説教要約②

創世記 50:15-21 ローマの信徒への手紙 14:1-12

「主の裁きに任せる」   牧師 永瀨克彦

パウロは、「キリスト者は肉を食べてはいけない」と信じている人のことを信仰の弱い人と呼ぶ。非難するような響きに聞こえるかもしれないが、そうではない。

私たちは、他者の弱さを笑うことはできない。ある面では強くても、他の面では弱いからである。しかし、まさにそのような弱い私たちを主イエスは受け入れてくださったのである。「神はこのような人をも受け入れられたからです」(3節)。

だから、主イエスが良しとされたものを、私たちが否定することはできない。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」(4節)。

私たちは、食べる食べない、飲む飲まない、その他どんな選択も、主のために行う。食べるときは、罪から解き放ち自由にしてくださった神をたたえるために自由を行使するのであるし、反対に食べないときも神のために食べないのである。

ここに書かれていることは、「正解などないのだから、人は各々好きなようにすればよい」ということではない。そうではなく正解はある。義は神の側にあり、御心に適う選択と背く選択が確かに存在する。私たちは「どちらでもよい」ということではなく、信仰に基づいて神のために正しいと確信することを行う。そして、他者の信仰的な決断に対して口出しすべきではないのである。なぜなら、自分の正しさは他者に誇らなくても、終わりの日に神が認めてくださるからである。また、選択を誤った場合も、神は悪を善に変えてくださる神である(創世記50章)。私たちは、既に救われているという安心の中で、主のための信仰的な決断を日々なしていくことができるのである。

2021年10月10日
イザヤ書 2:1-5 ローマの信徒への手紙 13:8-14

「主イエス・キリストを身にまとう」   牧師 永瀨克彦

聖書において愛とは、単に心の中で相手を思うことではなく、相手を生かす働きをすることである。神は、独り子を犠牲にすることでわたしたちを罪から救い出し、愛してくださったのである。だから、隣人が命である主に立ち返ることができるようにすることが、隣人を愛するということである。そうするとき、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、その他どんな掟があっても、すべては全うされている。

わたしたちが隣人を愛すことができる根拠とはなんだろうか。それは、主イエスが将来再び来てくださり、救いを完成してくださることにある。確かな将来があるからこそ、その先取りとしての今がある。互いに愛し合うことは、本来、来るべき神の国において実現する生活だ。その恵みに、キリスト者は先んじてあずかるのである。

わたしたちは、聖霊という「初穂」をいただいている(8:23)。そして、聖霊によって教会が建てられている。これらは全て、将来の先取りである。聖霊を信じるならば、主の再臨を信じないわけにはいかない。「きざし」を信じるならば、わたしたちはその先にある「本体」もまた信じるのである。

主がやがて来られるから、わたしたちはそれに合わせた生き方を「今」始めることができる。主が来られることを信じないならば、わたしたちは、モーセが神の言葉を携えて来ることを諦めて金の子牛を造ったイスラエルの民のように、自分の力に頼った生き方に戻らざるを得ない。しかし、わたしたちは、主にある新しい生き方を送ることができる。それは、主イエスが来られることを信じて待っているからに他ならないのである。

2021年10月3日
出エジプト記 20:1-3 ローマの信徒への手紙 13:1-7

「神に由来する権威」        牧師 永瀨克彦

キリスト者は新しくされた存在である。しかし、だからといってこれまで自分が所属していた社会と無関係になるわけではないということが、今日の個所を読むと分かる。キリスト者は国家や国家権力を無視して良いわけではないのである。

1節には、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」とある。しかし、では今日のミャンマーの軍事政権のように、国民を弾圧し命を奪うような政権であってもそうなのだろうか。もちろんそんなはずはない。

大事なことは、すべての目的は主に従うことだということである。わたしたちは、この為政者に従うことが主に従うことになるのかどうかを、常に祈り、問わなければならない。そして、その判断は自分の気持ちに基づくべきではない。それこそがパウロが戒めていることである。わたしたちは、嫌いだからとか、嫌だからという理由で簡単に従うことを辞めるべきではない。

なぜなら、「敵を愛す」、「悪に対して善を返す」ということが、先週の個所から一貫して語られている「善」だからである。権威者はわたしたちに悪を行うとき、わたしたちが善を行う機会を提供してくれているのである。それが、4節で言われている「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」ということである。(権威者にはそもそも悪ではなく善を行う責任があることは言うまでもない)。

敵を愛すことは主に仕えることになる。しかし、戦時中のナチスのように、それに従うことが主に背くことになる場合もあり得る。わたしたちは、その判断を信仰に基づいてしなければならないのである。

2021年9月26日
箴言 25:21-22 ローマの信徒への手紙 12:14-21

「善をもって悪に勝つ」   牧師 永瀨克彦

「汝の敵を愛せ」とは、単に理想を語った言葉ではない。「それは麗しいことだけど実行するのは現実的ではないよ」と言って片づけることができる言葉ではないし、「実行するのは無理だけど、良い言葉だから参考にするよ。目指すことに意味があるから」というように観念的に捉えるべきでもない。そうではなく、これはわたしたちの現実を造り変える言葉なのである。

み言葉によって創造される新しい現実とは「平和」(18節)である。つまり、敵意に対して怒りではなく愛を返すという関係である。神は、キリスト者とこの世との間にこの新しい関係を創造された。救われた者には救われた者の生活があるのである。

わたしたちは、復讐を主に任せ、自らは敵を愛することができる。飢えていたら食べさせることができる。わたしたちは復讐する苦しみから自由にされているのである。わたしたち自身が主の敵であったとき、主はわたしたちに復讐するのではなく、独り子を与え、愛を示してくださった。そのことでわたしたちは悔い改めることができた。悪に対して怒りではなく愛を返すことこそが、人を悔い改めへと導くのである。

だから、わたしたちも敵に対して同じようにすることが求められている。それが、20節に書かれていることだ。「燃える炭火を彼の頭に積む」とは、親切にすればかえって彼を苦しめることができるという意味ではない。燃える炭火とは、悔い改めに必要な試練のことである。わたしたちは、敵を愛し、相手を悔い改めと信仰へと導くように求められているのである。だから、「汝の敵を愛せ」というのは、単なる美しい理想ではなく、相手を救わんとする主イエスに仕える具体的な奉仕なのである。

2021年9月19日
エレミヤ書 20:7-9 ローマの信徒への手紙 12:3-13

「主に応える幸い」   牧師 永瀨克彦

「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです」(4-5節)。

神は、わたしたちを救い、キリストの体である教会に連ならせてくださった。だから、わたしたちはキリストの一部としての新しい命を始めることができる。主イエスの永遠の命が、わたしの命となったのである。まさに、自分中心の生き方から、主イエスの一部としての生き方への大転換である。

わたしたちは、キリストの体の部分として、自らに与えられた賜物を用いて働く。わたしたたちには、それぞれに主から異なった賜物が必ず与えられている(6節)。だから、まず大事なことは、主が与えてくださった賜物は何かを問うことである。主から受けた賜物に優劣は決して無い(3節)。手が足に向かって「お前はいらない」とは言えないし、逆もまた然りである。どちらも違った仕方で体のために必要な働きをしているのである。

だから、わたしたちは互いに愛し合う。わたしたちは互いにキリストという体のために働き、協力し、補い合う関係である。相手を愛することは主イエスを愛することになり、相手を滅ぼすことは主イエスに痛手を負わせることになる。また、歯の痛みが全身の苦痛であるように、一つの部位の痛みはキリストの体の一部である自分自身の苦しみでもある。キリストの体の部分として生きるとき、相手を愛するふりをして自分の利益を優先するということにはならない。主の利益が自分の利益であることを本心から信じているからである。だから、愛には偽りがないのである(9節)。

2021年9月19日
創世記 2:7 ローマの信徒への手紙 12:1-2

「自分を変えていただく」   牧師 永瀨克彦

12章から15章までは、キリスト者の生活について倫理的なことが書かれている。しかし、ここだけを切り取って、「救われるためにはやはり行いも大事なのだ」と理解することはできない。パウロはむしろ、人間の悪い行いにも関わらず救ってくださった神の愛について語っている。

12章以降は、11章以前と併せて読まなければ意味が分からない。パウロは1章から11章で、神による人間の救済史を過去・現在・未来と順序だてて語ってきた。12章以降は、救われるための生活ではなく、まさにこの救いの計画にあずかったものの生活についてなのである。「自分の体を生けるいけにえとして献げる」(1節)とはどういう意味だろう。実はほとんど同じことを、パウロは6:13でも語っていた。「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ…」。生けるいけにえとして献げるとは、単に生き生きと奉仕をするという意味に留まらず、実は、復活したものとして自分を献げるという意味だったのである。

では、復活したものとして自分を献げるとはどういうことだろうか。それは、罪の支配に死に、今や主に従うことができるようになった新しい自分を献げるということである。

神に従いたいと願ってもそれができないというのが罪の支配の不自由さであった。しかし、主イエスは十字架の死と復活によって罪から解き放ち、わたしたちを自由にしてくださった。この自由によって、わたしたちは初めて、主に従いたいと願えば従うことができるようになったのである。わたしたちは、罪に支配されていた頃の古い自分ではなく、救っていただいた自分、自由に主に従うことができる新しい自分を献げる。これが礼拝である。

2021年9月5日
イザヤ書 59:21 ローマの信徒への手紙 11:25-36

「不従順に憐みで応える神」   牧師 永瀨克彦

「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」(11:25)。神の計画は秘儀、ミステリーなのである。それはつまり、神の側から秘密を明かしてくださらない限り、人間には知ることができないということである。いくら賢くても駄目なのである。だから、賢い者だとうぬぼれるなとパウロは言う。

ここでパウロが言っている秘められた計画とは、イスラエル人がかたくなにされたのは、異邦人が救われるためであり、将来にはイスラエル人を含む全イスラエルが救われるという計画である。

この神の計画は賢さでは決して知ることはできない。賢い人であれば、イスラエル人がかたくなにされたのならば、それは神の怒りであり、彼らは見捨てられたのだと解釈するだろう。一体誰が、「彼らは回復されるために捨てられたのだ」などと予想するだろうか。それは論理的ではない。つまり、この恵みは推論では分からないことであり、神からの啓示によって初めて知ることができるのである。

イザヤ書59章には、イスラエルの背きが延々と書かれている。にも関わらず、21節で神は、予想に反して彼らと契約を結んでくださるのである。不従順に憐みで応える、人間の理解を超越した神の恵みが表されている。わたしたちは、神の計画が秘められた、人間の理性を越えたものであることを感謝したい。もし、それが人間の理性の範囲内であれば、わたしたち罪人には滅びというごく自然な結末があるのみである。しかし、神は人間には究め尽くせないお方であるが故に、わたしたちの不従順に対し、救いという、その行いには不釣り合いな恵みを与えてくださったのである。

2021年8月29日
イザヤ書 56:1-8 ローマの信徒への手紙 11:13-24

「応答できる恵み」   牧師 永瀨克彦

 オリーブの木からある枝が折り取られ、新しい枝が接ぎ木された。パウロはユダヤ人を元々ついていた枝に、異邦人を接ぎ木された枝に例える。新しい枝は、「自分が優れていたから古い枝に取って代わったのだ」というような思い上がりをすることはできない。新しい枝が木に繋がっているのは、長所によってではなく、神の恵みによってであり、またその恵みに依り頼む信仰によるのだ。「ユダヤ人は不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています」(20節)。

 実際のところ、ユダヤ人と異邦人に違いはない。両者とも罪人なのである。では、なぜ元々の枝は折り取られたのか。それは、新しい枝が接ぎ木されるために他ならない(19-20節)。つまり、この接ぎ木は農夫にとっての得ではなく、ただただ新しい枝に対しての恵みでしかないのである。そして、最後には元々の枝さえも木に回復される。それが神の恵み深い計画である。

 だから、神は常に木に連ならせようとしていてくださる。人間を拒むことが神の厳しさではない。神の厳しさとは、神の慈しみを人間が拒むことをお許しになることである(22節)。だが、これは人間が自由であることの裏返しである。神は人間を命令に従う機械ではなく、自由に神と対話し、自分の意志で主を礼拝する者として創造してくださったのである。だから、神の厳しさは神の恵みと表裏一体である。しかし、ここでも、神の慈しみが先に与えられていることを見落としてはならない。神はいつも慈しみを与えてくださっている。問題は人間がそれに依り頼むか、もしくは拒絶するか、ということなのである。神が人間を愛し、招いてくださった。ただこの恵みに依り頼むとき、わたしたちは主に連なり続けることができるのである。

2021年8月22日
列王記上 19:10-18 ローマの信徒への手紙 11:1-12

「恵みの神」   牧師 永瀨克彦

 イスラエルは主イエスを拒み神から離れている。神の民が神から離れている。それは、人間の目には神がイスラエルを見捨てたように見える。しかし、決してそうではないとパウロは語るのである。

 「では、尋ねよう。神はご自分の民を退けたのであろうか。決してそうではない」(11:1)。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない」(11:11)。

 そして、パウロは、ユダヤ人がつまずいたのは神から見捨てられた証拠ではなく、異邦人が救われるためであり、最後にはユダヤ人自身も皆、救いにあずかることができるのだと主張する(12-13節)。人間には神の怒りにしか見えないことが、実は神の恵みなのである。神の計画は人間に究めつくすことはできないのである。

 あのイザヤでさえ、仲間たちが皆死んでいったのを見て神は自分たちをお見捨てになったと考えた。しかし、神は七千人を残しておかれた。イザヤが神から憎まれていると感じていたそのとき、実は神はイスラエルを愛しておられたのである。

 わたしたちにも苦しみがある。人間の理性では、それは神の怒りとしか考えられない。しかし、人間に理解できないときも、神の動機は必ず恵みなのである。人間が苦しむとき、苦しめることが神の目的であることは決してない。皆を救うことが神の目標だからである(12節)。だから、苦しむとき、なぜと問いたくなるとき、それでもわたしたちは、神はわたしを愛しておられると信じ、すべてを主に任せることができるのである。

2021年8月15日
詩編 19:1-5 ローマの信徒への手紙 10:14-21

「聞くことによって始まる」   牧師 永瀨克彦

 パウロがここで語っていることは、聞く者の態度こそが大事なのだということである。語られるかどうかが問題ではない。なぜなら、神は語ってくださっているからである。「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです」(18節)。

 マタイ12:13以下で主イエスは、「種を蒔く人のたとえ」を話された。そこで言われていることは、せっかく種が蒔かれても、それを受ける土が良くなければ意味が無いということである。蒔かれた種は全く同じでも、石の上に落ちれば実りは無いのである。

 同様に、神は人間に御言葉を与えてくださっているにも関わらず、人間がそれを信じなければ何も得ていないのと同じなのである。その時、人間は「自分は何も聞いていない。自分ではなく、語らなかった神が悪いのだ」と言い訳をすることはできない。神は伝道者を立て、福音を世界に轟かせてくださったからである。

 神は語ってくださった。だから、真剣に聞く責任は人間の側にある。これは厳しい指摘であると同時に慰めでもある。御言葉が無ければ生きることができない人間が、御言葉を聞くことすらできずに滅びることはあり得ないのである。神はわたしが生きるに必要な御言葉を今日も明日も、必ず語ってくださる。そのことを喜び、真剣に聴くことで語られる神に応える者となりたい。

2021年8月8日
ホセア書 2:20-25 ローマの信徒への手紙 9:14-19

「全ての者への救い」   牧師 永瀨克彦

 神は長子のエサウではなく弟のヤコブを選ばれた。これは全く不可解なことである。人間の価値観で見ればエサウが家を継いで然るべきなのである。この違和感を取り払うために、わたしたちはヤコブが選ばれた理由をどうにかして説明しようとする。ヤコブが正しい人だったからだ、信仰深かったからだと考えたくなる。しかし、実際にはそのような事実は全くない。ヤコブは父を騙して兄の祝福をかすめ取った。ヤコブの中に正しさはなかった。しかし、そのヤコブを神は選ばれた。つまり、神は全く自由に「選び」を行う主権者だということである。「こうあるべきだ」という人間の考えに神を従わせようとしてはならない。主権は神にあるということを忘れてはならないのである。

 また、神はファラオをかたくなにされた。それは、出エジプトの出来事を通して世界が主を知るため、そして、全人類が救いに至るために必要なことであった。

 ある人は言う。神がファラオをかたくなにしたなら、ファラオではなく神が悪いのではないか、と。しかし、これも神の主権を忘れるが故の批判である。パウロが言うには、神にはファラオをかたくなにする権限があるのだ。焼き物師には器をどのようにでも造る権利がある。「神にはファラオをかたくなにする自由がある。だから神は悪ではない」。これは少し乱暴な議論に聞こえるかもしれない。しかし、パウロが誤解を恐れずにこのような強い言い回しをするのは、何よりも神の主権を強調するためなのである。

 さて、この主権者が悪者なら大変なことである。しかし、実際には神は我が子の命さえ差し出した愛の神である。わたしたちの理解を超えた神の選びは全て、全人類を救うという神の計画の中に置かれているのである。

2021年7月25日
ヨナ書 2:1-11 ローマの信徒への手紙 9:1-13

「妨げられない救い」   牧師 永瀨克彦

 パウロは、どんな被造物も神の愛からわたしたちを引き離すことはできないと力強く宣言する(8:39)。しかし、目に映る現実はその福音を揺るがすもののように見える。つまり、イスラエルの民は神から離れている。神の民ですら神から離れているではないか。結局、自分自身を神から引き離そうとすればできてしまうのではないか。そのように思えるのである。

 しかし、パウロは、そのような現実にも関わらず、「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」と語る。イスラエルが自分を神から引き離すことに成功したというのは、わたしたちの誤解なのである。なぜならば、神は新しくイスラエルの民を起こしてくださったからである。

 アブラハムの血を引く者ではなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ者がアブラハムの子孫と見なされる。洗礼者ヨハネが語った通り、神は何もないところから、石ころからでさえもアブラハムの子らを造り出すことがおできになる。

 イスラエルは自らを神から引き離そうとしたが、その試みは失敗に終わった。むしろ、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人を救うためであった(11:25)。そして、後には彼ら自身も救いに至り(11:31)、イスラエルはますます豊かにされる。人間は自分に向けられた神の救いを妨げることはできないのである。

2021年7月11日
列王記上 17:13-14 ローマの信徒への手紙 8:31-39

「神からの恵みである従順」   牧師 永瀨克彦

 自分に降りかかる数々の困難を見るとき、「これは神がわたしを見捨てておられることの証なのではないか」と思ってしまいそうになることがあるかもしれない。しかし、神がわたしたちを見捨てておられることはあり得ない。なぜなら、神はわたしたちのためにご自身の最愛の子である主イエスをさえ差し出してくださったからである。それはつまり、人間を救うためにすべてを犠牲にしてくださったということである。だから、今更人間のために何かを出し惜しみすることなどあり得ないのである。神はわたしたちを救うためにすべての情熱を傾けてくださるのである。

