説教要約

2022年6月19日
箴言 21:1-3 マタイによる福音書 7:15-22

「行う者だけが」     牧師 永瀨克彦

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と主イエスは言われる。また、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」とも言われている。わたしたちは、山上の説教を聞いて「うんうん」と頷いて満足するのではなく、それらを実践しなければならない。つまり、自分を中心とし自分のために生きる生き方を捨て、神を中心とし神のために生きる生き方を実践しなければならないのである。

一度神のために生き始めた人は、あらゆる誘惑にも耐え、その生き方が右にも左にも逸れることがない。一方で、聞くだけで行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。その人は、表面上は神のために生きるぞと意気込むが、苦難や甘い誘惑に遭うと結局は自分の利益のために動いてしまうので、生き方に一貫性がない。神のためと言っていながら、やっていることは自分のためというように、右に左に逸れて行ってしまうのである。

わたしたちが良い実を結ぶとはどういうことか。それは、自分のために働き自分の利益を生み出すということではなく、神のために働き、神に応えることなのである。まず、わたしたちが礼拝するとき、それが最も自覚しやすい良い実である。礼拝するとき、わたしたちは間違いなく神に応答することができているのである。また、わたしたちが伝道し、主イエスを信じ救いにあずかる人が一人でも多く生まれるとき、それも良い実に違いない。わたしたちはそのような、主に応える実を結びたい。それはわたしたちの力ではなく、わたしたちが連なる木である主の御力である。

2022年6月12日
出エジプト記 20:1-6 マタイによる福音書 7:13-14

「狭き門より入れ」     牧師 永瀨克彦

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。

主イエスは山上の説教で色々なことを戒められた。「殺すな」「姦淫するな」という簡単な律法すら、誰も守ることができていないということを主イエスは指摘された。神は私たちが心の中で思ったことも知っておられるからである。また、誓ってはならないと言われた。これは、自分が将来を決定できるなどと思ってはならない。自分を神のように考えてはならないということである。

その他にも主イエスは多くを語られたが、一貫して、自分を中心とし、自分のために生きる生き方を捨てなさい。そして、神を中心とし、神のために生きる生き方を始めなさいということが言われていたように思う。

前者がまさに広い門であり、後者が狭い門である。広い門は目立つので、多くの人がそちらから入ってしまう。人間は、当たり前のように人間をすべての中心として考えてしまうのである。しかし、人間は神によって造られたことを忘れてはならない。まず、わたしたちを造り、生かし、愛してくださる神を賛美することからわたしたちの生活は始まる。それが、わたしたちの生活の中心なのである。

2022年6月5日
箴言 16:6-7 マタイによる福音書 7:7-11

「求めなさい」       牧師 永瀨克彦

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この個所は、熱心に祈りさえすれば自分の願いを何でも叶えることができると言っているのではない。例えば病をいやしてほしいという祈りは決して利己的ではない正当な願いだが、それさえも叶えられないこともあるのである。パウロは第二コリント12章で、自分に与えられたとげを取り除いてくださいと三度主に願ったが、与えられた答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものであった。パウロはそれを受け入れ、「喜んで自分の弱さを誇りましょう」と書いた。また、主イエスはゲツセマネで、十字架にかからずに済むように父に願われたが、最後には「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られた。このように、神を自分の思うがままに操ろうとするのではなく、願いを率直に打ち明けた上で、最後には完全に御心にゆだねるのが本当の祈りなのである。

主イエスは、求め続ければ何でも好きなものを神が与えてくれると言っておられるのではない。そうではなく、神は善い業を行う力を与えてくださるということである。5:20では、「あなたがたの義が律法学者の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」と言われていた。隣人を愛し敵を愛する者でなければ天の国で生活することはできない。しかし、諦めてはならない。それは人間の力ではとても不可能なことだが、神は愛する子であるわたしたちに聖霊を与え、それを行わせてくださる。だから、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と主イエスは言われるのである。

2022年5月29日
サムエル記下 12:5-12 マタイによる福音書 7:1-6

「人を裁くな」  牧師 永瀨克彦

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と主イエスは言われる。わたしたちは、「あなたは罪人だ。だから必ず裁かれなければならない」と主張するとき、自分も裁かれることになる。なぜなら、わたしたち自身も罪人だからである。せっかく神が主イエスを犠牲にし、わたしたちを「裁かない」と宣言してくださったのに、わたしたちが「いや、罪は確実に裁かれなければなりません」と主張すれば、自分で自分の首を絞めることになるのである。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と主イエスは言われる。これは単に「あなたは他人のことを言える身分ではないのだから黙っていなさい」ということではない。

パウロはⅠコリント5章で、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」をしていた人を教会から排除した。それは「主の日に彼の霊が救われるため」であった。

主イエスが言っておられる「人を裁くな」というのは、相手を死に定めてはならないということである。「あなたは罪人だから神から見捨てられるべきだ」と主張することがいけないのである。そうではなく、罪人だからこそ、悔い改め主に立ち返るように導かなければならない。まず、自分が罪赦されたことを知っているからこそ、そうすることができる。それが、自分の丸太に気づき、相手のおが屑を取り除くことである。

2022年5月22日
詩編 147:1-20 マタイによる福音書 6:25-34

「思い悩むな」  牧師 永瀨克彦

主イエスは、主の祈りを教えてくださった個所から繰り返し、神のことを「あなたがたの父」と呼んでこられた。そして、今日の個所でも二度「あなたがたの天の父」と言われる。主イエスは、十字架と復活によって神とわたしたちとの間の隔ての壁を打ち破り、わたしたちを神のまことの子どもとしてくださったのである。

わたしたちが思い悩まなくても良いという根拠はここにある。わたしたちは神の子だから安心することができるのである。主イエスは、神は鳥さえも養ってくださるのだから、あなたがたはなおさらではないかと言われる。人間が鳥よりも価値があるとは、単に人間の方が複雑な高等生物だという意味ではない。そうではなく、人間は神の子だから価値がある。神はご自身の子どもだから人間を守ってくださるのである。

