説教要約

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2023年1月29日
箴言 2:1-5 マタイによる福音書 13:44-52

「宝を見つけた人は」      牧師 永瀨克彦

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。

 畑に宝が隠されていることを知り、そのまま隠しておく人のような気持を、わたしたちは味わっているだろうか。「この宝は絶対に手に入れたい。他の人に取られるなんて考えられない。どうか他の人に見つかりませんように」そこまでの執着を見せているだろうか。神に従って生きることができる。この恵みは、本当はそれほどまでに奪われたくない恵みなのである。

そして、実際には、この恵みはこのたとえのように隠す必要はない。取り合う必要はない。主イエスは全ての人間の罪を背負って十字架にかかってくださったからである。そして、罪の奴隷から解放し、自由に神に従うことができるようにしてくださった。  これほどまでに自分のものにしたい喜び、取られたくない喜びが、わたしたち皆に与えられている。この恵みが、このたとえほどに大きな喜びなのだということを忘れないようにしたい。何に代えてでも、絶対に手に入れたい。その、神に従って生きるという大きな恵みがわたしたちは既に与えられているのである。

2023年1月22日
詩編 126:6 マタイによる福音書 13:24-43

「毒麦のたとえ」      牧師 永瀨克彦

 主イエスは毒麦のたとえを話された。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。僕たちが主人に「行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。借り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう」と答えた。

 わたしたちの周りには多くの罪がある。戦争や病など、理不尽に思えることがある。また、罪はわたしたちの内側にもある。そうした罪を見ていると、神は存在しないと感じる人も多いだろう。神がいるならこのような悪を放っておくはずがない。また、放っておくならそんな神は善ではないと思うかもしれない。しかし、神は終わりの日にそれらをまとめて焼くために、今はそれらをそのままにしておられる。罪の世でも、わたしたちは主の御支配を信じ安心して良いのである。  毒麦は若い頃は麦そっくりだが、収穫のころには黒ずみ、選別が容易になる。また、毒麦は根が強いので麦まで一緒に抜けてしまう恐れがある。そのため、収穫の時まで待ち、それからまとめて焼くのが毒麦の正しい対処法である。わたしたちは罪が存在することに焦り、自分で対処しようとするべきではない。収穫前に麦と毒麦は似ているため、間違えてしまうかもしれない。また、その判断は正しくても、麦を巻き添えにしてしまうかもしれない。正しく裁くことができるのは神だけである。わたしたちは、罪の現実に焦ることなく、主の御支配を信じ、安心して主の裁きを待つ者となりたい。

2023年1月15日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 13:18-23

「御言葉を聞いて悟る人」      牧師 永瀨克彦

 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれた者を奪い取る。道端に蒔かれたものとはこういう人である」。

 御言葉を聞いて喜んでいても、それがその人の血となり肉となっていなければ、いつの間にか悪い者が来て奪い去られてしまう。しかし、御言葉が深くその人に根付いていれば、持ち去ることはできない。主イエスは、聞くことと、聞いて悟ることを区別される。わたしたちは、御言葉を頭で理解するだけではなく、御言葉によって変えられなければならないのである。

 「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」。

 熱しやすく冷めやすい。これは、自分が変えられることなく、御言葉を自分の願望に沿って理解し喜んでいたというような場合だろう。だから初めは熱烈に喜ぶが、やがて自分の期待通りではないと分かると急に冷めるのである。しかし、御言葉によって変えられた者は、自らの十字架を背負って主の後を歩み始める。

 単に御言葉を聞いて納得し、「そういうことか、良く分かりました」と言って喜ぶのが真の喜びなのではない。御言葉によって変えられ、実際に主と共に生きる新しい生き方を始めるところに、真の喜びがあるのである。

2023年1月8日
詩編 119:97-105 マタイによる福音書 13:10-17

「聞くことができる幸い」      牧師 永瀨克彦

 「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と聞く弟子たちに対して、主イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」とお答えになった。これは驚くべき答えである。群衆には悟ることが許されていないから、たとえを用いて、あえて分からなくさせたと主イエスは言われるのである。