 このように、神はわたしたちの味方である。裁く権限を持つ唯一の存在である神がわたしたちの味方であるならば、一体誰がわたしたちを罪に定めることができるだろうか。艱難、苦しみ、迫害、いずれでもあり得ない。それらは、わたしたちが罪人であると主張する。人の目には、それらは人間が有罪であることの証拠に見える。そして、人間が罪人であるという主張は全く正しいのである。にもかかわらず、裁判官である神は、それらの訴えを棄却し、人間に無罪を言い渡してくださる。裁判官が人間の味方だからである。

 だからわたしたちは、艱難の中でも、神がわたしを愛してくださっているということを確信することができる。不幸は神に見捨てられた証ではないのである。人間を含むどんな被造物も、神の愛からわたしたちを引き離すことはできない。どんな苦難が襲おうとも、また、わたしたちがどんな過ちを犯そうとも、神がわたしたちを愛しておられることは揺るがないのである。だからこそ、この神に応えて、わたしたちは過ちを退け主に喜ばれる生活を送りたい。

2021年7月4日
列王記上 3:4-12 ローマの信徒への手紙 8:18-30

「将来の栄光の先取り」   牧師 永瀨克彦

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)。信仰者には、主イエスに従うが故の苦しみがある。歴史を通して迫害は繰り返されてきた。また、信仰ゆえに、仕事や家族との関係で悩むこともあるかもしれない。しかし、(自身も投獄され、殉教する者までいるにもかかわらず)それらは取るに足りないとパウロはいう。なぜなら、それに対して将来受ける栄光があまりにも大きいからである。天秤にかけて悩むまでもないのである。

 将来受ける栄光、それは、神の栄光が明らかにされ、人間がその神の子であるという栄光にあずかることである。すべての被造物は人間が栄光を受けることを待っている。なぜなら、人間の罪のために被造物はうめき苦しんでいるからである。アダムの罪によって土が茨とあざみを生えいでさせたことを思い出したい(創3:18)。今日でも大気汚染が様々な弊害を生み出すのを見るとき、わたしたちは「人間の罪による被造物のうめき」を単なる神話として片づけることはできなくなる。

 しかし、神は救いを完成させてくださり、すべての被造物が主を賛美する日は来る(黙5:13)。そのような日が来るとどうして信じることができようか。世界はうめきに満ちているのに。しかし、わたしたちにはそれができる。なぜなら、見えるものに対する希望は希望ではなく、わたしたちは目に見えないものを望んでいるからである(24-25節)。アブラハムは、存在しない者を存在させる神を信じ、希望するすべもなかったときに望みを抱いた(4:17-18)。わたしたちは、今目には見えない神の民が呼び起こされることを信じる。その初穂としてわたしたちは霊をいただいているのである。

2021年6月27日
エゼキエル書 11:19 ローマの信徒への手紙 8:1-17

「人を自由にする聖霊」   牧師 永瀨克彦

 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(…)霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(1-2節)。

 罪と死の法則とは、人間がいくら神を切望し、そのために努力しても神を見出すことができず、反対に神に背いてしまうという悲しい法則である。パウロはまさにその法則の中で苦しんだ。誰よりも神を求め、律法においては非の打ちどころのない歩みを続けたパウロは、神の子を迫害してしまったのである。

 人間がいくら真面目で誠実であっても、自分の力では、頑張れば頑張るほど神から離れてしまう。この悲惨な罪の法則から神は人間を解放し、霊の法則の中で生きる者へと変えてくださった。こうして初めて、人間は神に従いたいと願うとき、その願いを実行することが可能になったのである。

 パウロは、「肉」と「体」という言葉を使い分けている。「肉」とは肉欲のことではない。「肉に従う歩み」とは、神に背き自分に関心を向ける生き方である。一方、「霊に従う歩み」は神に関心を向け、神を中心に生きる人間本来の生き方である。そして、肉に従うにせよ、霊に従うにせよ、人間は「体」をもって従うのである。つまり、体とは、霊の法則の下では主に仕えることができる善いものなのである。

 霊は死ぬはずの体をも生かす。そして、その霊は既に、現実にわたしたちの内に宿っている(11節)。だから、わたしたちが主に仕える、神の子として生きることができるのは、将来の出来事ではなく、今既に与えられている恵みなのである。

2021年6月20日
詩編  23:1-6 ローマの信徒への手紙 7:7-25

「罪に捕らわれていた過去」   牧師 永瀨克彦

 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」。一見パウロは、救われていながら繰り返し罪を犯してしまう自分の現状を嘆いているように見える。しかし、実はパウロは、既に救われた人間、つまりキリスト者の視点から、救われる以前の人間の状態を嘆いている。パウロは過去の自分の姿を生き生きと語っているのである。

 確かに、キリスト者は救われた今もなお、罪を犯してしまうことがある。しかし、救われる以前の人間の惨状はそれとは比較にならない。なぜなら以前の人間は、善をなすことを心から願っていてもそれをすることができなかったからである。神に従うことを切望しても、神から離れるという結果が生じるだけだったのである。パウロがまさにそうであった。パウロは主に近づきたいとの一心で律法をひたすら実行した。しかし、人間は律法を熱心に守れば守るほど、自分の行いの完全さに救いの根拠を求めるようになり、神の恵みにより頼むことを忘れてしまう。その結果、パウロは真剣に神を求め善をなそうとしたにもかかわらず、神からの救いであるイエス・キリストを迫害するという、この上ないくらい神から離れる行動を取ってしまっていたのである。心から善をなそうと行動しても、悪が生じる一方であった。これが罪の支配である。そして、これがパウロが言っている救われる以前の人間の惨めさなのである。  

 しかし、自分で自分を救えず、救おうとすればするほどそこから遠ざかるしかなかった人間を、ただ神だけが、主イエスを通して救い出すことができたのである(24-25節)。罪から解放された今、わたしたちは主に従おうと願えば従うことができる。それは、以前はすることができなかった新しい生活なのである。

2021年6月13日
イザヤ書 43:16-19 ローマの信徒への手紙 6:15-7:6

「新しく生きる」   牧師 永瀨克彦

 「つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(6:16)。この二つの道のどちらかしかないのだとパウロは言う。では、罪からも神からも支配されずに生きる道は無いのかと思われるかもしれない。それに対する答えは「無い」である。なぜならば、自分で自分を支配できると思わせる力こそが罪であり、神を捨てて自分の思いに従って生きることは、罪の支配下で生きることに他ならないからである。

 罪は、人間に全てを支配できると誤解させ、神から離れさせる。しかし、実際には人間にはそれはできない。人間は自分に命を与えることができないし、原発やコロナの問題をはじめ、人間には自分の力で左右できないことが多すぎる。できない仕事を担わされることは全く自由ではない。サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と語ったことは正しい。  

 しかし、神はまことの支配者としてこの重荷を担い、人間を苦役から解放してくださる。神の支配、神の奴隷と聞くと、「結局奴隷は奴隷ではないか。それのどこが自由なのだ」と思われるかもしれない。しかし、神の支配はまことに自由である。なぜなら、神は全能であるだけではなく、正しい神であり、愛の神であるからである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。そして、神は初めから人間を自由なものとして造り、人間が自由な意志をもって神に応えることを待っておられるのである。

2021年6月6日
創世記 32:23-33 ローマの信徒への手紙 6:1-14

「洗礼の恵み」   牧師 永瀨克彦

 クリスチャンはなおも罪の中に留まるべきだろうか。もちろんそうではないし、そうすることは不可能であるとパウロは言う。なぜなら、キリスト者は、信仰によって罪に対して既に死んでおり、罪から解放されているからである。

 「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(3節)。主イエスは人間の代わりに罪に対して死んでくださった。人間はそのことを信じるとき、主イエスによって自分も罪に対して死んだ者としていただけるのである。

 なぜ、罪に対する死が解放であるのか。それは、人間が以前罪の奴隷であったことを考えれば理解できる。罪は自分の奴隷である人間を強いて、神に背く働きへと従事させていたのである。しかし、奴隷が死んでしまってはもう働かせることはできない。だから、罪に対する死は、罪の奴隷状態からの解放なのである。

 以前、わたしたちには、神に背く以外選択肢が無かった。罪から強要されていたからである。しかし、神は主イエスの十字架と復活によってわたしたちを解放し、自由な者としてくださった。そのことによって、わたしたちは初めて、主に従うことが可能になったのである。わたしたちは、救われてもなお、罪を犯すことがある。だから、傍目には以前と何も変わらないように見えるかもしれない。しかし、今や自由である点において、以前とは全く異なる。わたしたちはもう命の道に置かれており、以前の状態に戻る可能性はない。このことに安心しつつ、自由な者として主に従う生活を送りたい。

2021年5月30日
創世記 3:17-19 ローマの信徒への手紙 5:12-21

「罪と死、恵みと命」   牧師 永瀨克彦

 アダムの罪によって、すべての人間は死ぬこととなった。しかし、一人の人の罪がすべての人に及んだように、主イエスの恵みはすべての人に及んだ。つまり、主イエス・キリストを通してすべての人間は永遠の命に至るのである。

 アダムによって歩み始めれば、死にたどり着く他ない。一方、主イエスの道を歩むなら必ず命に至る。二つはそれぞれ異なった別の道なのである。わたしたちは主イエスを信じるとき、命に至る道を、生まれ変わった新しい者として歩み始めるのである。

 このように、古い生き方、古い道の中に活路は無い。それはつまり、人間は自分で自分を救うことはできず、必ず神からの、外からの救いを待たなければならないということである。

 アダムの罪は、善悪の知識の実を食べ神のようになろうとしたことである。そして、わたしたちが神の救いを待たず、自分で自分を救えると思うとき、実はそれこそが神になり替わろうとする罪の一例なのである。

 自分の力で罪を避けることができる、義でいられると思うとき、わたしたちは罪の力を侮っている。罪は人間の行為の結果ではない。悪いことをすることが罪なのではなく、人間に悪を行わせる力が罪なのである。罪は外から人間を支配する、人間を超えた力である。だから、人間は自分ではそれから逃れることはできず、神の救いを必要とするのである。  

 罪の力を侮らないことが大切である。そのことによって初めて、わたしたちは主により頼むことができる。しかし、過度に恐れる必要は無い。主イエスは罪に勝利され、信仰によってこの勝利がわたしたちのものとされたからである。わたしたちは主の救いによって命の道を歩む者とされたのである。

2021年5月23日
出エジプト 19:2-6 ローマの信徒への手紙 4:23-5:11

「神と和解した現在」   牧師 永瀨克彦

 「今の恵み」(5:2)とパウロは言う。恵みは将来までお預けなのではない。現在において、恵みは既にわたしたちのものなのである。しかし、病や死、貧しさや不和など、わたしたちの周りには困難が沢山ある。にもかかわらず、なぜ「今の恵み」とパウロは言うことができるのだろうか。

 それは、神がわたしたちを愛しておられるからである。神は独り子である主イエスを十字架につけてくださった。わが子を犠牲としてくださった。それほどまでに神は人間を愛された。注意すべきは、これがなされたのは、人間が神に敵対していたときのことだったということである。神は敵対していたときでさえわたしたちに愛を示してくださった。ならば、神と和解させていただいた今、神がわたしたちを愛してくださるのはなおさらである。

 目の前の苦難を見るとき、わたしたちは神の愛を疑いたくなるかもしれない。「神がわたしを愛しておられるなら、なぜこのようなことが起こるのか」と。しかし、そのようなときも神はわたしたちを愛しておられる。敵であったときでさえ、神は愛してくださったのである。

 神は今もわたしたちを愛しておられる。だからわたしたちは苦難の中でも希望を抱いていることができる。神は人間をお見捨てにならず、将来ご支配を完成させ、その栄光に人間をあずからせてくださる(5:2)。  

 キリスト教はご利益宗教ではない。クリスチャンにも苦難はある。しかし、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。ご利益主義の下では人間は常に一喜一憂することになる。だが信仰者は、苦難のときも希望を喜ぶことができる。これが「今の恵み」である。わたしたちは主イエスの福音を信じる。この希望はいかなる時も揺るがない。神がわたしたちを愛しておられるからである。

2021年5月16日
創世記 15:4-6 ローマの信徒への手紙 3:31-4:22

「律法の完成」   牧師 永瀨克彦

 パウロは、「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」と述べ、それに続いてアブラハムの話をする。アブラハムは信仰によって義とされた後、律法を無にするどころか、かえってそれを確立する。彼は信仰によるからこそ礼拝をし、ついに主に従うという律法の目的を果たすことができる。このように、アブラハムは信仰と律法の関係を説明するのに最適な人物なのである。

 アブラハムは信仰によって義とされた後、神を賛美した。神を賛美すること、礼拝すること、それは律法の目的であり中心である。この律法の目標を、彼は信仰によって初めて達成することができる。というのも、彼の置かれている状況は、信仰無しには喜ぶことができるものではないからである。当時アブラハムは百歳、妻サラは九十歳であり、子はいない。「あなたを大いなる国民にし、祝福の源とする」という約束を受けても、信仰がなければ喜んでなどいられない。喜んでいなければ礼拝などできない。礼拝とは形式のことではなく、喜びを神に表す行為である。嬉しいから神の名をたたえずにはいられない。それが礼拝である。このように、アブラハムは信じるからこそ礼拝をし、律法の目的を果たすことが可能なのである。これが信仰による律法の確立である。

 わたしたちの目の前にも、コロナ禍、世界規模での信徒の減少、その他にも様々な厳しい状況がある。にもかかわらず、なぜわたしたちは喜んで神を礼拝していられるのだろうか。それはアブラハムと同じで、神の約束を信じているからである。アブラハムは高齢でありながら、約束を受けたときイサクを既に得たかのように喜んだ。わたしたちも、神の支配の完成、勝利を既に手にしていることを確信するからこそ、喜び礼拝することができる。やはり、信仰は律法を確立するのである。

2021年5月9日
ハバクク書 2:1-4 ローマの信徒への手紙 3:9-30

「全ての民の唯一の神    」   牧師 永瀨克彦

 「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません」「正しい者はいない。一人もいない」。これらの記述を見ると、なんて後ろ向きな手紙なのだと思われるかもしれない。しかし、パウロは読者を非難するためにこれらを言っているわけではない。むしろ、これから語られるイエス・キリストによる義はあなた自身のものであるということを言うために、パウロはまず罪について語るのである。

 自分は正しいから救われて当然であると考えるとき、その人は主イエスの十字架と復活に依り頼むことはできない。そんなものなくても、自分は元々救われていると思っているからである。自分の正しさにより頼むなら、主の義に依り頼むことはできない。つまり、その人は義に至ることができない。そのような悲劇を招かないために、パウロは罪を指摘し、自覚させようと懸命になっているのである。読者が皆が義にあずかってほしい。パウロはその一心である。

 義とは、旧約聖書では契約が履行されることである。神の義とは、人間の背きにも関わらず、神は人間との契約を果たしてくださることである。人間はその神の正しさにあずかることができる。神は主イエスを立てて義を示された。人間はこの主イエスを信じるならば義としていただけるのである。

 キリスト教はしばしば自己否定的な宗教だと誤解される。自分のことを罪人と呼ぶことは、自分の価値を下げることだと捉えられる。しかし、実際は全く逆である。自分の正しさを誇ることによっては、義ではないことがますます自覚されるだけである。反対に、罪に気づき、悔い改め主により頼むとき、主によって義とされたこと、主の目に価値あるものとされたことが分かる。キリスト教は、人間の価値をこの上なく肯定的に捉える宗教である。

2021年5月2日
出エジプト記 19:5-8 ローマの信徒への手紙 2:17-3:8

「選ばれた民の責任」   牧師 永瀨克彦

 「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」。行いが重要なのだとパウロは言う。信仰義認が説かれているローマの信徒への手紙において、このように行いが大事だと言われることは意外に思われるかもしれない。しかし、これは矛盾ではない。人間はその悪い行いにも関わらず信仰によって義に至る。そして、救われて新しくされた者は、新しい生き方をするのである。

 神は放任という罰を停止し、人間に律法を与えてくださった。つまり、それは神による人間の現実への介入であった。神の救いは現実におけるものであるので、人間の現実の生を変える力を持つ。人間が神の救いを受け入れるとき、その人の行動に神の救いの現実が現れるのである。

 割礼を誇りながら律法を破るなら、神の救いはその人にとって現実となっていない。現実には無かったことのように扱われているのである。

 マタイ18:21以下には、王様に一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった家来が、その帰り道に仲間の首を絞めて百デナリオンを返済するように迫ったというたとえが書かれている。この家来は、自分が王様に赦してもらったということが分かっていない。もちろん頭では理解しているだろうが、身に染みて分かってはいない。言い換えれば赦しが自分の現実になっていないのである。  

 割礼を誇るだけで律法を守らない人とは、まさにこの家来のようなものである。神はわたしたちの歴史において、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを成し遂げてくださった。このことを信じるとき、わたしたちの生き方に神の救いの現実が現れるのである。

2021年4月25日
創世記 12:1-3 ローマの信徒への手紙 1:14-2:16

「すべてに救いをもたらす神の力」   牧師 永瀨克彦

 人間は神を否定し、支配者の座を偶像とすげ替えてきた。偶像は、鳥や獣の像であるときもあれば、人間自身である場合もある。人間は自分で自分を支配できると考える。「神頼みは、雨が降る原理も分からなかった時代の人間がやることではないか。神への依存は時代遅れであり、神から卒業することが進歩的なことだ」と考える人もいるかもしれない。しかし、能力の限界を忘れて人間がすべてを管理できると思うとき、それは偶像である。

 驚くべきことは、この偶像崇拝に対して下される神の罰は、「何もしないこと」だということである(24節「そこで神は、彼らが…不潔なことをするにまかせられ」)。つまり、人間の好き勝手な振る舞いを放置されることが罰だということである。人間が御心ではなく、自分の思いによって生きること、そして互いに不義、悪、むさぼり、ねたみに満ち、その中で生きることは、それ自体が刑罰として成立するほど悲惨な状態なのだということである。つまり、人間には自分で自分を支配する能力がない。しかし、神はそのような負えない重荷を人間に背負わせて苦しめることはなさらない。  

 神はユダヤ人にも異邦人にも律法を与えた。それは、神が怒りを取り下げ、放任を辞め、正しく導くために介入してくださったということである。そして、神は救い主、主イエス・キリストを送ってくださった。人間は神を否定し、自分が思うままに生きるとき、自由を謳歌していると感じ、とてもすばらしい気持ちになる。人間は自分の悲惨な状態に気づかず、かえって喜んでしまうようなものである。しかし、神はその人間を憐み、むなしい思いにふけるのを止めてくださったのである。神の支配の回復は、人間が自分を支配するというできない仕事と、それがもたらす悲惨な結末からの解放なのである。