わたしたちは明日のことを思い悩むのではなく、今日命を与えてくださった神にどう応えるのかを考え、今日苦労すれば良い。明日のことは神が考えてくださっているし、神は明日のことどころか、わたしたちが地上での歩みを終えた後も、永遠に神と共に生きることまで考えてくださっている。わたしたちは、自分以上に自らのことを考えてくださっている神に任せた方が良い。だから神の国と神の義を求める、つまり御心が行われることを求めるのである。御心が行われるならば、わたしたちは必ず生きることができるのだから、思い悩まなくても良い。なぜなら、わたしたちは神の子であり、神は我が子が生きることを切望してくださるからである。

2022年5月15日
箴言 22:9 マタイによる福音書6:22-24

「体のともし火は目」  牧師 永瀨克彦

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と主イエスは言われる。光は神から与えられるものであり、人間が内から生み出せるものではない。だから、神から与えられている光を見て、自分の内に受け入れない限り、自分自身は全く暗いままになってしまう。

問題は、これから光が与えられるかどうかではなく、既に与えられている光、言い換えれば神からの愛をしっかりと見るかどうかということである。せっかく光が目の前にあるのに、目が濁っておりそれを見ないならば、自分自身は暗いままである。それでは光があっても無いのと同じである。光が与えられているのに、「神は何も与えてくれない」と不満を言うことになりかねない。

わたしたちは悩み、まるで神が自分を見捨てたかのように思うこともあるかもしれない。しかし、そのようなときでも、目の前を澄んだ目で見るならば、神からの恵みは確かに備えられているのではないだろうか。詩編23編1節では、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と歌われている。神は不足なく、わたしたちに十分な恵みを与えてくださっている。あとはわたしたちがそれを見るかどうかなのである。

そして、その恵みの最たるものは、主イエスがわたしたちの代わりに十字架で死に、復活してくださったことである。この福音の光をしっかりと見るとき、わたしたちは神が自分を愛しておられるという光の中、喜びの中を生きることができるのである。

2022年5月8日
イザヤ書 2:6-9 マタイによる福音書 6:16-21

「天に富をつみなさい」  牧師 永瀨克彦

 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」。主イエスは、地上の富がいかに脆く頼りにならないものであるかを思い出させてくださる。それは、銀行やセキュリティが発展した現代でも何ら変わることはない。わたしたちは安心を求めて富を蓄えるが、そこに本当の安心はない。

では、安心はどこにあるのか、それは天に富を積むことだと主イエスは言われる。「富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」。

天の富とは何だろうか。それは神との交わりではないだろうか。神がわたしたちを愛してくださる。そして、わたしたちがその愛に気づき、応えようとして善い行いをする。そのわたしたちの応答を神が喜んでくださる。このような神とわたしたちの豊かな相互の交わりこそが、わたしたちが天に富を積むということである。そのようにしてどんどん豊かにされた神とわたしたちとの関係性は、地上の富と違って、絶対に無くなったり目減りすることはない。神はわたしたちの応答を決して忘れずにいてくださるからである。

2022年5月1日
詩編 103:1-5 マタイによる福音書 6:9-15

「御国が来ますように」  牧師 永瀨克彦

 主の祈りを改めて見て分かることは、わたしたちは神が天の国を来たらせてくださることを一番の希望として待ち望むのであり、わたしたちは自分でそれを実現するのではなく、ただ神に信頼してそれを待ち続けるのだということである。

 では、わたしたちは良い業を一切しなくても良いのかと疑問に思われるかもしれない。わたしたちはただ待つのではなくて、善い業を行って神の国の到来をできるだけ早めることができるように努力すべきではないのかと思われるかもしれない。しかし、そのような、自分の力で神の国を手繰り寄せることができるというような思い上がりにこそ、わたしたちは気をつけなければならない。神の国を来たらせることができるのは神おひとりなのである。

 では、わたしたちの善い働きには意味がないのだろうか。いや、意味はある。それは、将来もたらされる神の国を、今の時代にあって確証することである。聖霊は教会を建て、教会の中に神の国の交わりを既に実現してくださっている。この教会の存在が、将来の神の国の完成を指し示す。今、一部であっても実現しているものは、将来必ず完成するのである。

 だから、わたしたちの善い働きには意味がある。それは、自分が神の国を近づけるというような驕りではなく、神への信頼によってひたすら将来を待ち望みつつ、その希望が確かであることを証しする働きなのである。

2022年4月24日
コヘレトの言葉 5:1-2 マタイによる福音書 6:5-15

「祈るときには」  牧師 永瀨克彦

 人に見てもらうために大通りの角に立って祈る人は、既に報いを受けていると主イエスは言われる。その祈りが実現するかどうかは関係がなく、彼はもう報いを受けてしまっているのである。なぜなら、「人から褒められたい」、「自分の地位を高めたい」という願いは既にかなっているからである。つまり、彼は神に祈っているように見えて実は人しか見ていない。他人を見、また自分の評価がどうなるかという点で自分自身を見ている。彼は神に祈り求めているように見えて、本当はそれを求めておらず、自分が褒められることを求めている。そもそも求めていないものを受け取ることはできない。だから彼は「既に報いを受けてしまっている」のである。

 神はわたしたちに本当に必要なものを知っていてくださる。だから、わたしたちは自分の願いを求めるのではなく、神の御心が行われることを祈るとき、安心することができる。神はわたしたちが自覚すらしなかった本当に必要な救い、主イエスの十字架と復活を与えてくださった。

 主の祈りは、御心を第一に祈り求める祈りである。初めに祈られるのは「御名が崇められますように」、つまり、すべての被造物が神を礼拝する日が早く来ますようにということである。この神の御心を自分自身の願いとさせていただくとき、わたしたちには平安がある。全ての人を造り、生かし、愛してくださる神を、皆で礼拝する恵みにあずかれるよう祈りたい。

