–4:11 使徒言行録 9:1–19a
「名を呼び遣わす主」 伝道師 永瀨克彦
パウロの回心の出来事は実に簡潔に書かれている。悔い改めに至るパウロの心境などは書かれていない。ただ、主イエスがパウロに出会い、回心させられるからこそ、パウロは主イエスを伝え始めるのである。
実際、パウロは徐々に自らの罪に気づき悔い改めたのではない。彼は直前まで教会を迫害していた。主イエスと会ったのも、教会の人々を捕らえて殺す許可を大祭司からもらうための道のりにおいてであった。彼はそれが正しいと信じ、嬉々として大祭司のもとに向かっていた。
そこで、主イエスはパウロと出会われ、彼を回心させられた。パウロは主イエスを迫害する者から主イエスを伝える者となった。まさに180度向きを変え、主に向かって生きる者となった。それは彼が望んだのではなく、主がそうされたのである。
アナニアは、主からパウロのところにいって目を開くように命じられた。彼は一度はそれを拒もうとした。パウロがどれほど酷い行いを主と教会に対してしてきたかよく知っていたからである。彼は初めは行きたくなかった。しかし、それが主の御心であると信じてアナニアは従った。
ヨナ書では、ヨナもニネベに行くことを拒んで逃げたが、神は彼をそこに向かわせ、ニネベの人々をお救いになった。
わたしたちは望むと望まないとにかかわらず、神によって回心させていただく。従った三人のように、正しく導かれる神に従いたい。
2019年5月19日
イザヤ書 53:1–10 使徒言行録 8:26–40
「福音が告げられる」 伝道師 永瀨克彦
サマリアでの出来事に続いて、この個所でも福音が全ての人にもたらされているということが示されている。ユダヤ人と犬猿の仲であったサマリア人たちへの伝道が成功した。最も伝えるのが難しい敵対する相手にそれができるならば、まだ会ったことのない相手にはなおさら伝道をすることができる。福音は全ての土地に、エチオピア人の、アフリカ人であり宦官である彼のもとにももちろんもたらされるのである。
彼に福音を伝えたのはフィリポである。しかし、彼が自らそこに行こうと思ったのではない。むしろ彼はサマリアに留まって、できたばかりの教会を見守ろうと思ったことだろう。何しろ、彼が向かうことになるのは「寂しい道」である。そんな人通りも少ない場所に行ってはたして良い働きができるだろうか。しかし、天使はそこに行けと告げる。だからこそフィリポはそこに向かう。フィリポを通して宦官に福音を告げてくださるのは神である。
この宦官のために、サマリアの信徒たちは置いて行かれることになる。ルカ15章で主イエスは、「あなたがたに百匹の羊がいて、一匹を見失ったならば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と言われた。神はまさに失われた羊を捜すように、この宦官を見つけ出してくださるのである。彼は福音を聞いて喜び、迷わず洗礼を受けた。
わたしたちが神から遠く離れて生きるとき、神は探し回ってでも見つけ出し連れ戻してくださる。神は今日も、捜し、福音を告げてくださる。
2019年5月12日
箴 言 2:13-20 使徒言行録 8:1-25
「神からの賜物」 伝道師 永瀨克彦
ステファノの殉教の後、エルサレム教会に対して大迫害が起こった。人々はそこに留まっていることができなくなり、各地に散っていった。だがそこで福音が告げ知らされていく。迫害さえも、神は伝道のための力へと変えてくださる。
フィリポはサマリアの町で伝道した。ユダヤ人にとってサマリアは最も近く、最も遠い場所である。彼らはサマリア人を軽蔑していた。そのためサマリア人も当然ユダヤ人を良く思っていなかった。しかし、そこでの伝道が成功する。敵対する相手に福音を伝えるのは、会ったことのない異邦人に伝道するよりもよほど難しいことである。それが実を結ぶならば、福音が到達できない土地はないのである。この世のすべての人間に対して福音は語られる。
サマリアに住む魔術師シモンは、使徒たちが手を置くと人々に霊が与えられるのを見て、その力を金で売ってほしいと頼んだ。
彼は、使徒たちが今持っているその力が、神から与えられたものであることを理解していない。もし金で買えるのだとしたら、その力は支払いに対して得られる当たり前のものに過ぎない。神は、そうではなく、いくら支払っても本来得られないものを、値なしに与えてくださるのである。
主イエスの十字架と復活によって与えていただいた救いは、わたしたちが代価を払って得た当然のものではない。それは神の無償の愛である。救いが神からの賜物であることを思い起こし、その喜びを伝えていく者でありたい。
2019年5月5日
イザヤ書66:1–2 使徒言行録 7:51–60
「ステファノの殉教」 伝道師 永瀨克彦
人々は、ステファノを最高法院に連れて行き、訴える。彼らは、ステファノが律法を破壊しようとしていると主張する。それに対して、ステファノの長い説教がなされる。ステファノが言っていることは、本当に律法を軽んじているのはどちらか、ということである。ステファノはアブラハム、ヨセフ、モーセを神がいかに導き、そして律法を与えられたかを詳細に語る。このことから、彼が律法を重んじるものであることは明らかである。