2021年4月18日
創世記 1:26-27 ローマの信徒への手紙 1:1-13

「神の主権の回復」    牧師 永瀨克彦

 ローマの信徒への手紙を一読すると、その主題は「信仰義認」であると思われるかもしれない。確かにパウロは信仰義認、つまり、人は善い行いによってではなく、主イエス・キリストによって救いが成し遂げられたことを信じる信仰によって義と認められるということを、非常に重要なこととして語っている。そのために多くのページを割いている。しかし、この手紙の主題は、神の主権の回復であり、また、それがなされる歴史、救済史を語ることなのである。なぜ救い主、キリストが必要であったのか、つまり、人間がどのようにして神に背いてきたのか、その歴史をパウロは語る。そして、今や十字架と復活によって神の主権が回復されたという現在、さらには神の支配が完成する将来について、パウロは記すのである。信仰義認は、主題である神の主権の回復を説明するために書かれたものである。つまり、神はどのようにして主権をご自身の手に取り戻してくださったのか、それは人間の働きではなく神のお働きによるのだ、ということである。パウロは救済史を過去から将来まで順序正しく記すので、この主題を踏まえて読むことは、わたしたちがローマの信徒への手紙を理解する上で大きな助けになる。  

 神と人間は対等な存在ではない。創造者と被造物である。創造者が被造物を支配してくださるというのは、本来のあり方であり、ふさわしい形であり、人間にとって安らかな状態である。「支配」というと、「不自由」「抑圧」という印象を受けるかもしれない。たしかに、元々は対等な者同士の一方が相手を打ち負かし支配する場合はそうであるだろう。しかし、神の支配はそうではない。神は本来の支配者であられるので、被造物をふさわしく支配してくださる。このように、神の主権の回復はわたしたちにとって福音である。ローマの信徒への手紙を通し、この福音を聴いていきたい。

2021年4月11日
詩編 86:11-17 マルコによる福音書 16:9-20

「伝道者の誠実が示される」    牧師 永瀨克彦

 主イエスは復活した後、十一人の前に現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活された主イエスを見たという人々の証言を信じなかったからである。

 この叱責はわたしたちにも向けられている。主イエスの復活を人間はなかなか受け入れることが出来ない。かたくなな心で「そんなはずはないだろう」と思ってしまったり、あるいは、「復活と言われているのは、心が一新されることの比喩だろう」と都合よく解釈したり、人間は復活をなかなか信じようとしない。しかし、主イエスはその心を咎め、復活のご自身を現して、信じさせてくださる。主の復活こそが、わたしたちの救いなのである。

 そして、主イエスは弟子たちに、「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じ、信じる者には異言や毒で死なないことや、病気の治癒など、多くの奇跡が伴うと約束された。

 ここで約束されていることは、弟子たちが復活の主イエスを告げ知らせるとき、奇跡を通してその証言が真実であるということを主が示してくださるということである。奇跡それ自体が目的であったり約束であるのではない。それは、20節からもわかる。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」。  

 わたしたちも、主イエスの十字架と復活の福音を告げ知らせる。それはときに世間から笑われるようなことである。「あなたは本気でイエスという人間が復活したなどと信じているのか」と問われることもあるかもしれない。しかし、わたしたちは主イエスの十字架と復活こそが救いであると信じ、それを告げ知らせる。そのとき、主イエスはわたしたち伝道者が真実を語っていることを必ず証明してくださる。これが約束されていることである。

2021年4月4日イースター
詩編 30:2-6 マルコによる福音書 16:1-8

「復 活」    牧師 永瀨克彦

 主イエスは復活なさった。そして、ガリラヤで再びお会いすることができると天使は告げる。それは、人々の記憶の中では生きているとか、その教えは今も生きているとか、そういう話ではない。主イエスは人間の罪を背負って十字架で死に、復活してくださった。そのことによって、人間は死から解放され、永遠の命にあずかる者とされた。これが救いなのである。

 復活は心の中の問題などではなく、神が行ってくださった救いの業である。主イエスの復活があったのかどうか、実際に起きたのかどうかは、救いの根幹に関わる問題なのである。

 マルコによる福音書は明快である。墓は空である。伝えたいことは明らかで、主イエスはあなたがたのために確かに復活してくださったのだということである。復活があったのかどうか、好きな解釈を選べということではない。抵抗のない内容だけを聞けということでもない。そうではなく、人に抵抗を覚えさせる復活の知らせを聞き、それを受け入れよということなのである。復活が聞く者に拒絶反応を引き起こさせるものであることは、マルコ自身よく分かっている。マルコは、主の復活を告げ知らせよと命じられた婦人たちが恐怖して墓から逃げ出してしまったことを記している。最後まで主に付き従った彼女たちでさえである。  

 マルコはここで唐突に福音書を終わらせたようである(9節以降は後から書き加えられたものである)。マルコは福音書を閉じなかった。開かれたままにした。それは、わたしたち自身がガリラヤで主と出会い、主の復活を告げ知らせなければならないということだろう。主の十字架と復活こそがわたしたちの救いである。驚くべき知らせである復活を聞き入れ、喜び、伝える者となりたい。

2021年3月28日
イザヤ書 53:1-12 マルコによる福音書 15:42-47「確かに成し遂げられた犠牲」    牧師 永瀨克彦

 マルコは、主イエスが十字架にかかって、確かに死んでくださったこと、そして間違いなく墓に葬られたことを強調している。マルコは、それが福音に関わるがゆえに福音書に記録するのである。使徒信条にも、主イエスは「死にて葬られ」とある。わたしたちの信仰は、主イエスがわたしたちのために確かに死んでくださったという内容を含んでいる。

 主イエスが死んでくださったことが、なぜ福音に関わるのか。それは、まさに主イエスが人間の罪を全て担って死んでくださったことによってこそ、人間の罪が贖われたからである。主イエスが、「人の子は(…)多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10:45)と言っておられた通りである。

 十字架の死は、わたしたちに愛や犠牲の精神を教えるためのたとえ話などではない。空想ではない。成し遂げられた神の救いである。

 マルコは、主イエスの死が事実であることを何重にも証ししている。アリマタヤのヨセフ、ピラト、百人隊長、マグダラのマリア、ヨセの母マリア。これらの人は全て、主イエスの死と埋葬の証人である。  

主イエスの死を信じるとき、初めて、わたしたちは自分の復活を信じることができる。主イエスはわたしたちの代わりに十字架の道を歩んでくださり、復活してくださった。だから、墓から出るその道、石が取り除かれた出口もまた、わたしたちのものとされたのである。

2021年3月21日
詩編 53:6-7 マルコによる福音書 15:21-41

「十字架の福音」    牧師 永瀨克彦

 ヨハネは十字架を栄光として描き、ルカは十字架上での犯罪人との会話をドラマティックに記す。それに比べると、マルコの十字架の記事はとても簡潔である。なるべく余計なものをそぎ落とそうとしているようにも見える。おそらくマルコは、読者の目を十字架に集中させようとしている。十字架はそれ自体がわたしたちの救い、福音なのである。

 十字架は痛々しいものであり、悲しいものであり、信仰の目をもって見なければ、一見ただの敗北にしか見えないようなものである。それは弱々しく惨めである。なので、わたしたちはその記述を、華々しいものへと造り変えたくなる誘惑に駆られるかもしれない。しかし、その必要はない。この敗北こそが勝利であり、この死こそが命なのである。十字架こそが救いの成就である。だから、マルコは十字架を主イエスの戴冠式、即位式として描く。

 この救いは逆説的であり、神の秘儀である。だから、わたしたちにはすぐには理解が難しいかもしれない。  

 だからこそ、マルコの勧めに従って、わたしたちはまず「見る」ということから始めたい。神は救いを成し遂げてくださり、それを啓示してくださる。つまり、見せてくださる。わたしたちが理解することから始まるのではない。全ては神が啓示し、信仰を授けてくださることから始まる。主イエスがわたしの罪を担って十字架にかかってくださった。その出来事をしっかりと見つめる者となりたい。

2021年3月14日
イザヤ書 53:6-7 マルコによる福音書 15:1-20

「弱い者となってくださった神」    牧師 永瀨克彦

 ピラトは主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねた。それは、「お前はローマの統治に反対してイスラエル王国を復活させ、国王になるつもりなのか」という意味である。ピラトはそのことを心配し恐れている。だから主イエスは「それは、あなたが言っていることです」とお答えになる。主イエスは一国の国王などではなく、すべての人間の救い主である。そして、その救いは十字架によって成し遂げられるのである。

主イエスは十字架にかかるため、沈黙を貫かれる。黙すことによって、主イエスは父の力にすべてをゆだねられる。苦難の中で主イエスは父の勝利を確信しておられる。そして、苦難の中に勝利があることは、死を通して命が与えられた十字架によって示された。主イエスが父を信頼した通りの結果になったのである。

わたしたちは主イエスのお姿に倣うことができる。苦難の中にあって黙すことができる。それは、必死に我慢して口をつぐむということではない。そうではなく、神の勝利を確信しているから、騒ぎ立てる必要がないということである。罵られても罵り返す必要がないということである。主の力により頼むとき、わたしたちの心には平安があるのである。 主イエスが既に、わたしたちの弱さを担って十字架にかかってくださった。弱さ、罪に主イエスは勝利してくださった。そのことを確信し、安心して、沈黙を貫かれた主イエスの姿に倣う者となりたい。

2021年3月7日
詩編 27:11-14 マルコによる福音書 14:53-72

「わたしがそれである」      牧師 永瀨克彦

不当な裁判に対し、主イエスはあえて沈黙を貫かれる。それは、すべての人間の代わりに十字架にかかり、人間を罪から贖うためである。大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問うと、主イエスは、「そうです」とお答えになった。これは「わたしがそれである」とも訳せる言葉である。

主イエスはこれまで、ご自身が神の子、メシアであることについて、黙っているようにペトロ(8:29-30)や悪霊たち(1:24-,3:11-)に命じてこられた。しかし、今、主イエスはそのことをはっきりと、ご自身の口で語られる。これは、「わたしはあなたがたを救う」という主イエスの宣言である。どのようにしてか。つまり、十字架によって、主イエスは人間を救ってくださるのである。

ペトロは三度主を否む。彼は生き延びようと必死である。主イエスと一緒につかまって処刑されることを彼は恐れている。そして、「お前はあの連中の仲間だ」と指摘する人々に対して、ペトロは呪いの言葉を吐く。呪いというのは、神との断絶であり死である。つまり、ペトロは相手を死に定め、自分は生きようとする。しかし、その結果、皮肉なことにペトロは命である主から離れてしまうのである。

主イエスは、十字架を通して人間に命を与えてくださった。ペトロは、主の十字架から逃げようとして命から離れてしまった。わたしたちがどちらに倣うのかが問われている。主の死にあずかるとき、わたしたちは命にあずかることができる。逆説的な福音がここにある。「自分の十字架を背負って主に従え」というのは、厳しい言葉に見えるが、実はそれこそが命の道であり勝利の道であるという希望の言葉なのである。

2021年2月28日
創世記 45:1-8 フィリピ 2:12-13

「神の計画」         牧師 永瀨克彦

 熱心な三人の弟子、ユダ、裸で逃げた若者。彼らの姿を通して示されていることは、人間が主イエスを見捨てたということである。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、非常に熱心であり、自分が主イエスを見捨てることなど決してないと確信していた。ペトロだけでなく、ヤコブとヨハネも同じ思いであった(10:38-39)。しかし、その三人は、死の恐怖に対し祈りをもって戦う主イエスの隣で眠ってしまう。彼らは戦う主イエスを見捨てる。また、ユダは、口づけをもって主イエスを裏切る。つまり、表面上はもっとも親密な者のように振舞いながら主を裏切る。そして、名前も分からない若者は、こんな夜更けに山のふもとまで主イエスを追ってくるほどやはり熱心なのに、主イエスが引き渡されると恐怖して逃げてしまう。

これらに共通していることは、熱心な者、主に近い者であっても、主を見捨ててしまうということである。初めから主を見捨てようと思って従ったのではない。ユダですらそうである。主を愛し、従い続けることを熱望する者さえ主を見捨てる。それが人間の弱さであり罪であることがこの個所から分かる。それは彼ら個人の問題ではなく、人間のもつ弱さである。そして、まさにこのわたしたちの罪を贖うために主イエスは十字架にかかってくださったのである。

主イエスは十字架を取りのけて欲しいと父に願ったが、最後には十字架に着くことを決断してくださった。その瞬間に人間が救われることが決まったのである。だから、眠っている弟子たちに対して「もうこれでいい」と主イエスは言われる。人間の力や功績によってではない。十字架を選ぶという主イエスの愛によって人間は救われたのである。

2021年2月21日
創世記 45:1-8 フィリピ 2:12-13

「神の計画」         牧師 永瀨克彦

 この個所を読むとき、わたしたちはユダを自分とは切り離し、一方的に非難したくなる衝動に駆られるかもしれない。ユダは自分とは違う考えられない人でなしであり、ユダのせいで主イエスは十字架にかかって死んだのだと思いたくなるかもしれない。しかし、実際には、主イエスはわたしたちの罪を贖うために十字架にかかってくださったのであって、それはわたしたちのせいで主イエスが十字架にかかったということでもあるのである。つまり、十字架はユダだけのものではなく、わたしたちのものである。それを自分と無関係なものとし、ユダだけに責任を押し付けるならば、わたしたちは十字架の贖いの福音までも手放すことになるのである。十字架はわたしたちの罪のせいであり、わたしたちの罪の贖いのためであり、わたしたちの救いである。

 主イエスは杯を取り、感謝の祈りを唱えて弟子たちに渡された。杯には苦しみという意味もある。そのことは、主イエスがゲツセマネで「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたことからも分かる。つまり、主イエスはここで、「わたしの苦しみを受け取りなさい」と勧めておられるのである。  

 主イエスの裂かれた肉、流された血はわたしのためのものであった。わたしたちは、主イエスの十字架を自分のために成し遂げられたこととして、そして自分自身に与えられた救いとして受け取りたいのである。

2021年2月14日
創世記 45:1-8 フィリピ 2:12-13

「神の計画」         牧師 永瀨克彦

 一人の女性が主イエスの頭上で壺を壊し、そこに入っていた高価なナルドの香油をすべて主イエスに注ぎかけた。そこにいた何人かの人は、「なぜこんな無駄遣いをしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言って彼女を非難した。三百デナリオンとは、三百日分の労働対価である。しかし、主イエスは「(この人は)わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われた。

 主イエスは今、十字架に掛かろうとしておられる。それは人間のために自分自身を献げるという愛の行為である。その愛を見ずに人々を助けに行こうとしているのが、女性を非難した人々である。一方、まず主の愛を知り、主に応えて主を愛したのがこの女性である。彼女がしたことは埋葬の準備であり、主の十字架への備えであった。

 自分を愛してくださっているお方を無視して、わたしたちは他人を愛する働きに出て行くことができるだろうか。わたしたちはまず、主イエスの愛を知り、喜ぶものでありたい。  

「この人はできるかぎりのことをした」。すべてを献げてくださった主イエスに応えて、この女性もまた、自分自身を献げたのである。

2021年2月7日
創世記 45:1-8 フィリピ 2:12-13

「神の計画」         牧師 永瀨克彦

 ヨセフ物語は、すべての支配者は神であることを力強く語っている。人間の罪によって次々と起こされる悲惨な出来事の後ろで、実は神の計画は進行していたのである。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」。ヨセフ物語は、すべてこのことを言うために展開してきたのである。

 ヨセフを奴隷として売った兄たち。また、ヨセフを誘惑し、暴漢の濡れ衣を着せたポティファルの妻。そうした人間の罪も、神の計画をくじくことはできない。それらの出来事は個別に見れば神の計画の破れである。しかし、実はそうではないことが最後に明かされる。支配者である神は、人間の罪の結果さえ利用することができる。罪さえも神の支配の内にある。

 今、わたしたちは日々の生活を通して何を見ているだろうか。この世界の現状がどう映るだろうか。神が敗北したように見えるだろうか。しかし、支配しておられるのは神である。  

 わたしたちには約束が与えられている。それは、終わりの日に神の御心が成るという約束である。神はその計画を実現に向けて進めていてくださる。わたしたちの目には計画の破綻と見えるような悲惨な状態が現れている間もである。神はすべてを御手の内に支配しておられるからである。わたしたちはそのことを信じ、神の計画の実現を待つことができる。

2021年1月31日
創世記 22:1-19 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:1-13

「備える神」         牧師 永瀨克彦

 有名なイサク奉献の場面である。なぜ神が与えてくださったイサクを神が取ろうとなさるのか。イサクは愛する一人息子であるだけでなく、神の約束そのものである。イサクを通して、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」という神の約束が実現するはずである。なぜその神ご自身が約束を取り上げるようなことをするのか。アブラハムが苦しんだように、ここを読むわたしたちも理解に苦しむ。神の約束と要求の間には矛盾があるのである。

 神は自由なお方であり、主権者である。だからアブラハムを試すこともできる。それはわたしたちの目には矛盾にしか見えない。神ご自身が矛盾した存在にしか見えない。神は人間の理解を超えており、神を知り尽くすことはできない。しかし、聖書が語っていることは、わたしたちが理解に苦しんでいる間も、神は徹底して誠実なお方であり続けるということである。

 アブラハムはそれを信じた。そして、実際神はアブラハムに応え、イサクの代わりを備えてくださった。「きっと神が備えてくださる」(22:8)。「備える」とは、「見る」とも訳せる言葉である。アブラハムが神の矛盾に直面したとき、神を見失いそうになったとき、神はアブラハムを見続け、備えてくださった。アブラハムはそれを信じた。今自分には神が見えないが、神は自分を見ていてくださると信じたのである。

 アブラハムと同じように、わたしたちも今コロナ禍という理解に苦しむ状況に直面している。神の誠実を疑いたくなる試練を味わっている。しかし、わたしたちが霧の中にいるようなときも、神はわたしたちを見ていてくださる。この試練のとき、わたしたちは理解を超えているけれども誠実な神、わたしたちを愛してくださる神に信頼し続けたいのである。

2021年1月24日
創世記 15:1-21 ローマの信徒への手紙 4:1-12

「行いによらない救い」    牧師 永瀨克彦

 創世記12章以降は族長物語が描かれている。11章までと比べて異なっていることは、12章以降は遡ることができる歴史として書かれているということである。わたしたちはここから、わたしたちの現実の生に神がどう関わってくださるかを聴くことができる。神との交わりに生きるものとして造られた人間は、今もその恵みにあずかることができるのである。信仰は生き方を変える力を持つ。

 12:1以下で、神はアブラハムに祝福を与える約束をし、カナンへと旅立つよう指示される。75歳のアブラハムにずっと生まれ育った土地と親族を捨てよというのは、普通は無茶な要求である。しかし、アブラハムは約束を信じて従う。まず神から約束が与えられ、それを信じてついて行く、それが信仰である。そして神は必ず約束を果たしてくださる。