2022年4月17日 イースター
詩編16:10-11 ルカによる福音書 24:1-12

「復活を伝える」  牧師 永瀨克彦

 婦人たちは、主イエスから死と復活を事前に予告されていたが理解することができず、墓の中に主イエスの遺体を捜した。天使たちは言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。(…)思い出しなさい(…)三日目に復活することになっていると言われたではないか」。

 わたしたちは聞いても理解することができず忘れてしまうことがある。しかし、それでも日々御言葉を聞くことが大事である。聞かなければ思い出すこともできない。神は思い出させてくださる。思い出すならば聞いたことは無駄にはならない。婦人たちは忘れてしまうという失敗は犯したが、思い出させていただき、ここから復活の主を伝えていくことができる。

 婦人たちはすぐに墓から帰って他の弟子たちに主イエスの復活を伝えた。嬉しくて伝えずにはいられなかったのである。そして、他の弟子たちも、初めは信じることができなかったが、一度主が復活されたことが分かると、やはり居ても立っても居られず、勇んで主の復活を伝え始めた。こうして主の復活を伝える群れとして成立したのが教会である。(使徒言行録2章で聖霊が降り教会が生まれたとき、ペトロは何よりもまず主イエスの十字架と復活を語った)。主の十字架と復活こそは、わたしたちに永遠の命を与えた救いの出来事であり、教会が伝える最も重要な福音である。愛し合い仕え合うことを伝えることはもちろん大事である。しかし、そうした善は十字架と復活を根拠として初めて可能であることを忘れてはならない。婦人たちのように、抑えきれない喜びをもって主イエスの復活を伝えたい。

2022年4月10日
イザヤ書 53:1-5 ルカによる福音書 23:44-49

「父を信頼して十字架についた主」  牧師 永瀨克彦

 主イエスは大声で叫ばれ、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られた。なぜ主イエスは最後にこのような父への信頼の言葉を語られたのか。「主イエスはもっと苦しんで死なれたはずだ。人間の罪はそれほど深かったはずだ」。そう言って、この主イエスの父への信頼に満ちた言葉を受け入れたがらない人もいる。しかし、ルカによる福音書は、確かに主イエスがこう言われたと証言するのである。

 実は、主イエスは「苦しいのに信頼した」のではない。そうではなく、「信頼するからこそ苦しみを引き受けられた」のである。ゲツセマネの祈りで主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」と祈られた。主イエスご自身の願いは十字架にかからないことであった。主イエスが父を信頼していなければ、十字架につかないことを選んだはずである。しかし、主イエスは父に信頼し、苦しみを引き受けることを選ばれた。その主イエスが最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われるのは必然なのである。

 受難の記事は、闇雲に苦しみを強調するものではない。神殿の垂れ幕が裂けたのは、単に主イエスの叫びの悲痛さを表すのではなく、神と人間とを隔てる罪を、神が取り除いてくださったことを示す。主イエスの受難の中に、苦しみだけではなく、父への信頼とわたしたちへの愛がある。

2022年4月3日
詩編 16:1-11 マタイによる福音書 6:1-4

「主に褒めていただく」    牧師 永瀨克彦

 主イエスは人から褒められるために施しをする人を「偽善者」と呼ばれる。つまり、その行為は偽善であり善ではないと言われる。人間の感覚からすれば、たとえ不純な動機であっても、結果として施された人が助かったのであればそれは善なのではないかと思える。しかし、もし施された人が「良いことをしてくれた」と言い、見ている人が「この人は良いことをした」と認めたとしても、褒められることが目的でしたのならば、それは善ではないのである。

 なぜなら、善とは神の御心に適うことだからである。そして、神はわたしたちを愛し、その愛に応えてわたしたちもまた神を愛することを求めておられる。それに対して、褒められようとして施しをすることは、心の中心から神を外し、代わりに自分を中心に置くことである。つまり、それは「善」とは正反対の「罪」である。わたしたちは何をするにしても、自分のためではなく、主の御名がほめたたえられるためにしなければならない。

 「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」。単純に善行を人に見られること自体が悪だということではない。しかし、それは誘惑になる。人に見られていると、わたしたちはつい自分の評価が高まるかどうかを気にしてしまう。そのような弱いわたしたちにとっては見られていない方が、神の方に心を向けやすいのである。神は、誰かが助かったという結果以上に、わたしたちが神への愛によって働いたという心を喜んでくださるのである。

2022年3月27日
ヨナ書 4:10-11  マタイによる福音書 5:43-48

「敵を愛しなさい」    牧師 永瀨克彦

 敵を愛するとは、本来神の性質であり、神にしかできないことである。それにも関わらず、どうしてわたしたちにそれができるのだろうか。それは、わたしたちが「天の父の子」とされているからである。子とされることで、天の父の性質がわたしたちのものとされるのである。

 主イエスは、自分を殺そうとする敵であったわたしたちのために死んでくださった。主イエスは敵を愛してくださり、敵であったわたしたちはその愛によって悔い改めへと導かれた。この神の愛によって、今度はわたしたちが敵を愛することが期待されている。

 敵を愛することは本来人間にはできないことであることを忘れてはならない。わたしたちは常に聖霊により頼んでそれをしなければならないのである。敵を愛することは、らくだが針の穴を通るよりも難しいということができるかもしれない。主イエスは金持ちが神の国に入ることについてこのたとえを用いられた。弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。それに対して主イエスは「それは、人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。敵を愛することも同じである。それは人間にできることではないが、神は何でもできる。わたしたちは、神によって敵を愛することができるのである。

2022年3月20日
イザヤ書 53:4-5 マタイによる福音書 5:33-4

「左の頬をも向けなさい」    牧師 永瀨克彦

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。

 昔の人は、誓いを立てても、それを果たしさえすればよいと考えていた。むしろ、天にかけて誓ったことを果たすことは信仰深いこととして誇りにしていたかもしれない。しかし、それは一歩間違えば、自分の力で誓いを実現してみせるという驕りになってしまう。実際には誓った内容が実現するかどうかは人間が決めることができるものではない。神が実現させることをお決めにならない限り、絶対にそうはならない。だから人間がいくら意気込んでも仕方がない。むしろ、それは自分には事の成り行きを決める権限があると考える不信仰である。実際にはその権限を持つのは神である。よく考えれば、今日生きていられるのも神が生かしてくださっているからである。それを、将来このようにするとわたしたちが勝手に決めることはできないのである。わたしたちは神に祈り願い、その上で「然り、然り」「否、否」と言わなければならない。つまり、御心の通りに行ってくださいということである。