周囲からは、ステファノは、また教会は革新的であるように見えたのかもしれない。しかし、それは律法を変えるためではなく、むしろ重んじるがゆえのことである。彼は律法を破壊するのではなく、律法を完成させる主イエスを伝えているのである。
反対に、ステファノを訴えた人々こそ律法を軽んじていると指摘される。彼らはまさか自分たちが律法を軽んじているとは思わなかった。彼らはたしかに、そこに記された規定をできるかぎり守って生活していたからである。しかし、律法を守ること自体が目的になるとき、それは律法を重んじていることにはならない。神は律法を通して人間に語り掛けてくださる。その神にお応えするためにこそ律法は用いられるのである。
そのためには「心と耳に割礼を受け(51節)」なければならない。つまり、聖霊によって、その時々に、律法を通して語られる神の言葉を新しく聞かなければならない。何をなすべきか、いつも祈り問うものでありたい。
2019年4月28日
列王記上 8:20–27 使徒言行録 6:1–15
「七人の選出」 伝道師 永瀨克彦
ここには、御言葉を伝えていくために、柔軟に変化する教会の姿が書かれている。世間から、教会は伝統的、保守的な存在と思われているかもしれない。しかし、教会は聖霊が降って誕生して以来、ずっと同じ姿であり続けているのではない。教会の誕生から間もないこのときにすでに、七人が選ばれ、大きな変化が起こっている。変わることのない御言葉を守り続けるために、教会はかえって自身を新しくしていただくのである。
主イエス・キリストの十字架と復活によってわたしたちの罪は赦された。この福音は変わることがない。この福音を教会は守り、伝えていく。ここで生じている、七人の選出という変化も、すべてはそのためである。彼ら七人が担ったことは、日々の食事の分配等である。それは一見、御言葉の奉仕とは関係のない雑務のようにも思える。しかし、そうではない。彼らは何よりも「霊と知恵に満ちた」者として選ばれる。それは、事務能力によってではない。御言葉に仕えるにふさわしいものとして彼らは選ばれる。そして、彼らが働いたことによって、事実、神の言葉はますます広まり、弟子の数は非常に増えていった。彼らは、説教や聖書の解き明かしもしたが、主な働きは事務的なことであった。しかし、それは御言葉のためであり、実際そのために彼らは用いられた。御言葉に仕えている点では、使徒たちと彼らは全く同じなのである。
わたしたちがなす働きもまた、すべては伝道のために用いていただける。主日の奉仕、そして週日の働きもまた、神は用いてくださるのである。
2019年4月21日 イースター
エレミヤ書 31:1-6 ルカ福音書 24:1-12
「生きておられる神」 伝道師 永瀨克彦
婦人たちは、安息日が終わり、夜が明けるとすぐに主イエスの墓へと向かった。彼女たちが到着すると、墓をふさぐ石は横に転がっており、そこに主イエスの遺体は無かった。天使たちは言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。主イエスは生きておられるということが宣言される。その主イエスを墓の中に捜すのは、せっかく主イエスが成し遂げてくださった復活が、まるでなかったかのように考えることである。
主イエスは復活してくださった。そのことによって主イエスは罪を打ち滅ぼしてくださった。もし復活がなかったなら、どうして罪が赦されたと言えるだろうか。死は相変わらず人間を支配したままである。しかし、実際には、勝利したのは死ではなく主イエス・キリストである。主イエスは復活によって死に勝利してくださったのである。主イエスは十字架と復活によってわたしたちを救ってくださった。だから、復活はわたしたちが伝えていく福音の中心である。
天使は続けて、婦人たちに「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と言った。婦人たちは主イエスが約束された復活を思い出した。そのとき、それまで分からなかった空の墓の意味が分かった。主イエスは復活してくださったのである。わたしたちも思い出す者でありたい。主イエスの十字架と復活はすでに成し遂げられた。わたしたちは、思い出すならば、その恵みを十分にいただくことができるのである。
2019年4月14日
イザヤ書 56:1-8 ルカ福音書 22:39-53
「十字架を選ぶ」 伝道師 永瀨克彦
エルサレムに入城してから、主イエスは毎日、昼は神殿で教え、夜はオリーブ山で祈る生活をされた。十字架にかかるその日も、主イエスは同じようにオリーブ山へと向かわれた。ユダの裏切りと追手が迫っていることをよくご存じの主イエスは、彼らが来ることを承知の上でそこに行かれる。主イエスは十字架を選ばれる。
主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、ご自身もすぐ近くで祈り始められた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と言われた。ここでも主イエスは、ご自分の願いを捨て、人間のために十字架を選び取ってくださるのである。