 祝福とは呪いの反対であることが12:3から分かる。呪いとは神から見捨てられることである。であるならば、その反対の祝福は神が共にいてくださるということである。

 約束を信じてついて行く歩みは、決して孤独なものではない。その道は神ご自身の道であって、わたしたちは主と共に歩むのである。信仰の歩み、伝道の道のりでわたしたちは苦しみを覚えることもある。だが、神は面倒な仕事を押し付け遠くで見ているのではない。主が働いてくださる。わたしたちは主の働きに加わり、主と共に働くのである。
 約束を信じる信仰によって、わたしたちは主と共に歩む。ただ信仰によって、わたしたちは主との交わりに生きる、つまり、救いにあずかることができるのである。

2021年1月17日
創世記 9:1-17 ローマの信徒への手紙 3:25

「滅ぼすことは決してない」    牧師 永瀨克彦

 ノアの洪水は、一見すると悪い人々が滅んで善い人だったノアだけが助かったという因果応報の裁きの物語に見えるかもしれない。助かりたかったらノアみたいに善い人になりなさい。そういう話に見えるかもしれない。しかし、そうではない。ノアが助かるのは彼が善い人だからではなく神がノアの罪による心の痛みを耐えてくださるからである。

 神は人間が常に心に悪いことを思い計っているのをご覧になって心を痛められた(6:6)。そして、創造を後悔し、すべてをぬぐい去ろうと決心された。それは怒りの鉄槌ではない。神はご自身を責めておられるのである。罪を犯すことは神にこれほどまでの痛みを味わわせることである。

 洪水の後、人間の心は何も変わらない。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(8:21)。ノアもまた、罪人である。にもかかわらず、「わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と神は約束してくださった。変わったのは人間ではなく神の心である。神の心が痛むことはこれからも変わらない。しかし、その痛みを我慢し続けると神は約束してくださったのである。  

契約のしるしとして神は虹を置いてくださった。虹が出る度に、神御自身が契約を思い起こしてくださる。災害や疫病を見て、天罰だ、神の怒りだと言うとき、わたしたちは神が立ててくださった契約を忘れている。神はわたしたちを滅ぼすことは決してない。神は心の痛みを飲み込み、罪人に対して呪いではなく祝福を与えてくださったのである。

2021年1月10日
創世記 1:26-31 エフェソ 4:20-31

「神の似姿である人間」       牧師 永瀨克彦

 天地創造の物語が伝えようとしていることは、「人間とは何者か」ということである。創世記の初めの数章は、一見科学を知らなかった時代の人が世界の成り立ちを間違って説明している文章に思えるかもしれない。しかし、創世記は最初から、世界の成り立ちを説明することよりも人間の本性を語ることに関心を持っているのである。

 だから、この個所に自分のアイデンティティを求めるのは何も間違ったことではない。それは曲解や深読みではない。プロテスタントは聖書に立ち返る運動である。この個所が書かれた当初から著者が伝えようとしていたこと、「人間とは何か」をわたしたちは聞きたいのである。

 神は応答する者として人間を造られた。神は言によって創造し、被造物がその語り掛けに応えることを期待された。また、神は三位一体の神にかたどって人を創造された。つまり、父子聖霊の交わりに同じようにあずかる者として、神は人間を創造された。このように、神に応え、神との交わりに生きる者として神は人を創造された。神との交わりを持つことが人間本来の姿であると聖書は言う。

 だからこそ、わたしたちは福音をすべての人に伝える。主イエスを信じ、神との交わりを回復することは、すべての人にとって本来の自分に戻ることなのである。

2021年1月3日
エレミヤ書31:15-17 マタイによる福音書 2:13-23

「約束の実現」       牧師 永瀨克彦

幼子主イエスと両親のエジプトへの避難、ヘロデによる子供の虐殺、そしてエジプトからの帰国。それらすべてが預言の実現であるとマタイは述べる。つまり、救いは突然気まぐれに起こったのではなく、すべて神の計画であるということである。それは、人間が楽園を追放されて以来の神の悲願である。なぜ悲願と言うかというと、神は独り子を犠牲にしてでもそれを成し遂げてくださったからである。人間が主との交わりに生きることは創造のときからの人間の本質であり、神は長い計画を通して人間を取り戻されたのである。だから、旧約聖書と新約聖書は繋がっている。旧約聖書は過ぎ去った過去の遺物であり新約聖書より劣っていると考えるべきではない。それは二つで一つの救いの物語なのである。

この救いは、主の再臨という完成へと向かっている。わたしたちの周囲で何が起ころうとも、神の救いの計画があり、それが進んでいることは確かである。ヘロデによる虐殺は神の御心ではなかった。しかし、そのような暗い時代にも密かに、しかし確かに救いは進行していたのである。

わたしたちは、神の救いの計画の中を生きている。そしてこの計画は、主イエスがすでに救いを成し遂げてくださったために、完成が約束された計画である。勝利が既に約束されている。わたしたちは、主の勝利を疑いたくなるような暗い時代を生きる今日も、確かに光に向かって進んでいるのである。

2020年12月27日
イザヤ書 60:1-3 マタイによる福音書 2:1-12

「主をお迎えする」       牧師 永瀨克彦

東方から来た占星術の学者たちは、ユダヤの人々から見るともっとも救いから遠い人々であった。異邦人である上に占いをする者だからである。彼ら自身もそう見なされていることは分かっていた。それだけに、神が招いてくださった喜びはひとしおであった。

彼らは東方で星を見たからやって来た。その星を見せてくださったのは神である。ここにはまず神の招きがある。ヘロデやエルサレムの人々は主を受け入れなかった。対して異邦人である占星術の学者たちは主を受け入れた。主を拒むか受け入れるかの対比がなされているが、重要なことはそれに先だって主が受け入れてくださっているということである。

客観的にも主観的にも、もっとも救いから遠いように思えた人に、救い主が与えられた。ここから読み取れることは、わたしもまたその救いから漏れることはないはずだということである。

まず神の側から救いがもたらされた。このことを知るならば、わたしたちは自ずと喜んで主を受け入れるはずである。救いが与えられた点では博士たちもヘロデも同じである。博士たちはそれを救いだと知っていたので喜んだ。ヘロデは、それは実際には救いなのに破滅だと誤解したから拒んだのである。

先んじて神がわたしを救ってくださった。主を受け入れるためにこのことを聴きたい。

2020年12月20日
イザヤ書 9:1-6 ヨハネによる福音書 1:1-14

「まことの光」    牧師 永瀨克彦

ヨハネによる福音書の書き出しは、一見抽象的で、もしかするとただの神話のように見えるかもしれない。しかし、ヨハネはあくまでも現実のこととして語っている。光はただ天上で輝いているのではなく、「わたしたちの間に宿られ」、わたしたちの間で輝く現実なのである。

主イエスはこの歴史において生まれてくださり、十字架にかかって死に、復活してくださった。神の子の犠牲と復活が現実になされたからこそ人間は救われた。これが福音である。もしそれが空想であり、ただ人間の心を落ち着かせるためだけのものなら、そんなものの代わりは他にいくらでもある。キリストがわたしたちの歴史に生まれてくださった。そのことが福音であり、ヨハネはそのことを語っている。

しかし、わたしたちには、それを神話だと思いたくなる誘惑がある。時間が経てば経つほどゴルゴタでの出来事は遠い過去になっていく。また、科学が進歩すればするほど、復活がより信じがたく思えるようになるかもしれない。だから、「神話は神話として、愛の教えなど現代でも通用する教えだけを採用しよう」などと思いたくなるかもしれない。

だが、「現実に、既に、あなたの救いは成し遂げられたのだ」、この知らせこそが福音である。わたしたちはこの福音を手放してはならない。忘れてはならない。わたしたちが忘れないために主イエスが定めてくださったのが聖餐である。聖餐にあずかるとき、「主イエスは確かにわたしのために血を流してくださったのだ」ということをわたしたちは改めて知ることができる。救いは確かに成し遂げられた。それはわたしたちの心の持ちようの問題などではなく、主が行ってくださった現実である。

2020年12月13日
ダニエル書 12:2-3 マルコによる福音書 13:1-37

「目を覚ましていなさい」    牧師 永瀨克彦

 マルコ13章はいくつかの聖書日課ではアドベントに読むように指定されている。わたしたちは、待降節のとき、メシアの誕生を心待ちにした人々に自分を重ねつつ、主の再臨を待ち望む信仰を新たにするのである。

 主イエスは神殿の崩壊を予告された。これは一見、「どうせいつかはすべて崩れ去る」という皮肉や虚無主義に見える。しかし、そうではない。神殿は目に見える素晴らしいものの代表である。それよりも、もっと素晴らしいものが到来すると主イエスは言っておられるのである。

 だから、ここにあるおどろおどろしい記述の数々は、わたしたちを恐れさせるために書かれているのではない。それらを受けて絶望してはならない。それで終わりではない。その後に本当の素晴らしいものが来るということを主イエスは言っておられるのである。

 偽メシアや偽預言者は現に多くいる。そうした人々の主張は様々だが、共通することは救いは完成していないと主張する点である。しかし、わたしたちが知らされているのは、主は救いを成し遂げてくださったということである。主イエスは十字架と復活により人間の贖いを完遂してくださった。わたしたちがなさなければならない唯一のことはこの福音を信じることだけである。救いのために新たに付け加えられなければならないことは何一つない。だから、わたしたちは惑うことなく主の再臨を待つことが出来る。  

主の再臨は自分自身の希望である。二千年間起こらなかったのだから自分が生きている間は起こらない、自分とは関係ないと思う時、わたしたちは眠っている。それが明日だとしても、数百年後だとしても、わたしたちはそれを自分自身の希望として待つ。それが目を覚ましているということである。

2020年12月6日
イザヤ書 53:1-12 マルコによる福音書 12:35-44

「イエスとは誰か」      牧師 永瀨克彦

 ここには、「ダビデの子についての問答」「律法学者を非難する」「やもめの献金」の三つの物語が書かれている。この三つを通して言われていることは「イエス・キリストとは誰か」ということである。

 「ダビデの子についての問答」で、主イエスは律法学者たちの誤解を正される。それは、「メシアはダビデのような王、つまり、強力なこの世の王である」という誤解である。メシアはダビデの系図に現れたことは確かである。しかし、ダビデの再来という意味でダビデの子と呼ぶならば、それは間違いなのである。メシアは全く違った王、偉ぶるのではなく謙遜な仕える王、この世の王ではなくまことの王である。また、その救いも、王国の再興という、人々の期待をはるかに超えるものであり、人類の救済なのである。

 メシアはこの世の王とは違う、仕える王であるということが、後の二つの物語を通して語られる。律法学者たちは、主に仕えるふりをして、人々からの尊敬を集めることだけに熱心であった。一方やもめは、主を愛し、主のために献金をした。やもめが入れた献金は一番小さい単位の硬貨二枚であった。それは彼女の全財産であった。

 主が問うておられるのは心である。たとえわたしたちが多くを献げても、それが自分の名誉のためであれば、何の意味があるだろうか。しかし、たとえわずかであっても、心から主を愛して献げたものであれば、主は喜んでくださる。  

 メシアとはどのような方か。まさに、このやもめのように、愛によって全てを献げてくださったお方である。やもめは全財産であったが、主イエスは命さえ献げてくださった。父への愛、そして、人間への愛によってである。

2020年11月29日
申命記 6:4-5 マルコによる福音書 12:28-34

「最も重要な掟」      伝道師 永瀨克彦

第一に主を愛すること、第二に隣人を愛すること、この二つにまさる掟は他にないと主イエスは言われる。すべての律法は、この二つに集約される。すべての律法はこの二つの説明なのである。

最も重要なことは主を愛することである。隣人を愛するのも、主を愛するからそうするのである。神が中心であることを聖書は語る。一方現代の人間は、人間を中心に考えることを当然としている。多くの人は、神が中心という考えは無知な中世以前の人間の世界観であり、過去の遺物だと考えている。だが、本当にそうだろうか。

隣人を自分のように愛しなさいという言葉は非常に魅力的である。だから、イエス・キリストを信じていない人の中にも、この言葉を大事にしている人はたくさんいるだろう。それは悪いことではない。しかし、「主を愛しなさい」という第一の掟と切り離しては、その言葉の本当の意味は分からない。わたしたちは、御子の十字架に極まった主の愛を知るときはじめて、その愛に応えて主を愛し、また主の愛によって自分を愛し、隣人を自分のように愛することができるのである。だから、第一と第二の掟は決して分けられない。 主の愛によってわたしたちは主を愛し隣人を愛す歩みへと出て行く。そこには敵を愛することも含まれる。それは難しいことである。わたしたちに与えられている慰めは、敵を赦すことができないわたしたちの罪を、主イエスは贖ってくださったということである。その慰めを頂きながら、わたしたちは隣人を愛す歩みへとやはり出て行くのである。

2020年11月15日
出エジプト記 3:1-6 マルコによる福音書 12:18-27

「生きている者の神」      伝道師 永瀨克彦

 サドカイ派の人々は主イエスのところにやって来て、復活はあり得ないと主張した。それに対して主イエスは、復活はあると宣言される。

 サドカイ派たちは、レビレート婚と呼ばれる制度を引き合いに出して、もし復活などというものがあろうものなら、とんでもない、ばかげた状況が生まれるだろうと言う。レビレート婚とは、長男が子をもうけずに死んだ場合、弟が残された兄嫁と結婚し跡継ぎを残さなければならないというものである。彼らは極端な例を出す。同じことが七度繰り返され、七人とも死んだ場合、七人と結婚した女性は復活後、誰の妻になるのかと言うのである。

 それに対して主イエスは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われる。彼らは、七人の男性と一人の女性が復活したら、混乱や気まずさや争いしかないと思っている。人間の知恵では確かにそうである。人間の想像力ではどうやってその状況を克服するのか想像もつかない。しかし、神は人間の想像を超える業を行う力を持っておられる。それを知らないから彼らは思い違いをしたのである。神は人間の理性を超えた仕方で、御心に適った善い関係をもたらしてくださるのである。「天使のようになる」。ここで強調されているのは、「清い」ということよりは「天にいる者」ということである。つまり、神が与えてくださる善い関係において生きる者ということである。  神は生きている者の神である。その神が「わたしはアブラハムの神である」と言われたのだからアブラハムは生きている。つまり復活はあると主イエスは言われる。復活は人間の理解を超えているがわたしたちはそれを信じて待つことができる。人間の想像を超えた善い業を神は行われるのである。

2020年11月8日
創世記 1:26-27 マルコによる福音書 12:13-17

「神のものは神に」      伝道師 永瀨克彦

 ファリサイ派やヘロデ派の人々は、主イエスを陥れようとして言った。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。もし、主イエスが納税を否定したら、彼らは主イエスをローマに対する反逆で訴えることができる。反対に主イエスが納税を肯定したら、多くの民衆が主イエスに失望し、攻撃するだろう。「ローマから解放してくれると思ったのに、皇帝の支配を認めるのか」という具合にである。

 主イエスは彼らの下心を見抜いて、「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と言われた。主イエスが「これは誰の肖像と銘か」と尋ねられると、彼らは「皇帝のものです」と答えた。主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。

 「神のもの」とはわたしたち自身のことである。創世記1:26-27には、神はご自身にかたどって人を創造されたと書かれている。コインに皇帝が描かれているのと同じように、わたしたちには神の似姿が刻まれているのである。

 神のものを神に返すとは、わたしたちが神に立ち返ることである。皇帝への税金をどうするかを考えるとき、まず自分が主に立ち返ることが必要である。主の御心を求め、信仰によって納税を決断するとき、それは信仰と矛盾しない。皇帝もまた主が造られた世界の者であり、主の支配の下にある。ファリサイ派やヘロデ派は「神か皇帝か」の二者択一を迫るが、それは成り立たない。人々は神殿の外での決断もまた信仰によってなすのである。  わたしたちは日曜日だけではなく、月曜日から土曜日の間になす様々な決断を、やはり信仰によってなす者である。

2020年11月1日
イザヤ書 5:1-7 マルコによる福音書 12:1-12

「ぶどう園の主人」      伝道師 永瀨克彦

 主イエスは「ぶどう園と農夫のたとえ」を話される。悪い農夫は、ぶどう園を自分の物であると思い違いをした。収穫を受け取りに来た僕を何人も殺した。最後に主人は愛する息子を送ったが、農夫たちはその息子も殺した。彼らは相続財産まで自分の物にしようとした。主人は自分だと勘違いをしているからである。このたとえは、「主人は誰か」ということを問うている。主イエスは、神殿を我が物顔で支配し、御心に反することをしている祭司長たちに「主人は誰か」と問うておられるのである。

 ぶどう園の主人が息子を送ったことは、どう考えても愚かである。その前に何人も殺されているのだから、愛する息子も同じ目に遭うに決まっている。ただ農夫を処分すれば良いだけなのに、なぜそうしないのか。彼にはその権限も力もある。結局、主人は農夫に情けをかけ続けたのである。

 この愚かに見えるほどの憐れみをかけてくださったのが神である。神は人間を拭い去ることなく、人間が自らの意志で立ち返ることを待ち続けてくださった。何度否まれても忍耐し、ついには独り子である主イエスを送ってくださったのである。  主人は誰かと問われている。わたしたちは主に仕え、教会に仕える。教会の外で働くときも、わたしたちは世界をお造りになった主に仕えている。主に仕え、福音を伝えていく者でありたい。自分を主人とするとき、人間は福音を曲げてしまう。わたしたちは御言葉に仕える。信仰の先達たちが教会に仕えたからこそ、わたしたちは信仰を受け継ぐことができている。この聖徒の日、主に仕え、信仰を継承し伝えていく思いを新たにしたい。

2020年10月25日
エレミヤ書 23:5-6 マルコによる福音書 11:27-33

「わたしに答えなさい」      伝道師 永瀨克彦

 主イエスがなさった「宮清め」の出来事を見て、祭司長や律法学者たちは、「なんの権威で、このようなことをしているのか」と尋ねた。主イエスは、「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あななたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか、答えなさい」と言われた。祭司長たちは答えなかった。「天からのものだ」と言えば、「ではなぜヨハネを信じなかったのか」と言われるし、「人からのものだ」と言えば民衆から反感を買うからである。すると主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言われた。

 これは、主イエスが祭司長たちを罠にはめたということではない。主イエスの意図は答えさせないことではなく、答えさせることである。つまり、祭司長たちが、ヨハネは預言者であり、よって、ヨハネがその道を整えた主イエスは主の権威をもつ方だと告白すること、つまり、信仰告白することを主イエスは求めておられるのである。

 「父なる神の権威だ」と答えることは簡単である。しかし、主イエスはそうされない。聞いても信じなければ、祭司長たちにとって意味が無いからである。主イエスは彼らを信仰へと、救いへと招き、最も必要なことを彼らに対してしているのである。  主イエスは十字架と復活によって救いを成しとげてくださった。しかし、わたしたちがそれを聞くだけで信じなければ、救いは自分のものとならない。神はわたしたちに、この福音を聞き答えることをお求めになる。わたしたちが自由な決断において信仰を告白することを神は待っておられるのである。