 「左の頬をも向けなさい」。ここで大切なことは、主イエスこそが、わたしたちの悪に対して復讐をせず、反対に愛を返してくださったことを知り、その主イエスに倣う者となることである。つまり、主イエスに従うことが大切なのであり、これをキリスト信仰から切り離し、単なる道徳的な勧めとして聞いても得るものは無いだろう。

2022年3月13日
詩編 144:3 マタイによる福音書 5:27-32

「キリストの義」    牧師 永瀨克彦

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。

 わたしたちは、「不倫さえしていなければ姦淫は犯していない。よってこの戒めは自分とは関係ない」と考えてしまうことがある。しかし、そのような、律法を守れているという思い上がりを主イエスは打ち砕かれる。

 心の中でみだらな思いを抱いただけで姦淫の罪を犯したことになるならば、いったい誰が律法を守れるのだろうか。まさしく、行いによって救われる者は誰もいないということを主イエスは言っておられるのである。

 だから、「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」というのは、そうすれば罪を犯さなくても済むということを教えているわけではない。目をえぐれば罪を犯さずに済むと考えるならば、それこそ思い上がりである。目で見なくても、わたしたちは心の中で罪を犯してしまう者である。人間は本来、全身が焼かれるか、自ら目をえぐるか、どちらかを選ばなければならないような罪人であることを、主イエスは思い出させておられるのである。

 そのようなわたしたちに、主イエスの十字架が与えられた。わたしたちは、自らの罪を認めるときに初めて、主の救いにより頼むことができる。

2022年3月6日
詩編 51:18-19 マタイによる福音書 5:21-26

「悔いる心をささげる」    牧師 永瀨克彦

 主イエスは兄弟に腹を立てる者は人を殺した者と同じ裁きを受けると言われる。つまり、心の中で怒っただけで「殺してはならない」という戒めを破ったことになると言うのである。それは、「殺してはならない」という戒めが、単に秩序を守るための法律とは違って、神が造り愛されるものを軽んじてはならないという命令だからである。

 わたしたちは、「殺してはならない」という戒めは自分には無関係だと思ってしまいがちである。「それなら守れているから裁かれることはない」と考えてしまう。しかし、主イエスはそうした思いを打ち砕かれる。ここで言われていることは、わたしたちは最も簡単に思える戒めすら満足に守ることはできないということなのである。「それならば一体だれが救われるのだろうか」と思われるかもしれない。その通りであり、本来裁きを免れる者は一人もいないのである。

 そこに主イエスの犠牲が与えられた。だから、わたしたちが礼拝するときには、戒めを守っている自分を誇るのではなく、罪を犯していたにも関わらず救っていただいたという悔い改めと感謝をささげなければならない。祭壇に着く前に兄弟と和解しなさいとは、そのことを言っているのである。

2022年2月27日
申命記 26:16-19 マタイによる福音書 5:17-20

「律法が消えることはない」    牧師 永瀨克彦

 わたしたちは、主イエスが来てくださったからもう律法は行わなくても良いのだと思ってしまうことがあるかもしれないが、そのようなことはない。主イエスは「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われ、わたしたちの甘い考えを厳しく正される。わたしたちは心の中で信じて満足するのではなく、自分の信仰を生活に表さなければならない。その意味で律法を確かに実行しなければならないのである。律法本来の目的は主に応えることである。だから、文字面だけに囚われて表面上守っていても、主が悲しまれるようならそれは律法を守っていることにはならない。例えば、安息日に病人をいやされた主イエスは、形式的には律法を破っているが、神に応えることで、真の意味で律法を行っているのである。わたしたちは神を信じることを心の中だけでなく、生活を通して実践しなければならない。

 ロシアによる侵略が起きている。人権、自由といった考えは神がそれを与えたもうという信仰によってのみ信じられる。人権は、それが実在するという信仰がなければ、お互いに攻撃し合わないようにしましょうという約束事にしかならない。平時ではそれでよくても、力の均衡が崩れれば一方的な蹂躙が起きる。信仰が生活を変え世の中を変える。それは理想論のように聞こえるかもしれないが、理想を理想として終わらせるのではなく、実践しなさいということこそ、ここで主イエスが言っておられることなのである。

2022年2月20日
イザヤ書 49:6 マタイによる福音書 5:13-16

「地の塩、世の光」     牧師 永瀨克彦

 「あなたがたは地の塩である」というのはどういう意味だろうか。塩が持つ働きは、味付けをするということと、もう一つは腐敗を防ぐということである。塩が持つ防腐剤としての役割は、保存料や冷蔵庫が発展した現代よりも、聖書の時代においてはずっと重要だっただろう。旧約聖書では、塩は神に献げる香を聖なるものとするために入れられたり、赤子を洗い清めるものとして書かれている。つまり、地の塩とは他の者を神に献げる聖なる献げ物へと変える存在ということである。礼拝とは、自分自身を聖なる生けるいけにえとして神に献げることに他ならない(ロマ12:1)。キリスト者は自分自身を聖なる献げ物として神に献げる。そして、キリスト者を通して周囲の人も自分自身を聖なる献げ物として神に献げる者へと変えられる。

 他人を清めるなどという大層なことを、どうしてわたしたちができるのだろうか。汚れた者に他者を清めることなどできるはずがないではないか。その通りであり、わたしたちは自分の力ではこの尊い働きをすることはできない。しかし、罪人であるわたしたちを、主イエスは十字架と復活によって赦してくださった。主イエスがわたしたちを聖なるものとしてくださった。主イエスこそは真の地の塩なのである。主イエスは「地の塩になりなさい」と言うのではなく、「あなたがたは地の塩である」と言ってくださった。この主イエスによって、わたしたちは地の塩として働くことができるのである。