主イエスが祈り終えると、弟子たちは眠っていた。彼らは、主イエスが自分たちのために祈っておられることを知らなかった。また、主イエスが十字架におかかりになったときも、まだそれが自分のためであるとは分からなかった。彼らは眠るものであり続けた。彼らは眠っている間に救われたのである。 目を覚まし、主イエスが私のために十字架にかかり、復活してくださったのだという福音を受け入れるものでありたい。今度こそは誘惑に負けず目を覚まし続けるものでありたい。主イエスはわたしたちが誘惑に陥らないように、信仰がなくならないように祈ってくださる(ルカ福音書22:32)。
歴代誌下 13:12 使徒言行録 5:17-42
「神から出たものであれば」 伝道師 永瀨克彦
使徒たちの手を通して行われた奇跡を見て、また、信徒たちが心を一つにしているのを見て、人々は彼らを称賛した。しかし、あえて仲間に加わろうとはしなかった。
だが病の人々は違った。人々は病人を大通りに寝かせ、ペトロが通りがかるときに影だけでもかかるようにした。彼らは一人残らずいやされた。主を信じるものの数はますます増えて行った。
かつて主イエスは子どもを呼び寄せ、「神の国はこのような者たちの者である」(ルカ18:16)と言われた。子どもは弱く、親にすべてをゆだねなければ生きていくことができない。子が親に頼るように、あなたがたは神に依り頼みなさいと主イエスは言われた。
それは、幼い子どもがそうであるように、わたしたちは本当は神により頼まなければ生きていくことができないということである。病の人々は、病によってそのことをよく自覚していた。
17節以降には、ガマリエルという人が登場する。大祭司たちが使徒たちを妬み、殺そうとする中、彼は「ほうっておくがよい。あの計画が人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」と言った。神がなさることを止めることはできない。
彼は主に逆らうことを恐れた。神と戦っても勝ち目はない(歴代誌下13:12)。しかし、主に従う者は止めることができない神の業に加わることができる。
箴言 6:6-19 使徒言行録 4:32-5:11
「人間を欺いたのではなく」 伝道師 永瀨克彦
初期の教会は、皆がすべての物を共有していた。しかし、それは当然のようにできることではない。バルナバが土地を売ってその代金を捧げたことは特筆すべきことであった。
アナニアとサフィラという夫婦は、土地を売り、その代金の一部を持って来て、「これが全てです」と偽って使徒の足もとに置いた。ペトロは「あなたは人間ではなく神を欺いたのだ」と告げた。結局二人は死んでしまった。
使徒言行録を記したルカは、ルカによる福音書においても、お金に関する記事を多く書いている。それらは他の福音書には見られない。財産はときに神からの祝福のしるしである。しかし、ルカは、それが誘惑の原因ともなりうることをよく知っているのである。
アナニアとサフィラは誘惑に負けている。それは単に金銭による誘惑ではない。単にお金を残しておきたいだけならば、彼らは代金の一部を一部として捧げればそれでよかったのである。しかし、彼らはそれを全部だと偽る。つまり、彼らは、バルナバのように全てを捧げた立派な信仰者だと思われたかったのである。彼らが負けたのは名誉欲である。
問題は、立派だと思われることによって自分の地位、存在を揺るがないものとしようとしたことである。そのとき、彼らは、神によって自分が生かされていることを忘れている。お金や地位という偶像にすがりたくなることがある。しかし、私たちを存在せしめてくださるお方は神おひとりである。
2019年3月24日
エレミヤ書 1:4-8 使徒言行録 4:23-31
「大胆に語る力」 伝道師 永瀨克彦
釈放されたペトロとヨハネが仲間たちのところに戻り、最初にしたことは、心を一つにし、神に祈るということであった。その祈りとは、「主よ、あなたはすべてのものを造られた方です」というものである。それは信仰の告白である。彼らは今、いわば窮地に立たされている。教会に対する弾圧がすでに始まっているのである。そうであるならば、ペトロたちの報告を受けて、まず祈るときに、この窮状から逃れさせてくださいと真っ先に祈っても不思議ではない。
しかし、彼らはまず神への信仰を告白し、そしてそれにつづく祈りにおいても、逃れさせてくださいというのではなく、「大胆に語ることができるようにしてください」と祈った。
つまり、彼らは厳しい状況にあるが、恐れてはいない。神に信頼するとき、彼らは平安を得ることができるのである。
「(あなたは)すべてのものを造られた方です」とは、つまり、今自分たちを脅かしている者たちもまた神の支配のもとにあるということである。
だから、彼らはただ、「目を留めてください」と祈るだけで十分である。主が目を留めてさえくだされば、必ず守っていただける。彼らにはその平安がある。彼らは安心しているからこそ、逃れる術ではなく神のために、大胆に語る力を求めることができるのである。わたしたちもこの平安をいただいている。すべてを統べ治められる神に信頼し、大胆に語る者でありたい。