2020年10月18日
イザヤ書 49:1-6 マルコによる福音書 11:12-25

「祈り求める」        伝道師 永瀨克彦

 主イエスは空腹を覚えられた。そこで葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て近寄られたが、実はなかった。主イエスはいちじくの木を呪われた。

 一見、主イエスが腹いせに木を呪ったように見える。しかし、そうではない。この出来事が記録されているのは、見かけだけ主に従うことの空しさを表すためである。神殿の祭司長や律法学者たちは、主に仕えているように見えるが、自分の思いに従っており、御心と反対のことをしている。その姿が、葉は豊かに茂っているが近づいてみると実がないいちじくの木にぴったりと重なるのである。

 いちじくの木の記述に挟まれて、「宮清め」の出来事が記されている。主イエスが両替人や鳩売りを追い出したのは、単に神殿での金儲けを戒めたのではない。売り買いする人々の喧騒が、異邦人の祈りを妨げていたからである。そこは「異邦人の庭」と呼ばれる場所であった。「異邦人は祈らなくてもいい。来なくてもいい」という人々の考えこそが批判されている。神の御心は全く逆である。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と神は言われる。人々は神殿で神に仕えるふりをして、御心と真逆のことを行っている。これが、青々と茂っているが実がないいいちじくの木である。  23節以下には祈りについて書かれている。「少しも疑わず…信じるならば、その通りになる」とあるが、これはすべて祈りだけで解決せよということではない。例えば「どんな病も祈れば必ず治る。治らなかったのはあなたの信仰が足りなかったからだ」などとわたしたちは言うことはできない。人間の思いに神を従わせることはできないからである。しかし、主に従うときわたしたちは何でもおできになる神の力に信頼することができるのである。

2020年10月11日
詩 編 118:22-29 マルコによる福音書 11:1-11

「エルサレム入城」        伝道師 永瀨克彦

 主イエスはろばに乗ってエルサレムに入る。つまり、身を低くし、仕える者としてエルサレムに入られる。主イエスは十字架に掛かるためにエルサレムに入るのである。

 しかし、人々は将来のイスラエル国王として主イエスを迎える。人々の熱狂と主イエスの沈黙は対照的である。人々の無理解にも関わらず、主イエスは黙々と十字架へと進み続け、救いを成しとげてくださるのである。

 人々は、主の救いの計画を拒否し、自分の願いを押し付けようとしている。十字架へと進まれる主イエスを引き留め、「そんなことはしなくていいですから、どうぞ王座へ」と言っているようなものである。それは、無理解であるだけでなく、妨げである。にもかかわらず、ついに人間の救いは成し遂げられる。

 救いは人間が自分で勝ち取るのだとか、神の働きに対して人間の協力が必要だといった考えが間違いであることが、ここからよく分かる。救いは完全に、神からの恵みとして与えられるものである。  人々は、自分の理想に主イエスを当てはめようとした。しかし、実際は、主イエスは人々の考えに収まるような方ではなく、それをはるかに超える仕方で救いを成しとげてくださった。わたしたちは、主イエスを自分の願い通りの姿としてではなく、神の子でありながら身を低くして仕え、すべての人間の罪を担い十字架に掛かってくださったお方として受け入れたい。例えば十字架の贖いを拒み、主イエスを救い主としてではなく比類なき思想家として、自分に都合の良い人物としてあがめるならば、それは沿道で主を迎えた人々と同じ過ちを犯すことになるだろう。わたしたちは、「主イエスの犠牲によってわたしは救われたのだ」という福音を受け入れたいのである。

2020年10月4日
サムエル記上 3:15-21 マルコによる福音書 10:46-52

「主に従う」          伝道師 永瀨克彦

 盲人バルティマイのいやしの場面。これは奇跡物語であると同時に召命物語である。召命とは神から召されることである。バルティマイは「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。だから、一見バルティマイが主イエスを呼び寄せたように見える。しかし、実際は主イエスがバルティマイを呼んだのである。49節には「呼ぶ」という言葉が三度繰り返され、そのことが強調されている。    

 バルティマイは主に呼ばれると、まだいやされる前から躍り上がって喜んだ。それは、主イエスが権能をお持ちであることを確信していたからである。主イエスはこの信仰を喜ばれた。

 「何をしてほしいのか」という主イエスの問いに、バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答える。バルティマイは自分が主の助けを必要としていることを理解し、それを求める。10:36-で、同じように問われたヤコブとヨハネが「一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願ったことと対照的である。彼らは主に助けを求めない。  主イエスは既に十字架と復活によって救いを成しとげてくださった。わたしたちの前には救いが置かれている。しかし、主が目の前におられても救いを求めなかった弟子たちのように、自分が救いを必要としていると分からなければ目の前のそれを受け取ることはできない。主はわたしたちを呼び、問うてくださる。そのとき、わたしたちは福音を受け入れたい。救われた者は召されており、主に従うものとされる。バルティマイは十字架への道を進まれる主イエスに従った。

2020年9月27日  
創世記 9:8-17 マルコによる福音書 10:32-45

「信じる者すべてに」   伝道師 永瀨克彦

 主イエスは、三度死と復活の予告をされる。三度の予告を通して、主イエスがユダヤ人の指導者たち、同胞の民衆、そして、異邦人に引き渡されるということがそれぞれ告げられる。つまり、すべての人間が主イエスの死に関与しているということである。神の子を殺した責任をユダヤ人だけに負わせようと思うならそれは間違いである。

 すべての人間が関わったとは、厳しい言葉であるが慰めでもある。主イエスの死はすべての人間のためのものだからである。主の死に関係しているということは、死による贖いにも関係しているということである。主の贖いは全ての人にとっての福音である。

 主イエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と言われる。仕える者になることは難しい。人間にそれができるのは、人の子が「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来」てくださったからである。主の死を自分と関係ないところで起きた出来事としてではなく、自分のための贖いとして受け入れるときはじめて、わたしたちは主に仕えていただいたことが分かる。  奉仕は救いに至る手段ではないが主が期待しておられることである。救われた者として、仕えてくださった主の愛によって人に仕える者となりたい。

2020年9月20日
イザヤ書 32:1-8 マルコによる福音書 10:17-31

「天に富を積む」   伝道師 永瀨克彦

ある人が走り寄ってひざまずき、主イエスに「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねた。彼は自分の力で救いを得ようとし、その手段を教えてくれる教師を探している。しかし、人間は自分で自分を救うことはできない。よって、存在しない手段を教えられる教師もまた存在しない。だから主イエスは「神お一人のほかに、善い者はだれもいない」と言われた。人間は救いを与えてくださる唯一の方である神により頼まなければならない。

主イエスは「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる」と言われた。この男性は自らの行いにより頼もうとしている。富は行いによって得た神からの祝福のしるしだと思っている。しかし、本当は、救いを確信させるものは地上の富ではなく救ってくださる神を知ることである。救いを保証するものは地上の富ではなく救ってくださる神の存在そのものであり、その神への信仰である。善行をしるしだと誤認するのではなく、信仰という真の救いのしるしを所有すること、それが天に富を積むということである。

だから、「天に富を積む」とは、貧しい人々に施せば神が喜ばれ救ってくださるという意味ではない。それでは丸っきりこの男性が思っている行為義認と同じである。 お金持ちに限らず、人間が自分を救うことは「らくだが針の穴を通る」よりも難しい。それは、「とても難しい」ということではなく「不可能だ」という意味である。しかし、人間には絶対にできない救いを神はしてくださる。「神は何でもできる」からである。自分にはできない救いを成しとげてくださる神に、わたしたちはより頼みたい。

2020年9月13日
出エジプト記 2:1-10 マルコによる福音書 10:1-16

「子供のように」   伝道師 永瀨克彦

ファリサイ派の人々は、主イエスを試そうとして、「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」と尋ねた。離婚が合法であるのか違法であるのか、主イエスをいずれかの立場に立たせ、もう片方の立場の人々に主イエスを攻撃させようとしたのである。

彼らがしているのは法的な、表面的な議論である。それを主イエスは創造の物語を通して、結婚の本質の議論へと引き戻される。結婚は単に法的なものではなく、神が結び合わせてくださったものである。よって、離婚はただ合法であれば許されるというものではなく、神との関係において考えられなければならないことである。これは、当時「モーセが許しているから」という理由で、自分勝手に離縁状を書く者が多くいたことに対する警告である。

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。これを、「いかなる場合も絶対に離婚してはならない。必ず罰せられる」というように理解してはならない。そのように考えるならば、それこそ、ファリサイ派の人々のような律法主義的な考え方をすることになる。そうではなく、結婚を神から与えられたものとして受け止めなさいということを主イエスは言っておられるのである。

「子供のように神の国を受け入れ」なさいと主イエスは言われる。子どもは親からの援助を受け入れることに長けている。弱さゆえに受け入れる以外無いのである。我々大人は、その受け入れる能力を見習い模倣すべきである。

「自分で得たもの」と考えるとき、わたしたちはそれを自分勝手に取り扱う。神が与えてくださったものを子どものように受け入れ、神との関係において考える者となりたい。

2020年9月6日
詩編 78:1-4 マルコによる福音書 9:38-50

「内に塩を持ちなさい」   伝道師 永瀨克彦

「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と主イエスは言われる。前回読んだ「仕える者になりなさい」ということと、今回の塩を持つということ、そして平和に過ごすということは互いに関係し合っている。

塩を持ちなさいということの意味は、現代のわたしたちにはピンとこないが、聖書が書かれた時代の初代教会の人々にはすぐに意味が分かったことだろう。つまり、塩は犠牲と関係しているのである。レビ記2:13には「穀物の献げ物にはすべて塩をかける」と書かれている。素祭の献げ物、穀物の献げ物からは塩を絶やしてはならない。そして献げ物は火で焼かれることになる。火によって塩味がつけられるとはそういう意味である。

主イエスこそは、火で塩味がつけられた犠牲の子羊である。主イエスはわたしたちの代わりに罪を担い十字架にかかってくださった。わたしたちが内に塩を持つとは、この主イエスの犠牲を自らの内に受け入れるということである。

主の犠牲を受け入れることによって、わたしたちは初めて、主が仕えてくださったように他人に仕える者になることができる。そして、仕え合って初めて、わたしたちは互いに平和に過ごすことができるのである。

主を受け入れ、他の者に塩味をつける塩として生きていきたい。

2020年8月30日
コヘレトの言葉4:4-12 マルコによる福音書 9:30-37

「仕える者になりなさい」   伝道師 永瀨克彦

「仕える者になりなさい」という言葉は「このような子供の一人を受け入れるものはわたしを受け入れるのである」という言葉と併せて理解されなければならない。なぜなら、主イエスが人間の犠牲となり仕えてくださったと知って初めてわたしたちは仕える者になることができるからである。

 子供とは、ここでは劣った存在を表している。「子供が劣っている」とは今日の常識では到底同意できないが、当時の人々はそう捉えていたのである。弟子たちは主イエスを一番偉い人として受け入れ、自分が二番目になろうと思っている。それに対し、主イエスはご自身は子供のようなものだと言っておられる。主イエスは十字架で代わりに罪を担って死ぬことで人間に仕える者となってくださる。弟子たちは、仕える者、低い者となってくださった方として主イエスを受け入れなければならない。それが子供の一人を受け入れるということである。

 「仕える者になりなさい」という言葉だけを切りとってしまいたいという誘惑がある。その方が分かりやすく、未信者に受け入れられやすいと思えるからである。一方福音は難解である。主イエスの十字架がただの処刑ではなく、すべての人間の犠牲であり、よって奉仕であったという福音は人間の理解を超えており、伝える相手から拒絶されるのではないかという恐れをわたしたちに起こさせる。しかし、主が仕えてくださったということ、そしてそのことによってわたしたちの罪は赦されたということこそが福音である。わたしたちが仕えることは、主の奉仕を知って初めて可能なのであり、福音に続いて生まれる結果なのである。わたしたちは誘惑を退け福音を語る者でありたい。福音こそ教会にしか語れない、語るべき内容である。

2020年8月23日

列王記上 18:27-29 マルコによる福音書 9:14-29

「わたしのところに」   伝道師 永瀨克彦

 一人の人が、汚れた霊に取りつかれた息子を連れて弟子たちのところを訪れたが、弟子たちはその霊を追い出すことができなかった。主イエスは「なんと信仰のない時代なのか」と嘆き、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われた。このことからわかるように、霊を追い出すことは、信仰によってなされることであり、霊を追い出されるのは主なのである。弟子たちが失敗した理由はおそらくそれであった。かつて十二人が派遣され、各地で悪霊を追い出したとき、彼らは主から授けられた権能によってそれをなした。しかし、今や彼らはその経験から、自分にはその力があると思い違いをしたのである。

 主は「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われた。祈ることは自分の力で奇跡を起こすことではなく、むしろ身を低くし主の力により頼むことである。

 そのようにして祈るとき、祈る者を通して主の業が行われる。主イエスは「信じる者には何でもできる」と言われ、父親は「信じます」と答えた。この父親の信仰によって、息子はいやされた。主により頼むとき、わたしたちは主の力が働くための器として用いられる。だからわたしたちには「何でもできる」。それは自らの力ではなく、主の力によってである。

 「信仰のないわたしをお助けください」という言葉通り、今回の奇跡は父親自身の救いでもある。単に息子が助かって心から喜んだということではなく、信仰が授けられたことそのものが父親の救いであった。

 祈り、主により頼むとき、わたしたちを通して主の業が行われる。伝道はわたしたちの力では不可能だが、わたしたちにはそれができるのである。

2020年8月16日
創世記 22:1-12 マルコ福音書 9:2-13

「これはわたしの愛する子」   伝道師 永瀨克彦

 主イエスは高い山に登られた。主イエスのお姿が三人の弟子の目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。つまり、その輝きはこの世のものではなく、神の子の栄光であった。エリヤがモーセと共に現れ、主イエスと語り合った。

 ペトロは「仮小屋を三つ立てましょう」と言った。ペトロは主イエスを高い山に押し留め、祀ろうとした。しかし、主イエスは高い山であがめられるために来たのではなく、むしろ山から下りて蔑まれ、十字架で死ぬために来てくださったのである。神の子が人間の救いのために、(神の子でありながら)人の子となって生まれてくださったのである。

 雲の中から父なる神が言われた。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。山を下り、人間のために十字架に向かうのは、主イエスの愛である。同時に、それは父なる神の愛でもある。神はどうでもいいものを犠牲にしたのではない。全ての人間の代わりに死んだのは神の愛する子である。

 主イエスはこれから十字架に向かって歩まれ、弟子はその後ろをついて行く。しかし、その中にあって弟子たちは希望を抱くことができる。彼らは復活の主イエスの栄光、白く輝く姿を先んじて見せていただいたからである。

 わたしたちもまた、自分の十字架を背負って主に従う道を、希望を持って歩むことができる。なぜなら、弟子に復活の栄光が先に示されたように、わたしたちには、自分の復活に先立つ主の復活が知らされているからである。だから、わたしたちは自分の将来の復活を確信し、希望を抱いていることができるのである。

2020年8月9日
出エジプト記 3:11-12 マルコ福音書 8:27-9:1

「わたしは誰か」      伝道師 永瀨克彦

27節以下で、主イエスはペトロに信仰告白をさせる。そして、31節以下で、主イエスは、主に従う者はどういう者か、つまり、人間は何者かをお話しになる。人間が「わたしは誰か」を発見することは、主イエスが何者かを知ることによって初めて可能になるのである。

 主イエスは弟子たちをフィリポ・カイサリア地方に連れて行き、そこで「あなたがたは、わたしを何者だというのか」と問われる。そこは、ヘルモン山のふもとであり、ガリラヤ地方とエルサレムを同時に見渡せる場所である。主イエスを知るには、ガリラヤで行われた奇跡だけではなく、エルサレム、つまり十字架に至る道を見なければならない。ただ偉大なだけではない。死によって人間を罪から贖われる神の子が主イエスなのである。

 このことを知るとき、初めて人間は自分が誰かを知ることができる。神が独り子を犠牲にしてまで取り戻した存在がわたしである。主イエスはわたしのために命を捨ててくださったのである。

 この神の思いに応え、主の後に続くのがわたしである。そのことを、人間は主イエスを知ることによって知る。自分の十字架を背負って主に従うことは、福音のために命を失うことである。つまり、古い自分に死に、福音を伝える新しい命に生きることである。わたしたちは、主の死に与り、また主の復活に与る。復活の主イエスの命によって、わたしたちは新しく生きる者とされる。この命は永遠の命である。主を知るとき、すなわち、主がわたしのために命を捨て救ってくださったと知るとき、わたしたちはその福音を伝えていく新しい命を生き始めるのである。

2020年8月2日
イザヤ書 61:1 マルコ福音書 8:22-26

「主を見る」       伝道師 永瀨克彦

主は二度盲目の人に触れられた。一度目、彼はぼんやりと見えるようになった。二度目に、彼ははっきりと見えるようになった。

わたしたちが主を見るということにも、二つの段階があるということが分かる。一つは、ただ、イエスという人間がいたのだということを見聞きして、認識するということ。そして二つ目は、主から信仰を与えられて、その方が救い主、神の子主イエス・キリストであると分かるということである。

 一つ目の段階では、自分でははっきりと、二千年前にイエスという人物がいて、十字架で死んだのだと認識しているように思っている。しかし、それは、ぼんやり見えているようなものなのである。弟子たちも、五千人、四千人の給食をはっきり記憶し、籠の数も正確に言い当てた。しかし、それを見ても、「イエスは主である」ということを彼らは理解しなかった。弟子たちもぼんやりとしか見ない者であったのである。

 だから、この個所の奇跡は視力の問題ではない。弟子たちにも必要なものであり、わたしたちにも必要なものである。つまり、人間は主から信仰を与えていただかなければならないのである。

 主は手を取って村の外に連れ出し、何度も語り掛けながら目を開いてくださる。神は偉大なお方であるにも関わらず、わたしたちと一対一の関係を築いてくださる。そして、言葉を与え、信仰へと導いてくださるのである。

2020年7月26日
レビ記 2:11 マルコ福音書 8:1-21

「パン種に気を付けなさい」   伝道師 永瀨克彦

五千人の給食のすぐ後に、四千人の給食が描かれているのはなぜだろうか。中には、「もともと一つであった出来事を二通りに記録しているのだ」と説明する人もいる。いくら物分かりが悪い弟子たちであっても、五千人の給食の奇跡を見た後で、「いったいどこからパンを手に入れることができるでしょうか」などと言うことはさすがにないだろうというのである。

しかし、これはやはり独立した二つの出来事である。主イエスは19節と20節で、両方の出来事を記憶しておくことを弟子たちに求めている。また、前者はユダヤ人、後者は異邦人に対する主の招きである点も重要である。それぞれに違った意義がある。