2022年2月13日
イザヤ書 57:15 マタイによる福音書 5:1-12

「幸  い」       牧師 永瀨克彦

 山上の説教は世間でも広く知られており人気がある。それは、そこに書かれている内容が一見分かりやすく、クリスチャン以外でも人生の教訓として役立てられるように見えるからかもしれない。しかし、主イエスは山上の説教をあくまでも弟子に対して語っていることは重要である。群衆は主イエスが弟子に教えられるのを周囲から眺めているだけである。

 群衆がいるのに主に弟子に語り掛けるというのは、排他的で冷たいと思われるかもしれない。しかし、これは致し方のないことである。なぜなら、主イエスは神の国を受け入れた人に対して神の国について語るからである。神の国を拒む人に神の国のことをそのまま話しても理解することはできず、無駄になってしまう。これが13章で主イエスが群衆に対して神の国の話をそのまませずにたとえをお用いになる理由である。

 山上の説教で語られることは、「倫理的であれば利益を追求するよりもかえって人生が豊かになる」というような、社会で成功するコツではない。あくまでも主を信じる者の生活とその幸いについてである。だから、信仰がなければこれを読んでも得るものは無い。しかし、わたしたちは、信仰によってここに書かれている幸いを、幸いとして受け取ることができる。

 この個所は一見簡単そうに見えて実は難解な個所だと思う。「幸い」という言葉は共通しているが、それ以外はバラバラのことを述べているように思えるからである。しかし、よく読むと、これらは「神の国の到来」というテーマで一貫していることが分かる。ここで語られているのは、神の国で神との交わりに生きることができる幸いである。そして、この幸いは将来の希望であると同時に、現在すでに与えられているものでもあるのである。

2022年2月6日
エレミヤ書 1:4-10 マタイによる福音書 4:12-25

「召   命」       牧師 永瀨克彦

 マタイによる福音書のこの個所では、御言葉の権威が強調されている。漁師たちは主イエスの言葉だけで従うし、病人のいやしも福音の宣教の後に付随するものとして書かれている。人々はきせきを見るから福音を信じるのではない。反対に、福音を聞くからこそ、きせきの意味が理解できる。つまり、きせきとは人間の願いを満たすための道具ではなく、主イエスは神の子であることを示すためのものだということである。群衆は、山上の説教を聞いた後、御言葉によって、主イエスが権威あるお方であることを悟る。

 四人の漁師は、事前に主イエスを知っていたから従ったのではない。主イエスの奇跡を目撃したり、評判を聞いていたから、「この人なら師匠にしてもいいだろう」「今の生活を捨てるだけの価値があるだろう」と判断したわけではない。人間の打算はここにはない。まさに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)という聖句の通りである。四人の漁師は、ただ主によって選ばれ、召されたという理由のみによって主に従うのである。

 主に召されるならば、人間はただそれに応える他はない。主の召命は、そのような権威あるものである。預言者のヨナも、一度は召しから逃げようとしたが、結局は主に応えた。神はこの力強い御言葉によってわたしたちを召してくださる。逃れ難いその召しに応えるとき、わたしたちは、漁師たちが網を後ろに残したように、古い生き方を捨てて主イエスに従って全く新しい生き方を始めるという喜びを得ることができる。

2022年1月30日
申命記 8:2-3 マタイによる福音書 4:1-11

「命の言葉」        牧師 永瀨克彦

 悪魔は主イエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言った。これは、父に頼るのをやめ、自分自身の力で自分を生かせという誘惑である。わたしたちには石をパンに変えることなどできないのでこの誘惑は無関係に思えるかもしれないが、実は悪魔はわたしたちをも同じように誘惑するのである。例えば、一人の人が毎日「今日もわたしに生きる糧をお与えください」、「この食事を与えていただきありがとうございます」と祈っていたとする。そこに悪魔がやってきて、「あなたは何を祈っているのですか。あなたは神に頼る必要などないではないですか。なぜならあなたは優秀だし、自分の力で立派に稼いで食べ物を買うことができるじゃないですか」とささやく。その人は「確かにそうだな」と言って祈るのをやめてしまう。これではいけないのである。そのとき、確かに働いて食べ物を買い続けることはできるかもしれないが、神との交わりという最も恵み深いものが失われてしまう。パンは食べられても、神の言葉という命のパンは食べることができなくなってしまうのである。

 このように、悪魔の誘惑は分かりやすく悪事に誘うものというよりはむしろ、人間をほめそやし神を捨てさせようとするものである。「あなたはすごい人なのだから神などに頼らなくても良いでしょう」という具合である。

 現代はまさにこのような「いつまで神に頼っているのですか」という空気に満ちた時代であると思う。神を信じる人は時代遅れだと思われたり、弱い人だと笑われたりする。そのような時代だからこそ、わたしたちは神に立ち返ることを世に伝えなければならない。主イエスは言われた。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。

2022年1月23日
イザヤ書 11:1-5 マタイによる福音書 3:13-17                     

「身を低くされる神の子」   牧師 永瀨克彦

 神の子である主イエスが、ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになる。それは本来必要のないことである。主イエスには悔い改める罪がないからである。それでも主イエスが洗礼をお受けになるのは、わたしたち罪人と同じところまで身を低くしてくださり、人間の罪を背負って十字架にかかるためである。主イエスはまことの神の子でありながらまことの人となってくださり洗礼を受けられた。主イエスの洗礼は人間に仕えるための洗礼に他ならない。

 ヨハネは最初、主イエスの申し出を断ろうとした。しかし、主イエスは「今は、止めないでほしい」と言われた。洗足の出来事が思い出される。ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、主イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。神の子である主が、いやしいわたしたちに仕えてくださるからこそ、わたしたちは救われる。わたしたちは仕えてくださる主を拒むべきではないのだ。洗礼もまた、主が仕えてくださることであった。それをヨハネは拒むべきではなかったのである。

