これまでの説教から

2019年3月17日
イザヤ書 43:8-12  使徒言行録 4:1-22

「唯一の救い主」       伝道師 永瀨克彦

 「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。とペトロは言う。神が人間のために送ってくださった救い主を、人間は十字架につけた。隅に捨て去った。しかし、神はそのようにして捨てられたお方を、かえってその家でもっとも重要な隅の親石とされた。御子を殺した人間の罪を、神は救いへと転じてくださったのである。

 そして、このお方の他、だれによっても救いは得られない。それは、大胆な主張のようにも思える。それよりも、救いに至る道はいくつもあり、各々自分の好きなものを選べば良いと言う方が易しいかもしれない。しかし、ペトロがこのように言うのは自然なことである。それは、すでに主イエスの十字架と復活によって救いは起こったからである。その救いはそれ以前、以後にいくつかあるのではなく一度きりのものである。ペトロはまずこの十字架と復活について語り、だからほかのだれによっても救いは得られないと言っているのである。

 神はただ主イエスの十字架と復活によってのみ、わたしたちを救ってくださった。神の独り子の血によってはじめて贖うことができるもの、それが人間の罪であったのである。受難節の中にあって、このことを知りたい。そして、その上に与えられた救いの恵みを味わう者でありたい。

2019年3月10日
創世記 12:1-9 使徒言行録 3:11-26

「耳を傾ける民」       伝道師 永瀨克彦

 「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました」。ペトロは2章に続き、人間が救い主を拒み十字架につけたにも関わらず、神は人間を救ってくださったということを説く。人間の拒絶、罪の結果さえ、神は救いへと変えられる。それは拒んでもなお与えていただいた救いである。今度こそはそれを受け取りたいのである。

 それを受け取るということをしたのが、この足を癒された男である。彼は「イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と言って差し出された手を拒むことなく掴み、立ち上がった。彼は神から与えられた救いを自分の意志で受け取ったのである。

 そして彼は癒された。それは単に、受け入れる者は病をいやしていただけるという話ではない。病の癒しは、彼が受け取ったさらに素晴らしいものに比べれば重要ではない。病の癒しそれ自体は、主イエスのお名前にはそれだけの力があると言っているだけである。つまり、主イエスご自身のお力はその比ではないのであって、彼はその主イエスご自身をいただいているのである。神は人間の救いのために主イエスの命をお与えくださったからである。

 そして、彼が受け取った病の癒しよりもさらに素晴らしいもの、それと全く同じものを、わたしたちもまたいただいているのである。

 

2019年3月3日
出エジプト記  3:11-14 使徒言行録 3:1-10

「主の名によって」       伝道師 永瀨克彦

 足の不自由な男性がいた。彼は神殿の門のところで境内に入る人々に施しを乞うていた。ペトロとヨハネが祈るために来ると、彼は二人に施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て「わたしたちを見なさい」と言った。続けて「ナザレの人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言うと、その男性はたちまち足がしっかりして立ち上がり、躍り上がって神を賛美した。

 彼は初めから二人を見ていたが、それは単に施してくれる人として見ていたのであって、主イエスを伝える者を見ていたのではなかった。したがって、主イエスの方を見るということも彼にはなかった。だから二人は「わたしたちを見なさい」というのである。

 そして主イエスの名が宣言され、彼は癒された。彼は躍り上がって喜ぶが、それは単に癒された喜びではなく、主イエスを見出した喜びである。そして、主イエスを見出す、信仰をいただくということは、まず主イエスの方から見つめてくださって、「わたしの方を見なさい」と言ってくださることによって実現する。

 彼は初めから主イエスを探したのでもなければ、癒しを求めたのでもない。ただ施し乞うていただけである。しかし、神は彼が求めることも知らなかったものを与えてくださった。それが喜びであるということを、彼は与えられて初めて知ったのである。