つまり、弟子たちは同じような状況をすでに見たにも関わらず、ここで主イエスの権威を理解しない。この弟子たちの物分かりの悪さこそが、ここでは重要なのである。

主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われる。ファリサイ派たちは、主イエスの奇跡や言葉を確かに見聞きしているにも関わらず、主イエスが誰であるのか理解しない。ヘロデは、ヨハネから主イエスが誰であるのか、言葉を聞いていたにも関わらず、理解しない。無理解に気をつけなさいと主は言われているのである。

弟子たちは、残ったパン屑の籠の数をはっきりと記憶している。彼らはその出来事を確かに見たのに意味を理解しなかった。その弟子たちに、主イエスは子供でも理解できるであろうほどに易しく説明している。

見聞きして、分かったように思っていてもその意味を理解していないことがあるわたしたちに、主は教えてくださる。主イエスは神の子であるということを忍耐強く示し続けてくださるのである。

2020年7月19日
イザヤ書 35:1-6 マルコ福音書 7:24-37

「神の御国」     伝道師 永瀨克彦

シリア・フェニキアの女性の信仰と、デカポリス地方の男性のいやしの話。それは別々の出来事であるが、関連性のある話である。つまり、「隠されていたものが明らかになる」という点で共通している。

主イエスはティルスで、ある家に入り、誰にも知られたくないと思って静かに過ごしておられたが、人々に気付かれてしまった。そうしてすぐに駆けつけてきたのがシリア・フェニキア出身のギリシア人の女性である。並行箇所のマタイ15章では、マタイは女性の信仰により集中している。マルコでも女性の信仰は重要なテーマであるが、マルコはそれだけではなく、隠されていたものが異邦人に明かされるということもしっかりと伝えようとしている。

デカポリス地方でも、主イエスは男性をいやした後、「誰にも話してはならない」と言われたが、止めれば止めるほど人々は主イエスのことを言い広めた。ここもまた、異邦人の土地である。

主イエスには、まずイスラエルに福音を語らなければならないというお考えがあったのだろう。だから、異邦人の土地で主イエスは神の国の秘密を隠そうとされた。しかし、結局それは明らかにされた。隠されているもので明かされないものはないのである。わたしたちにも神の国は隠されている。罪の世界を見て、「本当に神の支配があるのか」と疑いたくなることがあるかもしれない。しかし、それは将来必ず明らかにされる。今隠されていても、終わりの日に神の御支配は必ず完成する。わたしたちはそのことを信じ、この世界にあって、希望を持って待つことができるのである。

2020年7月12日
詩編 1:1-3 マルコ福音書 7:1-23

「御言葉に立つ」     伝道師 永瀨克彦

 ファリサイ派の人々は、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚(けが)れた手で食事をするのですか」と言って主イエスを非難した。しかし、それは彼ら自身が言っている通り「昔の人の言い伝え」であり、「神の言葉」ではない。律法には食事の前に手を洗わなければならないとは書かれていない。手洗いは良いことであり先人たちの優れた知恵であるが、神の掟ではない。よって、それをしないことは、手がよごれることではあるが、神に背くこと、けがれることではない。ファリサイ派の人々が本来敏感でなければならないのは、よごれではなく、御言葉を無にすること、けがれである。彼らは先祖の言葉を神の言葉と置き換えることによって、御言葉を無にしている。

 そのことのもう一つの例が、「父と母を敬え」という御言葉をめぐってのことである。ファリサイ派たちは「(父母に対して)あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば親に対して何もしなくてもいいと教えた。しかし、それは、親に財産を渡したくないという人間の欲を満たすための方便でり、人間の言葉である。親をないがしろにして神に献げよというのは御心ではない。御言葉は「父と母を敬え」である。それは人間が子から軽んじられることを「耐え難い」と思ってくださる神の愛である。この神の愛を、人間が自分の都合で曲げ、無にすることがあってはならない。御言葉に立ち続けるものでありたい。

2020年7月5日
イザヤ書 41:1-4 マルコ福音書 6:45-56

「ご自身を示される主」 伝道師 永瀨克彦

 五千人の給食の奇跡の後、主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダに先に行かせた。しかし、舟は嵐に遭い、夜明けになっても湖の上で漕ぎ悩んでいた。主イエスは弟子たちを嵐に遭わせる。キリスト者は、主に従うがゆえの嵐を経験するのである。

 しかし、主イエスは弟子たちが漕ぎ悩む様子をしっかりと見ておられた。わたしたちが嵐の中にあって、主に見放されたかのように思うときも、主はしっかりと見ていてくださる。わたしたちの窮状を知っていてくださる。これは慰めである。

 主は弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、湖の上を歩いて弟子たちのそばを通り過ぎようとされた。通り過ぎるとは、神がご自身を示されるときの方法である。モーセやエリヤに対しても神は通り過ぎられた(出エジプト33:22、列王記上19:11)。つまり、主イエスは、ご自身が主であることをはっきりと示される。また、主が共にいるということを弟子たちに分からせようとされるのである。

 しかし、弟子たちは幽霊だと思い大声で叫んだ。弟子たちは、主イエスが舟に乗りこまれ、風が静まったことでようやく胸を撫でおろしたのだろう。だが、弟子たちは本当はもっと早く安心しても良かったのである。主が共におられることが示されたのは、舟に乗りこまれたときではなく、主が通り過ぎたときである。

 それは暴風のように感じられたり、幽霊のように見えるものである。しかし、信仰の目をもって見るならば、主の臨在である。わたしたちが嵐の中にいるとき、主は必ず共にいてくださる。信仰の目をもって通り過ぎてくださる主を見、安心するものでありたい。

2020年6月28日
列王記下 4:42-44 マルコ福音書 6:30-44

「群衆を青草の上に座らせる」 伝道師 永瀨克彦

 五千人の給食の場面。これまで見てきた通り、マルコによる福音書の前半の主題は、主イエスは神の子、救い主であるということである。その主題は8章のペトロの信仰告白の場面で頂点に達する。この五千人の給食も、そうした流れの中に置かれている。だから、この個所を単に、「飢えた人々に施したイエスは立派だ。わたしたちも施す者になろう」という風に読むことはできない。もちろんそう読むこともできるかもしれないが、それで終わってしまうべきではないだろう。この個所が最も伝えようとしていることは、このような奇跡を行うことができる主イエスは神の子だということである。

 主イエスは、人々が飢えていたから憐れに思ったのではない。そうではなく、人々が神を見失っていたから憐れまれたのである。「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」とはそういう意味である。

 主イエスは人々に、まず教えた。つまりパンより先に御言葉を与えた。主イエスは人々を青草の上に座らせるが、主イエスが人々を休ませるのは御言葉を与えることによってである。「人はパンだけで生きるものではない」と主イエスが言われた通りである。

 主イエスは、五つのパンと二匹の魚を分配するために弟子たちをお用いになる。パンを分けることは、御言葉を分けることを象徴している。わたしたちは、御言葉をいただき、憩わせていただく。そして、今度は御言葉を分け与える働き、伝道へと用いていただけるのである。

2020年6月21日
イザヤ書 40:1-11 マルコ福音書 6:14-29

「ヘロデの栄華と洗礼者ヨハネの死」 伝道師 永瀨克彦

 ヘロデ王は兄弟の妻ヘロディアを自分の妻としたこと批判されたため、洗礼者ヨハネを捕らえた。しかし、ヘロデはヨハネの言葉を聞くうちにヨハネが正しい聖なる人であることを知り、喜んで教えを聞くようになった。

 しかし、ヘロディアはヨハネを恨み、殺す機会をうかがっていた。ヘロデの誕生日の祝宴のとき、ヘロディアの娘サロメが踊りをおどり、王と客を喜ばせた。王が褒美を与えると言ったので、ヘロディアは娘に「洗礼者ヨハネの首を」と言わせた。こうしてヨハネは死んだ。

 しばらくして、人々が主イエスの噂をしているのを聞いて、ヘロデは「ヨハネが生き返ったのだ」と言った。ヨハネが死んでもなお、ヨハネが語った福音は止まらないのである。ヘロデが、ヨハネが生き返ったと誤解するほどに、御言葉は生きているのである。

 ヨハネは御言葉に従った。語るということを通して御言葉に仕えた。言は主イエスであり、言の内に命がある。ヨハネは永遠の命に連なる者である。

 ヘロデは一見、必要な物をすべて持っているように見える。彼は宮殿にすみ、宴会を楽しむ。その宴会の裏でヨハネは殺される。

 しかし、人間にとって本当に必要なものを持っているのはヨハネである。すなわち、救いであり、永遠の命である。

 わたしたちは、自分が宮殿の宴会ではなく、牢にいるように感じられるときがあるかもしれない。しかし、そのようなときも、ヨハネには慰めがあった。黙って最後を迎えたのは、ヨハネが満たされていたからではないか。わたしたちも同じである。ただ、主イエスを救い主と信じるなら、終わりの日に復活し、永遠に神のみもとで生きることができる。この、人間にとってこれ以上ない慰めがわたしたちには与えられているのである。

2020年6月14日
主イエスは十二人の使徒を派遣される。その際、主イエスは、彼らに汚れた例に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも金も持たず、下着も二枚着てはならないと命じられた。それは、彼らが、伝道の業とその実りが、主の力によるものであることを忘れないためである。

 下着を二枚着てはならないというのは、旅の間は質素な服装であれということである。それは、彼らが滞在する家の人に対してへりくだるためである。使徒たちは、福音を語るのであるが、優位に立って「語ってあげる」のではない。むしろ彼らは語ることを通して仕えるのである。一つの家に滞在し、寝食の世話になることで、彼らは自らが奉仕者であることを学ばされる。互いに仕え合う交わりの中で伝道がなされる。

 「あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」。これは、福音を伝える責任は使徒にあるが、それを受け入れるかどうかはその人の問題であり、使徒の責任ではないということである。つまり、神は、人間が自由な意思をもって信じることを待ってくださるのである。

 使徒たちは、この旅で多くの収穫を得た。それは主の権能によるものである。使徒たちは、福音書を読み進めると分かるが、多くの欠点を持つ弱い人間である。しかし、主が力を与えくださるがゆえに、立派に伝道の働きを果たすことができる。だから、わたしたちも、恐れることなく伝道に励むことができる。主はわたしたちを用い、福音を語り、実りを与えてくださる。わたしたちは、その召しに応え働くとき、ただ主の権能により頼むのである。

2020年6月7日
エゼキエル書 2:1-7 マルコ福音書 6:1-6a             

「主の業が行われる場」     伝道師 永瀨克彦

 主イエスはナザレの会堂で教えられた。人々は主イエスの知恵ある教えを聞いて驚いた。しかし、イエスが主であると受け入れることはできなかった。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」。

 主イエスが語り、奇跡を行われたのは、主イエスが救い主であると人々が知るためである。そのことによって、自分は救われると確信するためである。しかし、人々は、大工としてのイエスを知っているために、主イエス・キリストを受け入れることができなかった。

 主イエスは、ナザレでは、ごくわずかないやしをしただけで、そのほかには何も奇跡を行うことができなかった。それは、主イエスのいやす力に限界があるからではない。相手の協力がなければいやせないということではない。主イエスには、死んでいる相手さえ生き返らせることができるからである。主イエスはここで、一方的に奇跡を行うことではなく、人々が主イエスを受け入れ、主の業に参与することを求めておられたのである。しかし、それは叶わなかった。だから主イエスは去られたのである。

 主イエスは、わたしたちの間で、わたしたちを通して働いてくださる。わたしたち教会は、主の業が行われる場なのである。わたしたちは、福音を宣べ伝えてくださる主の御業に参与する。主ご自身が伝道される。そして、主は人間をそのために用いてくださる。わたしたちは、主イエスを迎え入れ、わたしたちの間で御業を行っていただけるようなわたしたち教会でありたいのである。

2020年5月31日
哀歌 3:22-33 マルコによる福音書 5:21-43             

「起きなさい」     伝道師 永瀨克彦

 ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上に降った。聖霊なる神がわたしたちの内に住んでくださるようになった。神との永遠の交わりを、わたしたちは、終わりの日に先駆けていただいている。

 神との交わりに生きるということは、神が人間を創造されたときから人間に与えられた本性である。神は父・子・聖霊なる三位一体の神にかたどって人を創造された。ご自身の内に交わりを持つ神にかたどって創造された。人間は神との交わりに生きるものである。

 主イエスは、人間と人格的な交わりを持とうとされる。出血の止まらなかった女性は、主イエスの服に触れた時点ですでにいやされていたが、主イエスは彼女をそのまま去らせはしなかった。彼女を探し出し、言葉を交わし、救いを宣言される。病が治ったことではなく、神との交わりに生き始めたということが、彼女の救いなのである。

 また、ヤイロの娘を生き返らせた後、主イエスは彼女に食べ物を与えるよう、人々に命じる。主イエスは彼女を愛している。ここでもやはり、単に生き返ったことが救いではない。

 わたしたちは、聖霊をいただき、信仰に導かれ、神との交わりを回復させていただいた。神の愛を受け、それに応えて神を愛する、また隣人を愛する。この神との永遠の交わりをいただいていることがわたしたちの救いである。

2020年5月24日
創世記 1:26-27 エフェソの信徒への手紙 2:1-10             

「善い業のために造られた」     伝道師 永瀨克彦

 ここでパウロが語っていることは、わたしたちは行いによって救われるのではない、にもかかわらず、善い行いは重要である、ということである。

善い業の大切さを説くと、自分の行いを誇る者が出てくる。善行を積んで救われようとする者が出てくる。そうした誤解を避けるため、パウロは、救いは徹頭徹尾、神の恵みと信仰によるのだということを強調する。

 その上で、善い業はやはり大切なものである。わたしたちは救われるためではなく、救われた者として善い業を行う。

 神は、前もって準備された善い業のためにわたしたちを造られた(10節)。だから、善い業とは、わたしたちが自分勝手に考える良いことではなく、神がわたしたちに求めておられることである。善い業は、人間が造られた目的そのものである。

では、善い業とは具体的に何をすることなのか。その中心は礼拝である。詩編102:19には、「後の世代のために/このことは書き記されなければならない。/『主を賛美するために民は創造された』」とある。

人間は、つい、自分を世界の中心のように考えてしまうものではないだろうか。しかし、人間のために神があるのではなく、神のために人間があることを忘れてはいけない。わたしたちは主を賛美するために造られたのである。

もちろん、社会で他人に仕える福祉や医療、教育も善い業だと思う。しかし、それらの働きはすべて礼拝から出るのだということを覚えたい。わたしたちは、主を礼拝する。そして、そこで御言葉を聴き、神が今求めておられる善い業とは何か、御心を聴く。そして、礼拝から押し出されて善い業へと出て行くのである。何よりも主日の礼拝を通して神を賛美する者となりたい。これこそ、わたしたちが成し得る善い業の中心である。

2020年5月17日

サムエル記下 12:1-17 フィリピの信徒への手紙 3:17-21             

「主に立ち返る」       伝道師 永瀨克彦

 ナタンの叱責の場面。主はナタンを通してダビデの罪を指摘される。その罪とは、バトシェバを夫ウリヤから奪い、さらにウリヤを殺した罪である。ダビデはウリヤを最前線に送った上で孤立させ、故意に戦死させて、バトシェバを妻とした。

 その罪に対する叱責と、バトシェバが生んだ男児の死亡という重い結果がここには書かれている。しかし、この物語は、罪と罰で終わるわけではない。男の子が死ぬと、ダビデは体を洗って礼拝し、王宮に戻る。そして、しばらく経って、バトシェバはソロモンを産む。つまり、ここには赦しと再生が書かれているのである。

 ダビデの略奪と殺人さえ赦される神の憐みがいかに大きいか。「ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ」とナタンが言う通り、ダビデがウリヤを殺したのである。しかし、そのような者さえ、神は赦し、新しく生きることを許してくださる。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」(詩編51:12)。ダビデの再出発は、神による新しい創造である。神が造り変えてくださるからこそ、ダビデは歩み始めることができる。

 ダビデの罪のために男の子が死ぬことは理不尽である。律法を見ても、男の子が死ななければならない理由などない。しかし、ここではその犠牲によってダビデの罪は赦されている。

 理不尽といえば、主イエス・キリストの十字架こそ、まさに理不尽である。なぜ、罪のない神の独り子が死ななければならなかったのか。しかし、この理不尽、不条理のおかげで、わたしたちは罪赦され、新しく生きることができるのである。

 ダビデの非常に重い罪さえ、神は赦される。人間のすべての罪を赦すため、神は独り子を犠牲として与えてくださったのである。わたしたちは、この赦しを、悔い改めをもって受け入れたいのである。

2020年5月10日

出エジプト記 15:1-5 マルコ福音書 5:1-20             

「主に従う者の平安」       伝道師 永瀨克彦

 主イエスに対して、「かまわないでくれ」と叫ぶこの男性、また、主イエスに「この地方から出て行ってくれ」と頼む人々。わたしたちは、こうした人々の中に、自分の姿を見る。悪霊の試みを受けるとき、自ら望んで神を遠ざけようとする。神から離れて自由に生きたい、それが自分にとっていいことだと思ってしまうことがある。しかし、主イエスによって立ち返らせていただくとき、主に従うことこそ幸いなのだと分かる。悪霊を追い出していただいた男性は、服を着て座っている。そこには、これまで無かった平安がある。自分でも気づいていない、また、否定している平安を、主イエスは来て、与えてくださる。主イエスは湖を渡って、この男性のもとに来てくださったのである。

 豚が湖に沈んだということは、悪霊を深淵に追いやったということを意味する(ルカ8:31を参照)。深淵・混沌は創造の秩序の外にあるものである。つまり、神に抵抗するものである。しかし、その深淵にまで主イエスのお力は及んでいる、主イエスの権能はすべてに及んでいるというのが、この個所が表していることである。神が今も行ってくださっている創造の業は、終わりの日に必ず完成する。

 わたしたちはそのことを信じるからこそ、今この忍耐のときも、希望を抱いていることができる。主から離れたくなる誘惑を受けるとき、主イエスは来て立ち返らせてくださる。そのとき、わたしたちは平安の内に生きることができる。

2020年5月3日
創世記 1:1-3 マルコ福音書 4:35-41             

「嵐を静める主イエス」       伝道師 永瀨克彦

 舟は嵐に遭い、転覆寸前であった。弟子たちは眠っておられた主イエスを起こすと、主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われた。すると風はやみ、凪になった。主イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われた。弟子たちは非常に恐れた。

 この嵐は、主に従ったゆえの嵐である。主イエスはゲラサ人の土地に向われる。弟子たちは異邦人のところになど行きたくないと思ったことだろう。しかし、彼らは主イエスに従う。その結果遭遇したのがこの嵐である。わたしたちもまた、主イエスに従うとき、様々な困難を味わう。洗礼さえ受ければすべてが上手くいき、悩みが無くなるのかと言えばそうではない。

 しかし、主イエスは嵐を静めてくださる。弟子たちの命を守られる。そのことによって、彼らは伝道者として働くことができる。主イエスはまた、わたしたちの心と身体を守り、伝道者として立ててくださるのである。