 主の奉仕を受け入れるとき、はじめてわたしたちは主に応え、自らが仕える者となることができる。主に仕え隣人に仕える歩みを始めるための出発点はいつも、仕えてくださる主を拒まないということなのである。

2022年1月16日
イザヤ書 40:1-5 マタイによる福音書 3:1-12

                      「主の到来に備える」   牧師 永瀨克彦

 「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」と洗礼者ヨハネは言う。人々は悔い改めて主の到来に備えなければならない。それはわたしたちも同じである。わたしたちも、終わりの日の主の到来に向けて備えをしなければならない。

 「我々の父はアブラハムだ」という言葉は、わたしたちに置き換えて言えば、「主イエスはもう十字架にかかってくださった」となるだろう。確かに主イエスは既に十字架と復活によって救いを成しとげてくださった。しかし、それはわたしたちが悔い改めなくても良い理由にはならない。わたしたちはその福音を悔い改めをもって受け入れなければならない。なぜなら救いとは、救ってくださった神に人間が応え、神との交わりに生きることだからである。

 わたしたちに応答と義が求められており、誰も最後の審判を免れることはできないという厳しい事実をこの個所は思い起こさせる。ヨハネが指摘した通り、「自分はこのままでも良い」と思うのは間違っている。しかし、神の裁きを過度に恐れる必要は無い。善を積んで合格をもらおうというのは、裏を返せば自分にはそれをする力があると考えているということだ。そのとき、人間は神ではなく自分に頼っている。わたしたちは神に依り頼みたい。神は聖霊によってわたしたちを主に応えさせてくださる。だから、主を信じるならば、わたしたちは主の裁きを恐れる必要はない。善い行い、義は、主に依り頼む信仰に続いて神から与えられるに違いない。

2022年1月9日
申命記 31:1-8 マタイによる福音書 2:13-23

                        「約束の実現」   牧師 永瀨克彦

 マタイはこの個所で、神の言葉が実現したということを三度繰り返し、強調している。神は約束を必ず果たしてくださるということをここから知ることができる。そのことによって、わたしたちは、将来わたしたちに与えられている約束も必ず実現するということを確信することができる。過去の恵みを思い起こすことと、将来の希望を確信することはセットなのである。

 キリスト教信仰は、常に将来を待ち望むものである。過去と現在だけでなく、将来という視点を持つことが大事である。確かに、現在の恵みに比べて、将来主イエスが再び来てくださり、御支配を完成してくださるという約束は分かりにくいかもしれない。しかし、わたしたちは日頃から主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」と祈っている。そして、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈り、今天の国で御心が全て行われているように、地上でも御心が全て行われるようにしてくださいと願っている。これは、天の国を地上にまで拡大してください、完成させてくださいと言っているに他ならない。このように主の再臨を待ち望む信仰は、キリスト教信仰の中核をなすものなのである。

 「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11:1の引用である。この出エジプトを語った、過去と現在に関係している言葉は、実は未来にも開かれているということを、マタイは明らかにしている。この言葉は、メシアの到来を預言する希望の言葉でもあったのだ。過去の恵みから、神は必ず約束を実現させてくださることを思い起こし、将来の救いの完成を確信をもって待ち望むものとなりたい。

2022年1月2日
創世記 18:1-8 マタイによる福音書 2:1-12

                       「救い主を迎える」   牧師 永瀨克彦

 東方の占星術の学者たちは、主の星を見てエルサレムにやって来た。東方というのはペルシア等の異国であり、彼らは異邦人であった。そして、占星術とはユダヤでは忌むべき異教の習慣である。つまり、神はそのような悪しきものさえ用いて彼らを導いてくださった。異邦人である彼らが主に出会うにはそうするしかなかったのである。主の救いが全ての民に与えられているということ、そして、そのために主はあらゆる手を尽くしてくださるということがここから分かる。

 異邦人たちが主を拝んだ一方、ユダヤ人の王であるヘロデ、そして神殿の祭司たちは主を拒んだ。彼らは不安を抱いたと書かれている。それは、神が新しい時代を創始してくださることを嫌い、現状維持を望んだということである。彼らは自分の地位にしがみつこうとした。神の意志を拒み、自分の願いに従ったのである。しかし、主の救いは、古いものに死に、新しい命を生きるところにその喜びがある。わたしたちの洗礼もそうである。

 わたしたちは、自分の中にもヘロデと同じ心があることを認めるまでは、彼を笑うことはできない。わたしたちが主を拒んだから、主イエスは十字架にかからなければならなかったのである。しかし、そのような、主から離れていたわたしたちを、神は悪しきものさえ利用して学者たちを導いたような熱意をもって招いてくださったのである。

2021年12月19日 クリスマス特別礼拝
イザヤ書 7:14 マタイによる福音書 1:18-25

                  「イエス・キリストの誕生」   牧師 永瀨克彦

 「イエス」とは「主は救い」という意味であり、珍しい名前ではなかった。しかし、そのありふれた名前に天使が与えた意味は全く新しいものであった。主イエスは「罪からの救い」なのである。

 このお方によって、わたしたちは初めて主が共にいてくださる恵みを喜ぶことができるようになった。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(1:23)。

 これは、イザヤ書からの引用であり、イザヤがアハズ王に告げた言葉である。実はそれは裁きの言葉であった。イザヤは、主に頼ることを拒んだアハズに対して先の言葉を告げたのである。神が共におられ、アハズの不信仰は明らかにされるだろう。そして、アッシリアの支配の下、ユダ王国の上には臨んだことのないような暗い日々が臨むのである。

 このように、主イエスが来てくださる以前、神が共におられることは裁きに他ならなかった。罪人は、正しい神の前に立つとき、立ち続けることはできないからである。例えば、アダムも神が歩く音を聞いて隠れなければならなかった。神が共にいてくださるという恵みが裁きになってしまう。これほどの悲劇はない。