2019年2月24日
申命記 15:1-6  使徒言行録 2:43-47

「一つになって」       伝道師 永瀨克彦

 ペトロの説教を聴いた人々は、悔い改めて三千人が洗礼を受けた。彼らはまず、聖霊によって静かに聴き、交わり、祈ることへと促された。熱心な行動を伴うことだけが聖霊の働きではない。彼らはまず御言葉によって養われ、その後伝道に出て行く。

 彼らはすべての物を共有した。それは、家族として生活するということである。その家族とは、主イエスによる家族である。主イエスは聖餐を制定され、主を信じるすべての者を招いてくださった。であるから、教会は主イエスを中心に同じ食卓を囲む家族である。

 彼らは家ごとにパンを裂いた。それは聖餐である。彼らが共有したのは財産だけではなく、彼らはパン、すなわち主イエスの体を共有する。それは主イエスによって与えられた救いを共にいただくということである。

 財産を共有するということは、自分が損をしても相手のために尽くすということである。それは本来、肉親に対してくらいしかできないことである。いや、肉親に対しても難しいこともある。であるから、他人であったこの人たちが、相手を家族として考えるというのは普通はできないはずである。しかし、彼らは聖霊によって主イエスを知った。それは、神が独り子を犠牲にし、自分たちを子供としてくださったことを知ったということである。

 わたしたちは、このことを知ることによってのみ、隣人を家族として迎え入れることができるのである。

2019年2月17日
詩 編 16:1-11   使徒言行録 2:25-42

「何をすべきでしょうか」   伝道師 永瀨克彦

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」とペトロは告げた。これを聞いた人々は、大いに心をうたれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

 「どうしよう、なんということをしてしまったんだ」人々はそう思ったに違いない。自分たちが十字架につけたのは、待ち望んでいた神からのメシアだったのである。聖霊の働きによって人々は心を打たれ、罪の自覚を得た。

 「どうしたらよいのか」と問うた人々は、どのような答えを予想したであろうか。彼らがしたことを思えば、それは厳しい答えであるかもしれない。

 しかし、ペトロの答えは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」というものであった。それだけで良いのである。

 なぜ、神の独り子を十字架につけた人間が、悔い改め洗礼を受けるだけで良いのだろうか。それは、主イエスの十字架と復活によって、すでに救いが与えられているからである。だから、わたしたちは、それを受け入れるだけで良いのである。

 人々は言われた通り洗礼を受けた。それだけで良しとされた。しかし、彼らはその後進んで祈り合うものとなった。救いを知った者は、その恵みに対して自ずから応える者となったのである。

 

2019年2月10日
ヨエル書 3:1-5 使徒言行録 2:14-24

「ペトロの説教」   伝道師 永瀨克彦

 イスラエルに対しペトロは、主イエスこそがメシアであり、あなたがたはその救い主を十字架につけてしまったのだということを告げる。

 それは厳しい現実である。イスラエルは神に選ばれた民である。そして預言されたメシアを待ち望む人々であった。しかし、その彼らが待ち望んだメシアを自らの手で十字架につけてしまったというのである。

 そして、それは律法を知らない者たちの手を借りてなされたことである。彼らは律法ではなくローマの法律、また処刑法に従って、主イエスを磔にした。イスラエルは自ら神のもとを離れたのである

 しかし、そのようなイスラエルを、神は放ってはおかれなかった。神は主イエスを復活させられた。主イエスは人間の罪を担って死に、復活することによって罪と死を打ち破ってくださったのである。

 イスラエルの罪は許された。そして今、ヨエル書を通して「あなたがたは預言するものとされた」という言葉を、彼らは真っ先に聞いている。自ら離れたイスラエルを神は赦し、さらには彼らが再び神の言葉を伝えることさえも許してくださる。イスラエルは回復していただいたのである。

 同じく、わたしたちもまた神の最も近くに置かれながらも、ときにそこを離れてしまうものである。しかし、そのようなわたしたちにもまた、神からの赦しと回復が与えられている。その恵みを知り、離れない者となりたい。

 