 普通たとえとは、相手が理解できるように用いるものである。しかし、主イエスは相手を分からなくさせるためにたとえをお用いになる。なぜそんな意地悪なことをされるのかと思うかもしれない。しかし、ここには、神の国の秘密は、神の側からの啓示によらなければ、決して人間には理解することができないという厳粛な事実が書かれているのである。

 福音は、たとえ最高峰の頭脳を持った人が、最高の方法で聖書を研究しても、神の許しが無ければ理解することはできない。しかし、わたしたちは、最高の頭脳を持っているわけではないかもしれないが、神の許しによって、主イエス・キリストの十字架と復活による救いについて余すことなく知らされており、それを理解し、信じることができていることを感謝したい。  わたしたちには、福音を知ることが許されている。聞く耳が与えられている。だから、しっかりと御言葉を聞いて、それを受け入れる者となりたい。

2023年1月1日
サムエル記上 1:20-28 ルカによる福音書 2:21-40

「神殿での奉献」         牧師 永瀨克彦

 ヨセフとマリアが幼子の主イエスを神殿で主に献げたとき、ザカリアは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。

 一体、この言葉のどこが祝福だというのか。しかし、シメオンは確かにこれを祝福として語るのである。

 主イエスはわたしたちの反対を受け、わたしたちの心にある思い、罪のために十字架につけられた。それは、母の心を刺し貫いた。そして、それこそがわたしたちの救い、祝福となった。

 主イエスの前に人々は起きもすれば倒れもする。主イエスの福音は悔い改めを必要とするからである。主イエスが十字架で死なれたのは、まことにこのわたしの罪のためであったと認めるとき初めて、わたしたちはその罪の赦しを知ることができる。だから、福音は人間にそのままでいることを許さず、聞く者を二分する。それが、倒される者もいるという厳しさであり、悔い改めなければならないという厳しさである。しかし、この厳しさの中にこそ真の慰めがある。わたしたちは悔い改めることができる。そして、罪の赦しの福音を聞くことができるのである。

2022年12月25日
ミカ書 5:1-3 ルカによる福音書 2:1-20

「大きな喜び」         牧師 永瀨克彦

 主イエスは生まれると飼い葉桶に寝かされた。宿屋には家族が泊まる場所が無かったからである。このことは、主イエスが神の子でありながら、身を低くし、人間に仕える者となってくださったことを意味する。主イエスは人間に奉仕をするために来てくださった。つまり、十字架にかかって全ての人間の罪を贖うために生まれてくださったのである。

 世間では、クリスマスはイエスの誕生日であり、クリスチャンは皆イエスの誕生日をお祝いするために教会に集まっていると思われているかもしれない。しかし、クリスマス礼拝は誕生日パーティーではない。クリスマス礼拝は、主イエスがわたしたちのために十字架にかかって死のうと決意して生まれてくださったことを感謝する礼拝である。だから、主イエスの誕生日を祝うのではなく、祝われているのはわたしたちの方である。わたしたちは、救い主が生まれてくださったことを互いに祝い合い、神に感謝をささげる。

 天使は羊飼いたちに「恐れるな」と語る。羊飼いは、当時のユダヤでは罪人と見なされていた。家畜の世話で安息日を守ったり、神殿で献げ物を献げることができなかったからである。罪人が神の前に出ることは、本来恐ろしいことである。しかし、天使は「恐れるな」と告げる。罪人が罪赦され、神の前に立つことができる。神と共に生きることができる。これこそが、主イエスが生まれてくださり、十字架と復活を通してわたしたちに与えてくださった恵みなのである。

2022年12月18日
イザヤ書 11:1-10 ルカによる福音書 1:26-38

「お言葉通り成りますように      牧師 永瀨克彦

 天使が「マリア、恐れることはない」と言った通り、マリアの身に起こったことは、普通であれば恐ろしくなるようなことである。婚姻前の女性が身ごもれば、姦通を犯したと判断される可能性が高い。婚約中の女性が姦淫の罪を犯した場合、石で打ち殺されなければならないことが律法で定められている。また、永遠にヤコブの家を治める王を生み育てなさいと突然命じられたわけである。これも普通であれば恐ろしいことである。

 マリアも初めは恐ろしく思ったのではないだろうか。「どうして、そのよなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」という言葉には、「そんなはずはない」というだけでなく、「そうであっては困る」という気持ちも含まれているのではないか。