 主イエスの言葉に風が従うということは、主イエスが全てを支配されるお方であることを示している。言葉をもって世界を創造された神の支配が、今ここで主イエスにおいてあるのである。

 だから、弟子たちは慌てて主イエスを起こす必要はなかった。「先生、わたしたちが死にそうなのに、気づいておられないのですか」。そのように考える必要はなかった。主イエスはすべてご存知なのである。

 風を従わせる主イエスの権威を見た弟子たちは恐れて震え上がる。今、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言って単に恐れている彼らは、主イエスが神の子であるがゆえに風や湖が従ったのだと理解したとき、主イエスを畏れるようになる。

 わたしたちは主を畏れる。そして、だからこそ、主に信頼するのである。主イエスはすべてを支配するお方である。だからこそ、わたしたちの苦しみをすべて知っていてくださる。そのお方が同じ舟に、共にいてくださるのである。

2020年4月26日
エゼキエル書17:22-24 マルコ福音書4:21-34             

「聞く耳のある者は聞きなさい」   伝道師 永瀨克彦

 「ともし火」のたとえと「からし種」のたとえが表していることは、神の国は必ず明らかになるということである。神の御支配について誰もが知るようになる。すべてのものがその支配の内に入る。神の御支配は必ず完成するのである。

 ともし火は升の下や寝台の下に置くものではない。そのように隠されれば、誰もその火に気づかない。ともし火は燭台の上に置くものである。ともし火は部屋中を照らす。そのとき、その火に気付かない者はいない。

 からし種も同じである。それはどんな種よりも小さいので、道端に落ちていれば気づく人はいない。それは隠されている。しかし、育つとどんな野菜よりも大きなかん木になり、そこを通るすべての人がその存在に気づく。

 4:10以下で、主イエスは、外の人々は聞くには聞くが理解しないとおっしゃっていた。今、多くの人には神の国の秘密は隠されているのである。しかし、それは将来必ず明らかにされる。神の御支配が完成する。神はすべての人を神の国へと招いておられるのである。

 「成長する種」のたとえで、芽を出させ、実らせてくださるのは神であることが語られる。神の国の完成は人間の努力によって成し遂げられるものではない。たとえ、人間がただ寝起きしているだけだとしても、神は知らない間に穂を実らせてくださる。だから、わたしたちにはすでに実りが約束されている。わたしたちは、勝利を確信して、働くことができるのである。

 「聞く耳のある者は聞きなさい」と主イエスは言われる。厳しい言葉に見えるが、その前後には、神の国が必ず明らかにされる、完成するという約束がある。この喜ばしい知らせを聞こうとしなさいと主イエスは言われるのである。

2020年4月19日
イザヤ書 55:8-11 マルコ福音書 4:1-20             

「蒔かれた御言葉」      伝道師 永瀨克彦

 主イエスが湖のほとりで教えておられると、おびただしい群衆が集まってきた。彼らはおそらく、病のいやしを求めて集まってきたのだろう。その群衆に対して、主イエスは舟に乗って湖の上に行き、距離を空けられた。そして、「よく聞きなさい」と言って種を蒔く人のたとえを話し始められた。

 当初、群衆は「聞く者」ではなかった。それぞれの目的のために集まったのであり、主イエスが教えておられる間も、「早く話し終えていやしに来てくれないかな」などと思っていたことだろう。その人々を主イエスは変えられる。湖畔と湖上というふうに、物理的に距離を取り、人々が聞かざるを得ないようにされた。主イエスは彼らを聞く者としてくださったのである。

 後になって、弟子たちはたとえについて主イエスに尋ねた。主イエスは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち返って赦されることがない』ためである」と言われた。外の人は、御言葉を聞こうとしないので、「イエスが何やらしゃべっている」ということは分かっても、その意味を理解することはできない。しかし、あなたがたは外の人ではない。主イエスは弟子たちにそう言っておられるのである。弟子たちは御言葉を自分に語られた御言葉として聞く。そして理解して喜ぶのである。

 主イエスは湖畔の群衆に対してしたように、わたしたちを聞く者へと変えてくださる。内へと引き入れてくださる。主イエスが代わりに十字架にかかって死に、復活してくださった。わたしたちは、この福音を自分の福音として聞くのである。

2020年4月12日
創世記 22:1-18 ヨハネ福音書 20:1-18             

「なぜ泣いているのか」      伝道師 永瀨克彦

 マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていた。主イエスの遺体が盗まれたと思い込んでいたからである。泣きながら墓の中を見ると、二人の天使が見えた。天使は「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリアが「わたしの主が取り去られました」と言いながら振り向くと、主イエスが立っておられるのが見えた。主イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言われた。

 「なぜ泣いているのか」というのは、言い方を変えれば、「泣く必要はない」「泣かなくてもよい」ということである。主イエスは復活された。だから、「主イエスが死んでしまった」、「遺体が盗まれてしまった」といって泣く必要はもうないのである。

 この「なぜ泣いているのか」という言葉は、わたしたちにも語られている。主は復活された。死に勝利された。この勝利があなたがたに与えられている。だから泣く必要はない。わたしたちはその福音を聴くのである。

 わたしたちは主日ごとに礼拝を捧げ、主の復活を喜び祝う。毎週日曜日が復活の喜びに満たされている。そして、礼拝から押し出されて過ごす一週間がその喜びの内にある。つまり、わたしたちの生活は、一年、また生涯を通して、このイースターの喜びによって貫かれているのである。

 新型コロナの影響で教会に集うことができない辛さがある。しかし、わたしたちは、そのような困難の中にあっても主の復活を喜ぶことができる。「なぜ泣いているのか」と主は言われる。教会は主の復活を祝う主日礼拝を止めることはない。わたしたちは、それぞれの家庭にあっても、教会の礼拝に心を合わせ共に主日の礼拝を捧げる。主イエスが復活された、永遠の命が与えられた。この希望によって、わたしたちは困難の中を歩んでいくことができる。

2020年3月29日
イザヤ書 49:22-26 マルコ福音書 3:20-35             

「すべて赦される」      伝道師 永瀨克彦

 律法学者たちは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って主イエスを非難した。主イエスはたとえを用いて律法学者たちの間違いを正した後、「はっきり言っておく。人の子らが犯すどんな罪や冒涜の言葉も、すべて赦される、しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われた。
 律法学者たちがしたように、聖霊の働きを悪霊だと言い張ることは聖霊を冒涜することである。主イエスは聖霊によって悪霊を追い出しているのである。聖霊によってということは、つまり、それが神の御心であるということである。だから、聖霊を否定するということは、それが神の御心であることを否定するということになる。つまり、神が人間を救おうとしておられる、その事実を否定することに他ならないのである。

 だから、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない。一見厳しすぎる言葉に見えるが、それは、「赦そうとされる神の御心を拒めば赦されない」ということを言っているのである。であるから、すべてを赦すということが神の御心である。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と主イエスがおっしゃっている通りである。

 わたしたちは、聖霊を否定する必要はない。御心を御心として受け止めれば良い。神が独り子を与え、十字架にかけてくださった。それは、わたしたちを救いたいと心から望んでくださったからである。わたしたちは、この御心を否定するのではなく、感謝して受け入れたいのである。

2020年3月22日
サムエル記上 21:1-7 マルコによる福音書 2:23-3:6             

「安息日の主」      伝道師 永瀨克彦

 安息日に、弟子たちが麦の穂を摘んだとき、ファリサイ派の人々は「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言って主イエスを非難した。それに対し主イエスは、かつて祭司アヒメレクが空腹だったダビデに供えのパンを与えた例を示し、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と述べられた。

 安息日は人間のためにある。しかし、人間は好き勝手に安息日を過ごすのではない。わたしたちは、安息日に主を礼拝する。「だから、人の子は安息日の主でもある」と主イエスは言われる。主を礼拝する安息日は、人のためにある。安息日に主を礼拝し、御言葉をいただくことが、人にとってもっとも良いことなのである。

 また、主イエスは、会堂で「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言われた。そして、手の不自由な人をいやされた。主イエスは安息日に命の救いを行ってくださる。

 わたしたちは、安息日に麦を我慢して飢えて死ぬのではない。安息日は主イエスによる命の救いを聴く日である。わたしたちは、安息日に教会に集い、主を礼拝する。そして、礼拝を通して、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聴く。それは、わたしたちのために与えられた日である。

2020年3月15日
イザヤ書 58:3-12 マルコ福音書 2:13-22             

「主を迎える喜び」      伝道師 永瀨克彦

 人々は主イエスに言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。主イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。

 イスラエルは救い主を待っていた。罪を悔い改め、断食もした。その救い主が来たのに、いつまでも断食し続けるのは本来の断食ではない。それは、痩せた頬を誇り、ほめてもらうための断食である。いまや、花婿を迎えての婚宴が始まっているのである。

 イザヤ書58章にこのようにある。「そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。/葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと(…)。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。(…)飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」。断食は、ただ苦しむために悔い改めることではない。そうではなく、悔い改め、赦しにあずかり、変えられること、そこまで含めて断食なのである。

 わたしたちは、救い主である主イエスを迎えている。わたしたちはただ苦しむためではなく、主イエスによって与えていただいた救いを受け入れるために悔い改めるのである。

2020年3月8日
イザヤ書 43:18-25 マルコ福音書 2:1-12             

「あなたの罪は赦される」      伝道師 永瀨克彦

 主イエスが家の中で御言葉を語っておられると、四人の男性が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて主イエスのもとに連れて行くことができなかったので、彼らは屋根をはがし、病人を床ごとつり降ろした。主イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

 律法学者たちはこれを見て、「神を冒涜している。神おひとりの他に、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と心の中で思った。主イエスはそれを見抜き、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて床を担げ』と言うのと、どちらが易しいか」と言われた。主イエスが命じると、その人は起き上がり、床を担いで出て行った。

 このことによって示されたことは、「あなたの罪は赦される」という言葉は真実であったということである。律法学者たちは、主イエスが口先だけで「罪を赦す」と言ったのだと思った。そんなことは誰にでもできる。だから、主イエスは「起きて歩け」と言うことで、「あなたの罪は赦される」という言葉もまた、口先だけのまやかしではなく、真実なのだということを示されたのである。主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われた。

 ルターは、「わたしは洗礼を受けている」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせた。ルターも自分の罪深さに悩み不安を覚えることがあったのである。わたしたちも、自分の救いに確信が持てなくなることがあるかもしれない。そのようなとき、十字架についてくださったのは、まことに赦す権威をもつお方なのだということを思い出したい。罪の赦しは成し遂げられたのである。

2020年3月1日
列王記下 5:9-16  マルコ福音書 1:40-45             

「御心ならば」         伝道師 永瀨克彦

 重い皮膚病を患っている人が、主イエスにのところに来てひざまづいて言った。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。この男性は、主の御心にゆだねた。それに対して、主イエスは「よろしい。清くなれ」と言われた。「よろしい」とは、原語では「わたしはそれを望む」という意味の言葉である。主イエスは男性をいやすことを御心としてくださった。

 主イエスは、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言って男性を厳しく注意した。それは、いやしを求める人々が殺到し、主イエスが福音の宣教をすることができなくなるような事態になってはいけないからである。主イエスは宣教するために出て来られた(1:38)のである。しかし、結果として、男性は人々に言い広めたので、主イエスは公然と町に入れず、これ以上その町で宣教することはできなかった。

 このように、宣教することが主イエスの御心である。しかし、「御心ならば」と男性が言ったとき、主イエスは「わたしはそれを望む」と言ってくださった。主はわたしたちの祈りを聞いてくださる。ときには思い直してさえくださるのである。

 しかし、わたしたちは自分の願いを願うのではない。この男性は「御心ならば」と言った。主イエスがゲツセマネで「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(14:36)」と祈られたようにである。神は、わたしたちにとって良いものを与えてくださる。わたしたちは、その神に信頼し、御心を祈り求めるのである。わたしたちが祈るとき、神は必ず聞いてくださる。そして、御心ならば、それを与えてくださるのである。

2020年2月23日

出エジプト記 15:11-18 マルコ福音書 1:29-39             

「主に応える」         伝道師 永瀨克彦

 主イエスは、熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめをいやされた。すると、彼女は一同をもてなした。シモンのしゅうとめは、いやされるやいなや、主イエスに応えるのである。

 「もてなした」という言葉は、原語では「給仕した」という意味の言葉である。英語の聖書でも、”serve”と訳しているものが多い。「給仕」というと、女性が男性に仕えている印象を与えるので、「食事の準備」などに言い換えるべきだという意見もある。しかし、ここで「給仕した」という言葉が使われていることには意味がある。つまり、シモンのしゅうとめは、主イエスに応えて、仕える者となったのである。主イエスによって救われた者は、主に、また、隣人に仕える者とされる。男性であっても女性であってもそれは同じである。主イエスは神の子でありながら身を低くし、人間となり、十字架にかかってくださった。わたしたちは、主イエスがしてくださったように仕える者となるのである。

 朝になって、主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と言われた。主イエスが来られたのは、病をいやすためではない。そうではなく、すべての造られた者が福音を聴くためである。わたしたちは、その主イエスに仕える者とされている。罪の支配から回復させられたならば、その苦しみからいやされたならば、わたしたちは、シモンのしゅうとめがしたように、主に応えたい。「宣教する、そのためにわたしは来たのだ」と言われる主イエスに仕える者となりたいのである。

2020年2月16日

詩編 124:8 マルコ福音書  1:21-28             

「権威ある者」         伝道師 永瀨克彦

 主イエスが権威ある者としてお教えになったので、人々は非常に驚いた。そのとき、汚れた霊が叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。・・・正体は分かっている。神の聖者だ」。主イエスは「黙れ。この人から出て行け」と叱り、汚れた霊を追い出した。主イエスが言葉だけで汚れた霊を追い出したので、人々は「権威ある新しい教えだ」と言って、皆驚いた。

 「権威ある者として」「神の聖者」「権威ある教え」。記者マルコは、主イエスが権威あるお方であることを強調する。主イエスは権威ある方、神の子なのである。

 悪霊の追い出し、病のいやし、死者の復活。聖書には多くの奇跡が登場する。わたしたちは、ときにそれらを自分の理解できる範囲まで押し下げたいと思うかもしれない。いやしや復活も、何か他の事を伝えるための誇張や隠喩なのだと思いたくなる、そのような誘惑がある。実際に「イエスは立派な思想家だったが、神ではなく、革命に失敗して処刑された人間なのだ。復活も無かった」と主張する人もいる。そう考えるとき、聖書はずっと理解しやすい書物に思えるだろう。

 しかし、実際には、神はわたしたちが理解に苦しむような奇跡を行ってくださった。すなわち、独り子を十字架につけ、復活させることによって、すべての人間の罪を贖ってくださったのである。この理解を超えた大いなる恵みを、神は語り、信じさせてくださるのである。マルコは、主イエスが権威ある方であることを強調する。それは、まことに神の独り子が、わたしたちの罪を担って代わりに死に、復活をしてくださったということなのである。

2020年2月9日

創世記 12:1-4 マルコ福音書 1:16-20             

「わたしについて来なさい」   伝道師 永瀨克彦

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。そう言われると、シモンとアンデレはすぐに網を捨てて従った。ヤコブとヨハネも、主イエスに呼ばれると、父と舟を残して主イエスについて行った。不思議な個所である。なぜ彼らはすぐに主に従ったのか。彼らは、主イエスが偉大なお方だとあらかじめ知っていたわけではない(マルコ福音書においては、シモンのしゅうとめのいやしは、この出来事の後である)。彼らは、突然目の前に現れ呼びかける主イエスに迷わず従う。彼らが従うのは、ただ、主イエスが呼ばれるからなのである。まさに、網にかかり、否応なく舟に引き上げられる魚のように、彼らは主によって捉えられ、召し出されるのである。

 しかし、同時に、彼らは自分の意志で主に従う。「すぐに網を捨て」という言葉は、シモンとアンデレが喜んで主に従ったことを示している。いまや彼らは網や舟を捨てても惜しくないと思っている。だからためらわないのである。

 そして、今度は彼らが人間をとる漁師とされる。主イエスは四人だけではなく、すべての人間を救おうとされるのである。そのために彼らをお用いになる。

 わたしたちは、主によって捉えられ、引き上げられる。舟に引き上げられると、魚は死んでしまう。わたしたちはまさに、古いものに死に、主イエスが与えてくださった永遠の命に生きるものとされる。そして、他の人々が主イエスの福音を聞くために働くものとされるのである。

 主イエスはわたしたちに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と呼びかけてくださる。弟子たちは喜んで従った。わたしたちも喜んで応える者でありたい。

2020年2月2日

イザヤ書 12:1-6  マルコ福音書 1:12-15             

「時は満ち、神の国は近づいた」   伝道師 永瀨克彦

 14節には、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え」たと書かれている。ヨハネの時代が終わり、主イエスのときが来た。つまり、準備のときが終わり、救い主を迎え入れるときが来たということである。ヨハネは、人々にメシアを受け入れる準備をさせるという役目を十分に果たした。そして、主イエスが来られた。そのことによって、ヨハネが働くべき時代、人間が備える時代が終わったのである。

 つまり、もはやゆっくりと準備をしている時間はない。人々は今決めるのである。主イエスを救い主として受け入れるかどうかを。だから、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスのお言葉には、緊張感がある。時は満ちた、状況は差し迫っているのである。

 悔い改めよ、とはどういう意味だろうか。反省しなさい、十分反省したら許してあげる、ということだろうか。そうではない。主イエスは既に十字架と復活により、赦しを成し遂げてくださっているのである。しかし、それを受け入れるには悔い改めなければ無理である。自分は赦しを必要としていると知って初めて、主の十字架が自分のためであったのだと認めることができるのである。「あなたはすでに赦された。この赦しをあなたの赦しとして受け取りなさい」ということ、これが悔い改めなさいということの意味である。

 福音は喜ばしい知らせ、”good news”である。それが語られるとき、わたしたちは、自らの内に受け入れるかどうかという決断を迫られる。後回しにすることはできない。主イエスは既に救いを成し遂げてくださったからである。わたしたちは、この知らせを自分にもたらされた良き知らせとして、喜んで受け入れたい。それは事実その通りのものなのである。

2020年1月26日

イザヤ書 40:9-11 マルコ福音書 1:1-11             

「妨げられない福音」     伝道師 永瀨克彦

 神の子イエス・キリストの福音の初め、この言葉には、主イエスが誰であるのかを示す言葉が二つ含まれている。つまり、主イエスはキリストであり、神の子なのである。このキリストが神の子であるということが重要である。

 なぜ、主イエスがキリスト、つまり救い主でありうるのかと言えば、それは主イエスが神の子だからである。ただ、神が独り子を送ってくださり、その血が流されたことによってのみ、すべての人間の罪が贖われたのである。もしその人が神の子でなかったなら、その十字架に人間を罪から贖う力はない。その場合、イエスはキリストではありえない。マルコが一息に「イエスはキリストであり、キリストは神の子である」と言っていることには意味がある。主イエスがキリストであるということと、神の子であるということは、切り離すことができないのである。