2019年2月3日
レビ記 23:15-21  使徒言行録 2:1-13

「聖霊が降る」   伝道師 永瀨克彦

 一同が集まっていると、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。舌のような炎ではなく、「炎のような舌」とここでは書かれている。その通り、聖霊は舌として弟子たちの上に降ってくださった。それは、語らせる力として聖霊が降ってくださったということである。

 聖霊を受けると、一同は聖霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。それはただ出鱈目に話したのではなく、彼らは神の偉大な業を語った(11節)のである。聖霊を受けた者がまずすることは、神をたたえることである。そして、福音はあらゆる国々の、すべての民に向けられている。

 これを見た人々の中には、「あの人たちは、新しいぶどう主に酔っているのだ」と言ってあざける者もいた。それは残念なことであるが、現実である。福音が動揺、不信をもって受け取られることは、この個所においても、また、今日の世の中においても起きている。

 しかし、この話は弟子たちがあざけられたという所で終わっているのではない。その後にペトロの説教があり、そして実に多くの人が悔い改めるという出来事へと続いていく。

 それは、聖霊が語る舌となってくださるからである。聖霊は舌となって、私たちに神をたたえさせまた世に伝えさせてくださる。こうして教会が建てられた。この原点を覚え、聖霊によって主を賛美し伝道へと出て行きたい。

2019年1月27日
エレミヤ書 17:10  使徒言行録 1:12-26

「人の心をご存知である主」   伝道師 永瀨克彦

人々はバルサバと呼ばれユストともいうヨセフとマティアの二人を立て、「すべての人の心をご存知である主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」と祈った。そしてくじを引くと、マティアに当たった。こうしてマティアが新しく使徒に加わった。

もし人が選んでいたら違う結果になっていたかもしれない。ヨセフもまた、優れた人物であったはずだからである。

しかし、神の選びは人間のそれとは異なる。神は人の心をご存知であるからである。神がダビデを王として選ばれたとき、やはり神は心を見てお選びになった。「容姿や背の高さに目を向けるな。(中略)人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16:7)。

 だが、それは単純に心の清いものを神は選ばれるということではない。ダビデもまた純粋とはいえないことは、後の彼の過ちからも明らかである。

 それは、ここで演説をしているペトロについても同じである。彼はユダについて語っているが、主イエスを裏切ったという点では彼も同じである。彼は主イエスを見捨てて逃げ、また三度も主を否んだのである。ペトロ自身、罪人としてユダのことを語っている。

 そのペトロを神は選び、このように語る者としてお立てになる。ペトロの心をすべてご存知であるにもかかわらずである。

 同じように、神はわたしたちの心をご存知でありながらわたしたちを選び、救ってくださった。この恵みにお応えするものでありたい。

2019年1月20日
詩編110:1-7 使徒言行録 1:1-11

「約束の聖霊」     伝道師 永瀨克彦

主イエスはこのように言われる。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」。復活の後、四十日間弟子たちと共に過ごされた主イエスは、ご自身が天に昇られる前に、弟子たちにこのことをお告げになる。

それに対して弟子たちは言う。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのはこの時ですか」。

聖霊を待ちなさいと言われた直後に、「それは今ですか」と問う。彼らは待つことができていないのである。

待ちなさいと言っても待てない弟子たちに、主イエスはもう一度聖霊のことを語ってくださる。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。

約束された聖霊を待ちなさい。それは必ず与えられるからと主イエスは言われる。繰り返し、弟子に言われるのである。それは、わたしは天に昇るが聖霊が与えられる、だから安心していなさいという、弟子を思う主イエスのお心である。そして、それは実際に与えられた。わたしたちは、ペンテコステの出来事について読むときにそれを知ることができる。

弟子たちは約束の聖霊を待つ者とされた。それはただ空を見上げて過ごす日々ではない。彼らは祈って待ったのである(1:14)。

主イエスが約束してくださったものは必ず来る。ペンテコステの出来事を知るわたしたちはなおのこと、確信をもって、祈りつつ待つ者でありたい。