 しかし、主イエスはわたしたちを罪から救ってくださった。そのとき初めて、わたしたちは神が共にいてくださる恵みを、恵みとして味わうことができるようになった。今や、わたしたちは神が共にいてくださることを喜ぶことができる。それが罪からの救い主、主イエス・キリストが与えてくださった恵みなのである。救い主のご降誕に心より感謝したい。

2021年12月12日
ミカ書 2:12-13 マタイによる福音書 1:1-17

                  「すべての民のまことの王」   牧師 永瀨克彦

 聖書には多くの系図が出て来るが、わたしたちにはそれがあまり重要なもとのとは思えないことが多いかもしれない。しかし、マタイはその系図を福音書の冒頭という非情に重要な個所に持って来ている。マタイはこの系図を通してメッセージを語ろうという強い意志を持っているのである。

 それは、主イエス・キリストはアブラハムの子でありダビデの子であるということである。主イエスはダビデの王位を継ぐ正当な王なのである。神は主イエスを、ダビデの系図の中で生まれさせられた。それは、主イエスのご支配の正当性を民にも分かる形で示してくださったということである。

 主イエスこそは、ユダヤ人たち自身が待ち望んできた自らの王である。だから、ユダヤ人たちは異邦人が主イエスを受け入れて喜んでいる間に、他の方向を向いてぼんやりしている場合ではない。「このお方は他ならぬあなたがたの王なのだ」。それがマタイのメッセージである。

 このように、主イエスは紛れもなくユダヤ人としてお生まれになったユダヤ人の王である。しかし、それにも関わらず、主イエスは異邦人の王でもある。マタイはこの系図を通してそのことをも語っている。ラハブとルツとは、異邦人の女性である。しかも、ラハブは娼婦であった。ダビデ王家の純粋性を示すためなら、彼女たちの名前を省くことは簡単であるが、マタイは意図があって異邦人の女性の名前を記す。主の救いの計画には昔から異邦人も含まれているのである。つまり、「これはあなたの救いだ」というメッセージはわたしたち自身にも向けられている。世間では、クリスマスはイエスという人の誕生祝いだと思われているかもしれないが、実際にはそのような他人事ではなく、わたしたちの救い主がお生まれくださった、わたしたちのお祝いなのである。

2021年12月5日
マラキ書 3:1 ローマの信徒への手紙 16:1-27

                 「神は間もなく悪を打ち砕かれる」   牧師 永瀨克彦

 このローマの信徒への手紙の締めくくりの部分は、神が隠されてきた福音をすべての異邦人に知らせてくださったという祝福の言葉で締めくくられている。神はイスラエルに異邦人を加えてくださり、ユダヤ人と異邦人を和解させ一つとしてくださったのである。そして、実はこれはこの手紙の冒頭で語られていたことでもある。つまり、はじめと結びで語られ、この手紙を貫いている福音は、一致であり主の平和なのである。

 平和とは、単に人間同士に争いが無いことではない。神は独り子を犠牲にして神と人間との間に和解をもたらしてくださった。この神と人との平和が全ての源である。人は神と和解するからこそ、キリストを頭とする一つの体とされ、人同士和解することができるのである。神との平和を抜きに人との平和を考えることはできない。

 1-16節でパウロは誰々によろしくと何度も繰り返しているが、これは平和の挨拶をしなさいということである。つまり、シャローム、主の平和についてあなたがたは聞いたのだから早速実践しなさいということである。

 そうすると、一見ただの挨拶にしか見えない1-16節が17節以下と繋がっていることがわかる。17節以下では主の平和を保ち、不和をもたらす人々を警戒しなさいということが語られる。そして20節で、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」と言われる。

 この個所は主の再臨を待ち望むアドベントに読むのにふさわしい。わたしたちは既に主の平和にあずかっているが、まだその平和を妨げようとする勢力が残っており、わたしたちは苦しめられている。しかし、既に勝利しておられる主は、終わりの日に再び来られ残存する悪を打ち砕いてくださる。だから、この苦しみはずっと続くものではない。それがパウロが語っている福音である。主のご降誕を思い起こし、再臨を確信するアドベントとしたい。

2021年11月28日
詩編 102:19 ローマの信徒への手紙 15:22-33

                     「一つのキリストの体」   牧師 永瀨克彦

 パウロは全く驚くべきことに、三つの旅行の計画を通して「一致」について語っている。これはただの依頼ではなく、福音なのである。

 パウロは今ギリシアにいるが、ローマに行く前に一度エルサレムに行かなければならない。それは、ギリシアの諸教会からの献金を届けるためである。しかし、なぜそんな遠回りをして、ましてや命の危険を冒してまでエルサレムに行かなければならないのだろうか。エルサレムには、パウロを殺すまでは決して飲み食いしないと誓ったような輩が大勢いるのである。ユダヤ人からみればパウロは裏切り者であった。それならば、誰か他の者に献金を託して送り届けてもらえばよいのではないか。死ぬかもしれないと分かっていながら、パウロが自ら行かなければならない理由は何なのか。それは、異邦人とユダヤ人を和解させるためなのである。

 この献金には、単に支えるという以上の意味がある。エルサレムのユダヤ人キリスト者たちは、この献金を受け取るとき、ギリシアの異邦人キリスト者たちを兄弟として認めることになるのだ。異邦人が上の立場から、一方的に支えてあげるというのではない。異邦人はユダヤ人たちの霊的なものにあずかったのである。つまり、これは、互いの欠けを補い合うということである。彼らは今や、一つのキリストの体とされている。

 このことが明らかにすることは、教会の中に二級の民は存在しないということであり、神の愛から漏れる者は一人もいないということである。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。「一人も滅びないで」とある通り、この愛はわたしたち一人一人に間違いなく向けられたものなのである。