 主イエスはヨハネから洗礼をお受けになった。罪のない主イエスは、本来悔い改めの洗礼を受ける必要はない。しかし、主イエスは罪人たちの列に加わってくださった。それは、主イエスが神の子でありながら罪人と同じ者にまで身を低くしてくださったということである。主イエスは人間の罪を担って十字架に着いてくださる。その罪を担うということを、主イエスはここから始めてくださっているのである。

 父なる神は「天を裂いて」、「あなたはわたしの愛する子」と語られる。神と人間との間にある断絶を神は裂いて介入してきてくださる。そして、独り子を遣わしてくださる。マルコが「福音の初め」と言っているように、救い主が表れてくださったということは、それ自体既に喜ばしい知らせである。人々は、ヨハネの洗礼を受けてメシアを迎える準備をした。わたしたちも、神の子イエス・キリストの福音を喜んで受け入れる者でありたい。

2020年1月19日
ヨブ記 42:1-6 使徒言行録 28:11-31             

「妨げられない福音」     伝道師 永瀨克彦

 使徒言行録の講解を始めたときに申し上げた通り、使徒行伝は聖霊行伝である。単に使徒の言動の記録なのではなく、使徒たちを、また教会を用いる聖霊の働きが使徒言行録を通して書かれている。そして、聖霊が働かれるからには、福音が広まることを妨げることはできない。使徒言行録28章を読むとそのことがよくわかる。

 パウロはローマで「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(31節)。全く自由に何の妨げもなくとはどういうことだろうか。パウロが捕らわれていることがまるで嘘であるかのようだ。パウロは確かに捕らえられている。しかし、それが伝道の助けになることこそあれど、妨げになることはないのである。ユダヤ人たちがどれだけ熱心にパウロを迫害しても、福音を止めることはできない。聖霊はそうした妨害に対し、全く自由に働かれるのである。

 使徒言行録は、パウロの最後を描いていない。それは、使徒言行録がパウロの伝記ではなく、聖霊による教会の働きを記した書物だからである。つまり、この物語はパウロが死んで終わったのではない。教会の働きは今日まで続いているのである。

 聖霊は全く自由に働き続けてくださっている。使徒言行録の時代と何も変わることはなく、今日の教会の上に働かれる。であるから、わたしたちの伝道もまた、たとえ困難にぶつかったとしても、それによって妨げられることはない。主イエス・キリストが宣べ伝えられることを、何ものも止めることはできないのである。

2020年1月12日
ダニエル書 6:19-29 使徒言行録 27:13-44                
「嵐の中の食事」     伝道師 永瀨克彦

 パウロたちが乗る船は、エウラキロンと呼ばれる暴風に襲われ、漂流してしまった。何日も嵐が続き、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。しかし、パウロは言う「あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち、だれ一人として命を失う者はないのです」。パウロは「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」という神の言葉を聞いた。だから、パウロは今、必ず神がローマまでの道を守られると信じ、心から安心している。

 十四日目の夜に、パウロはパンを裂いた。嵐が去ったからではない。なお激しい波に襲われている。彼らは嵐の中で、しかし、感謝して食事をするのである。

 わたしたちは、週の歩みを過ごし、すべてが順調で、心に余裕があるときにだけ教会に来て礼拝をするのではない。むしろ悩みを抱えることの方が多いかもしれない。しかし、そのような中で、わたしたちは日曜日に教会に集い、心を静めて礼拝をすることができる。嵐の中で、安心して命のパンをいただくことができる。聖餐にあずかり、御言葉を聴くことができるのである。

 パウロと同じように、わたしたちも、「あなたは主を力強く証ししなければならない」という御言葉を聴く。神がわたしたちを選び、用いようとされる。だから、わたしたちはどんな嵐に襲われようとも、波にのまれて沈んでしまうことは決してないのである。

 わたしたちは、上手くいっているときにしか喜べないのではない。どのようなときでもわたしたちを守り、役目を全うさせてくださる神に信頼し、安心していることができる。嵐の中で主を賛美することができるのである。

2020年1月5日
イザヤ書 42:6-7 使徒言行録 26:12-32                
「あなたを救い出し遣わす」     伝道師 永瀨克彦

 パウロは、アグリッパ王に自分の回心を語る。キリスト者を迫害しにダマスコへ向かう途中、天からの光に照らされ、主イエスと出会ったあの出来事である。パウロは回心を語るのであるが、それは同時に召命を語ることでもある。主イエスはパウロに「わたしがあなたに現れたのは・・・あなたを奉仕者、また証人にするためである」と語られた。主イエスは、パウロにご自身を示し、信仰を与えると同時に、奉仕者として召し出す。

 このように、回心と召命は切り離すことができない。神がわたしたちを求め、見つけ出し、信仰を与えてくださるのである。だから、回心は人間だけの喜びではない。神が喜んでくださる。信仰の喜びは、救われたという喜びであると同時に、神が用いようとしてくださり、それに応えることができるという喜びである。パウロを見ているとそのことが分かる。

 パウロは一見不幸になったようにさえ見える。ファリサイ派のエリートであった彼は、キリスト者となり、迫害を受ける者となった。そして、今も鎖でつながれながらアグリッパ王に弁明している。しかし、パウロは、「わたしのようになってくださることを神に祈ります」と語る。主イエスによって罪赦された喜びをあなたがたにも知ってほしいとパウロは言うのである。

 パウロが味わっている喜びは、まさに今縛り上げられている苦しみよりもはるかに大きい。神は私たちを切に求め、召してくださる。わたしたちはそれにお応えすることができる。苦難に勝る喜びがわたしたちには与えられているのである。

2019年12月29日
詩編 103:14-19 使徒言行録 23:12-35                
「すべてを支配される主」    伝道師 永瀨克彦

 ユダヤ人たちの一部は、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は四十人以上であった。千人隊長がパウロを最高法院に連れて行く道中を襲い殺す算段であった。この企てをパウロの姉妹の子が耳にし、パウロに知らせた。パウロは姉妹の子を通して千人隊長にこの陰謀を伝え、祭司長たちの言いなりになって最高法院に移送しないでほしい、道中を狙っているから、と頼んだ。

 パウロは今死ぬわけにはいかないのである。それは、ローマに行かなければならないからである。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない(23:11)」との言葉をパウロは受けている。エルサレムとローマでのパウロの活動は、三回に及ぶ伝道旅行に比べれば重要でないように思えるかもしれない。しかし、その数年間は、ただ捕らえられ裁判を受けただけの無駄な時間ではない。神が証しをさせるために、パウロをエルサレム、そしてローマに遣わしたのである。

 だから、パウロは今、単に命乞いをしているのではない。神の御心が行われるために嘆願しているのである。

 千人隊長はこれを受け、四百七十の兵をつけて、パウロをカイサリアへと護送することを決めた。それは、一つには、さっさと総督のもとにパウロを送ってしまい、暴動が起きた場合の責任を回避したいという理由からである。そして、もう一つは、ローマ市民であるパウロを保護したという手柄が欲しかったからである。

 このようにして、パウロは最も安全な仕方でローマへと移された。パウロを護送されたのは神である。ローマの軍隊さえ、そして、千人隊長の利己的な思いさえ、神は用いることがおできになる。神はすべてを支配される。あらゆるものを益と変え、御心を実現してくださる。わたしたちはそれを待つことができるのである。

2019年12月22日
イザヤ書 60:6-12 ヨハネ福音書 1:1-14   
「神の身分でありながら」    伝道師 永瀨克彦

 ヨハネによる福音書の冒頭の部分は、もしかすると、何やら抽象的で観念的なもののように思われるかもしれない。わたしたちと関係のない、天の上の話だと思われるかもしれない。しかし、そうではない。主イエスが来てくださったことによって、わたしたちに変化がもたらされたという、極めて現実的なことがここには書かれている。主イエスは、わたしたちが住む現実の中に生まれて来てくださったのである。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」とある。主イエスを信じるということ、神の子となるということ、それは、新しく生まれるということなのである。言が来てくださるということによって、わたしたちの現実に変化が起きている。

 「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」。そして、「わたしたちはその栄光を見た」。主イエスは神の子でありながら、わたしたちの間に来てくださった。そして、今も闇の中で輝いていてくださる(5節)。言を受け入れた人を通して、わたしたちは主の栄光を見るのである。

 あなたの罪は赦されたという福音を、わたしたちは聴く。この福音は、自分とは関係のない天上の話なのではない。主イエスは来てくださり、わたしたちの内に住まわせてほしいと言ってくださるのである。わたしたちがこの福音を自分の福音として聴いて喜ぶとき、わたしたちの内に主の光が輝く。その光は今も輝いており、世を照らす光なのである。

2019年12月15日

イザヤ書 40:1-11 ヨハネ福音書 1:19-28

                「待ち続けた主を迎える」    伝道師 永瀨克彦

 洗礼者ヨハネは、自分のことを「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と言った。救い主を受け入れなかった世界はまさに荒れ野である。暗闇は光を理解しなかった、とヨハネによる福音書1:5に書かれている通りである。ヨハネは荒れ野で叫び、世が光を受け入れるように訴えている。

1:15によれば、ヨハネは、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と言った。先におられたというのは、初めからおられたという意味である。初めに言があった。そして万物は言によって成ったのである。つまり、後から来られる方、主イエスは神であるとヨハネは言っているのである。

まことの神がこの世に来てくださった。神の子イエス・キリストがわたしたちの罪を担い代わりに死んでくださり、復活してくださった。これこそがわたしたちの福音である。もし、このイエスという人が神でなかったならば、その十字架がどうして、わたしたちにとって福音でありうるだろうか。すべての人間の罪を償うために、どうして一人の人間の血が流されるだけで事足りるだろうか。ただ、イエスという立派な人間が、良い教訓を教え広め、そして、死んだ、これではわたしたちにとって何の福音にもならないのである。

わたしたち、すべての人間の罪は、神の独り子の血をもってしか償い得なかった。神はそのために独り子を差し出してくださった。これが神の愛なのである。

2019年12月8日

詩編 16:10-11 使徒言行録 22:22-23:11

                「復活を望みとし」    伝道師 永瀨克彦

 パウロは「わたしは生まれながらのファリサイ派です」と語る。パウロはファリサイ派のユダヤ人であり、キリスト者である。それは矛盾することではなく、むしろ一直線につながっているものである。ファリサイ派は復活を信じ、待ち望んでいた。その彼らが待ち望んだものの成就が主イエスの復活であり、また、それによって約束されるわたしたちの復活なのである。

 であるから、ファリサイ派であるなら、いや、ファリサイ派であるからこそ、本来は主イエスの復活を真っ先に信じ、喜ぶべきなのである。パウロは同じファリサイ派として、主イエスの復活による希望を伝えようとする。

 パウロがローマ市民であることが明かされる場面は、逆転である。市民権を金で買った千人隊長より、縛り上げられていたパウロの方がかえって優れた者であったのである。聖書に記されている最も鮮やかな逆転は、主イエスの十字と復活によって死が打ち滅ぼされたことである。病、争い、災害、そして、それらが行きつく死は、人間を支配し続ける最も強力な力に見えた。しかし、主イエスはその死に勝利してくださった。

 わたしたちは恐怖から解放された。それは、何を経験しようとも最後には死に引き渡されて神から見放されて終わるのだ、という恐怖である。わたしたちは、終わりの日に復活にあずかり、神との永遠の交わりに生きることができる。その約束が確かであることは、主イエスの復活によって示されている。

 だから、復活こそがわたしたちにとって最大の希望である。主を待ち望むアドヴェントを過ごすこのとき、わたしたちは、終わりの日に再び来てくださる主イエスを待ち望む者でありたい。

2019年12月1日

詩 編 32:8-11 使徒言行録 22:1-21

                「主に従う幸い」    伝道師 永瀨克彦

 パウロは、自らを拘束し暴行を加え、殺そうとまでしたユダヤ人たちに対し、階段の上から弁明をする。それは、自分の罪を軽くするための方便などではない。パウロは兄弟に主イエスを伝えようとしているのである。

 パウロは「兄弟であり父である皆さん」と言って語り始める。パウロ自身ユダヤ人なのである。パウロは自らを「ユダヤ人だった」とは言わない。「わたしはキリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です」と言うのである。

 パウロは他の神を信じるようになったわけでは決してない。イスラエルの神が主イエスをお与えくださったのであって、パウロは今もイスラエルの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じている。それは当然のことである。

 だから、パウロはユダヤ人であり、キリスト者である。パウロは同じユダヤ人として、兄弟に、神の御心を知ってほしいと訴えているのである。

 パウロは自分の回心について話す。ここでは光が強調されている。それは、真昼であったにも関わらず、太陽の光を凌ぐ強い光であった。そして、同行していた人も光を目撃した。それらは9章では触れられていなかったことである。パウロは主イエスによって罪から贖われた。まさに、闇から光へと立ち返らされたのである。この回心の証しは、光に照らされた喜びに満ちている。パウロはこの喜びに、兄弟である皆さんもあずかってほしいと願っているのである。

 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ福音書1:9)。主イエスによって照らされた喜びを、わたしたちもまた、いただいている。

2019年11月17日
 出エジプト記 20:20 使徒言行録 21:17-26

                「主に仕えるためにある伝統」    伝道師 永瀨克彦

 ここには、改革者であると同時に、誰よりも伝統に忠実なパウロの姿がある。それは矛盾することではない。改革するということは、伝統の正しい意味を取り戻すということでもあるのである。

 ある人々は、パウロが「割礼を施すなと言って、モーセから離れるように教えている」と批判した。しかし、これは濡れ衣である。パウロは割礼を施す必要はないと言ったのであって施してはならないとは言っていない。人は信仰によって義とされる。アブラハムもまた、その信仰によって義と認められ、そのしるしとして割礼を受けたのである。つまり、割礼によってではなく、信仰によって義とされると信じるパウロの方こそ、実は律法に忠実な者なのである。だから、パウロは決してモーセから離れてはいない。

 パウロは清めの儀式を受けてほしいと頼むヤコブの要求を甘んじて受ける。それは、パウロが律法に従う者であることを示すためである。

 このように、改革者たちは実は伝統に忠実である。宗教改革もまた、新しい教えを造り出したというようなものでは決してない。ルターが訴えたのは「聖書のみ」であり、「信仰義認」である。思い出し立ち返ることこそ改革である。

 わたしたちには立ち返るべき確かなものが与えられている。教会と同じように、わたしたちも御言葉に立ち返ることによって日々新たにしていただけるのである。

2019年11月10日

箴 言 1:1-7 使徒言行録 21:1-16

「御心が行われますように」    伝道師 永瀨克彦

 仲間たちは、エルサレムに上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。しかし、パウロは「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られるばかりか、死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と答えた。これを聞いた仲間たちは、「主の御心が行われますように」と言って口をつぐんだ。

 この言葉は、主イエスのゲツセマネの祈りを思い出させるものである。主イエスは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と祈られた。祈り終えた後、主イエスは十字架への道を歩まれた。これは祈りが聞かれなかったということだろうか。そうではない。父なる神は、御心を行うということをもって祈りにお応えになる。

 「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ11:9)と主イエスは言われる。それは、何でも願う物を神が与えてくださるという意味ではない。そうではなく、神がわたしたちのために与えようとしてくださるものを、わたしたちは求めるのである。神はわたしたちに本当に必要なものを用意してくださるからである。

 パウロは、今、エルサレムに行くことが御心であると確信している。だからこそ、そこで待ち受ける苦難もまた、無意味なことではないとパウロは確信するのである。

 わたしたちが祈りを通して与えられる恵みは、苦しみに遭わなくて済むようになることではない。この苦しみさえも神には用いることがおできになるのだと信じられることである。そして、実際に神は苦難をも栄光に変えてくださる。神は十字架さえ、命を与える道具として用いてくださったのである。

2019年11月3日

イザヤ書 35:5-10 使徒言行録 20:17-38

「決められた道を走りとおし」   伝道師 永瀨克彦

 パウロはミレトスで、エフェソの長老たちに説教をする。パウロは、彼らに会うのはこれが最後だと分かっている。いわば、これは告別説教である。

 最後にパウロが伝えたかったこと、それはパウロの姿そのものである。パウロはこれからエルサレムに行き、そこで捕らえられる。しかし、パウロは恐れない。それは、パウロが神から決められた道を走っていると確信しているからである。主イエスを伝えるためであるならば、パウロは喜んでエルサレムに行く。主の道を歩む自らの姿をパウロは見てほしいと思ったのである。そして、パウロは、自分に倣うように彼らに勧める。

 「わたしに倣いなさい」というのは傲慢なように見えるかもしれないがそうではない。パウロは、わたしの真似をして、そのことによって主イエスに仕えなさいということを言っているのである。

 信仰者の姿は、信仰を伝えるための大きな力である。わたしたちは今日、永眠者記念礼拝を捧げている。生前、お父様やお母様から、直接言葉で信仰について説き明かされた経験はもしかすると多くはないかもしれない。しかし、わたしたちはやはり、その姿、信仰を持って生きる姿勢を通して伝道を受けていたのである。

 わたしたちは、先達たちが守られた信仰を受け継ぐものでありたい。そして、先達たちから受けたように、自らの姿を通して主イエスを指し示し、信仰を伝える者となりたい。

2019年10月27日

列王記上 17:17-24 使徒言行録 20:1-12

「大いなる慰め」   伝道師 永瀨克彦

 この世のただ中にあって主イエスを伝えていく教会の歩みは戦いでもある。教会は励ましと慰めを必要としている。そして、それらは確かに与えられる。

 パウロは三年間滞在したエフェソを発つに際して、弟子たちを集め、励ました。そして、ギリシアに行く途中も、マケドニアで言葉を尽くして人々を励ました。

 パウロもまた、励ましを受ける者である。コリントの信徒への手紙二に書かれているが、パウロはギリシアに向かう途中、コリントから戻ってきたテトスを通して、コリント教会が悔い改めたという知らせを聞いたのである。コリント教会はエルサレム教会からの推薦状を片手に乗り込んできたユダヤ人キリスト者によって混乱に陥っていた。推薦状を持たないパウロは異端であると言うのである。そしてついにパウロの来訪を拒むようになった。エフェソにいる間パウロはこのことで悩んでいた。しかし、今、その心配が無くなったという知らせをパウロは聞く。コリント教会は主イエスのもとに立ち返った。パウロは大いに慰められた。

 トロアスで、パウロはエウティコを生き返らせる。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。わたしたちにとって復活は慰めである。エウティコの復活は、主イエスが死に勝利されたという事実をわたしたちに思い出させる。死ほどわたしたちを恐れさせ、動揺させ、神から離れさせようとする大きな力はない。しかし、それさえも、もはや恐れる必要はない。つまり、死に勝利された復活の主を信じるならば、わたしたちは死だけでなく、すべてのものを恐れる必要はないのである。わたしたちはこの大いなる慰めをいただいている。だからこそ、伝道へと出て行くことができるのである。