2021年11月14日
イザヤ書 10:1-4 ローマの信徒への手紙 15:14-21

「神の民の一致」   牧師 永瀨克彦

 「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」(15節)とパウロは言う。人間は変化を嫌うものではないだろうか。だから、人間は変化を求める御言葉を拒むかもしれないし、「そのままでいい」という意味に勝手に変換することもあるかもしれない。しかし、パウロが言っているように、御言葉は確かにわたしたちの記憶を新たにする。人間が御言葉を変えるのではなく、御言葉が人間を変えるのである。

 神が人間に従うのではなく、人間が神に従う。パウロは自分のことを、異邦人を神に喜ばれる供え物として献げる祭司だと自称する。異邦人が供え物とはどういう意味だろうか。それは、神が異邦人を求めておられるということである。救いは、異邦人が願って、自分で勝ち得たものではない。何よりもまず、神が異邦人をお求めになった。だからこそ、異邦人は神に応えることができたのである。人間はつい、人間を中心に考えてしまう。しかし実際には、神が中心となり救いを成しとげてくださったのである。

 神が異邦人を求めておられる。だから、教会は伝道をしなければならない。信仰を個人的なもの、自分の心の中の問題と考えていては伝道する意味はわからない。人間を中心に据えていては伝道する意味はわからない。神が中心であることを思い出して初めて、その神が求めておられる伝道に自分が従事するのだということが分かるのである。

2021年11月7日
詩編 146:6-10 ローマの信徒への手紙 15:7-13

「希望の源である神」   牧師 永瀨克彦

 神は「忍耐と慰めの源」である。わたしたち人間は、神の子を十字架につけて殺すような主に背く存在であった。そうした存在は、裁きを受けて滅ぼされるのが本来自然なことである。にもかかわらず、主イエスは人間のために十字架にかかり復活してくださった。それは、人間の背きを忍耐し慰めを与えてくださったということである。この主を源としてのみ、わたしたちは兄弟に対して忍耐し慰めることができる。自分の心の強さによって忍耐しようとするなら必ず失敗する。わたしたちはまず、自分自身に与えられた主イエスの赦しを知らなければならないのである。

 神はまた「希望の源」である。希望とは民の一致である。将来全ての民が心を合わせ声をそろえて神を礼拝する日が来る。この希望は神の約束に基づいている。神はアブラハムに、すべての民が彼によって祝福に入ることを約束された(創12:1-3)。アブラハムの子孫、ユダヤ人だけの祝福が約束なのではない。異邦人が救われることが、実はユダヤ人にとっても待ち望んできた約束だったのである。彼ら自身が忘れていたとしてもである。

 この希望は、「忍耐・慰め」と繋がっている。わたしたちが互いに忍耐し慰め合うとき、そこに平和、一致が生まれる。そして、世界全体から見ればまだ一部ではあっても、教会の中に確かに一致が存在するからこそ、わたしたちは将来の一致を確信し待ち望むことができるのである。わたしたちは異なる者同士でありながら共に礼拝をささげている。そのことに慣れてしまい当然のことのように思うこともあるかもしれないが、神によらなければこのようなことはできない。この今の奇跡を確かに見つめるときに初めて、わたしたちは将来に確信を持つことができるのである。

2021年10月31日
イザヤ書 11:1-10 ローマの信徒への手紙 15:1-6

「キリストに倣う」   牧師 永瀨克彦

 この手紙は、ローマの教会にスペイン伝道への協力を要請するにあたって、パウロが伝えている「福音」とは何かを説明するという構成になっている。パウロが何を伝えているのかを知らないことには、支える側も支援の仕様がないのである。そして、その説明はいよいよ大詰めを迎えている。このまとめの部分には特に大事なことが書かれていると思われる。

 ここで書かれていることは、すべての民が共に主を礼拝することができるということである。それこそが福音なのである。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(1節)。強い者とは、あらゆる面で信仰が優れているという意味ではない。これは肉食の議論の続きである。特定の問題で対立が生じたとき、例え自分が正しいとしても、わたしたちは相手がつまずかないよう配慮しなければならない。信仰は「自分と神」だけの問題ではないのだ。キリスト者は自分の心の中で信仰を追求して満足するのではなく、隣人を喜ばせ互いの向上に努めるべきである。なぜならば、まさに主イエスご自身がわたしたちのためにそれをしてくださったからである。

 わたしたちは一人で礼拝するのではなく、共に礼拝をささげる。そうすることで初めて、わたしたちは将来すべての被造物が主を賛美するという「希望」を持つことができる(4節)。現在与えられている「初穂」を軽んじておきながら将来の希望を信じるというのは矛盾している。今の恵みは将来の希望を指し示す。だから、わたしたちは主に倣い、心を合わせ声をそろえて神を礼拝することができるよう、聖霊の働きを祈り求めるのである(6節)。

2021年10月24日
イザヤ書 1:17-23 ローマの信徒への手紙 14:13-23

「つまずかせない」   牧師 永瀨克彦

「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」(14節)とパウロは言う。主イエスは「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。(…)人から出て来るものこそ、人を汚す。」(マルコ7:18-20)と言われる。

だから、肉や酒は、それ自体が汚れているわけではない。主のために飲み食いするならば、それは清いものである。しかし、その正論によって、それは禁じられていると信じている信仰の弱い人を非難しつまずかせるならば、そのとき肉や酒そのものではなく、私たちの心がその人を汚したことになる。また、兄弟を不和という罪に誘ったことで、私たちの心が私たち自身を汚したことになるのである。

真の恵みは、飲み食いする自由ではなく、主にある交わりである。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17節)。たかだか食物のことで言い争い、聖徒の交わりを壊すならば本末転倒である。だから、食物については自分の信仰の確信に基づいて行動すればよい。

「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」(20節)。主イエスはご自身の命を捨てて人間を救ってくださった。兄弟をつまずかせ、その主の働きを無にすることは、主に背くことである。反対に、兄弟が主に留まるように配慮することは主に仕えることになる。「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます」(18節)。一見、主が語られた正しいことに相手を従わせることこそ主に仕えることに思える。しかし、実は相手をつまずかせず、主に留まらせることの方が主に仕えることになるのである。