 しかし、天使が「神にできないことは何一つない」と言うと、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と言った。マリアにも自分の計画があったはずである。思い描いた結婚準備と結婚生活があったはずである。しかし、天使が告げたことはそれらすべてを打ち壊すものである。婚約を破棄されるかもしれないし、処刑されるかもしれない。しかし、マリアは、自分の計画を捨て、神の計画が成ることを願った。ここにマリアの信仰の偉大さがある。わたしたちも、自分の計画にこだわらず、主がいつ再び来てくださっても、喜んでお迎えする者となりたい。

2022年12月11日
創世記 45:1-8 マタイによる福音書 13:1-9

「妨げられない計画」        牧師 永瀨克彦

 種を蒔く人のたとえ。このたとえでは、蒔く種の大半は実を結ぶことはない。道端に落ちた種は鳥に食べられ、芽を出すことすらない。石だらけの土に落ちた種といばらの間に落ちた種は、どちらの芽を出すが、実を結ばない。

 種を蒔く人は福音伝道者を指しており、実はその成果である。鳥に食べられ芽すら出ないのももちろん悲しいが、芽が出たのに実を結ばないのはもっとつらい。つまり、初めからなしのつぶてであるよりも、福音を受け入れ、教会の一員となったのに、その兄弟姉妹が躓き、教会を去る。信仰を失うということも現実に起こるのである。この場合、悲しみは一層深刻である。

 わたしたちは、長年教会生活を送っていれば、そのような悲しみを実際に何度も経験する。しかし、希望を捨ててはならない。このたとえにおいて、大半の種は実を結ばないにもかかわらず、良い土地に落ちた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなる。実を結ぶ種は極一部なのに、収穫はあふれんばかりのものとなるのである。ほとんどが上手くいかないからといって、全体が失敗すると考えるのは人間の見方である。神の計画は、そうした多くの失敗や挫折によって挫かれるものではない。多くの困難にもかかわらず、神は計画を推し進めてくださり、神の国を完成させてくださるのである。

2022年12月4日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 12:46-50

「主イエスの兄弟、姉妹」        牧師 永瀨克彦

 主イエスが群衆に話しておられるとき、主イエスの母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。主イエスの家族は、おそらく主イエスを連れ帰りに来たのだろう。マルコによる福音書には、主イエスの家族は、「あの男は気が変になっている」と聞いて取り押さえに来たと書いてある。一族の恥だと思ったのかもしれないし、あるいは純粋に心配して保護しようとしたのかもしれない。いずれにしても、母たちは、主イエスが語っていることを全く理解することができなかったということである。主イエスがなお話しておられるときにやって来て、説教を止めさせようとした。伝道を止めさせようとした。そのことが問題である。

 主イエスは、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言われた。「何と冷たい」と思われるかもしれない。しかし、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と主イエスは言われる。御言葉の伝達を止めさせようとするのは、まさにこれと逆である。主イエスは感情的になって「あなたのことは母とも思わない」と言っているのではなく、「御心に背く者は神の子ではなく、神の独り子である自分と兄弟とは言えない」ということを言っておられるのである。主イエスは肉親を見捨てたのではなく、母と兄弟たちは後に教会の一員となっている。

 この個所の主題は、肉親との決別ではなく、主イエスがわたしたちのことを家族だと言ってくださっているということである。初代教会には、信仰のために家族から切り離された人が大勢いた。しかし、主イエスがわたしたちのことを兄弟姉妹だと言ってくださる。家族からの誤解や無理解に悩むとき、わたしたちにとってもこれ以上の慰めはない。

2022年11月27日
創世記 18:1-5 マタイによる福音書 12:43-45

「主を待ち望むアドベント」  牧師 永瀨克彦 

 アドベントは、ただクリスマスを待つ期間ではない。また、わたしたちは救い主のお生まれを待ち望むのでもない。救い主、イエス・キリストは、二千年前に生まれてくださった。「メシアよ、どうか生まれて来て下さい」という人々の願いは、既に叶えられているのである。アドベントのとき、わたしたちは、主の降誕を待ち望んでいた人々に自らを重ね合わせつつ、終わりの日の主の来臨を待ち望むのである。

 主イエスはたとえを話される。悪霊がある人から出て行き、さまよった後、「やはり我が家に戻ろう」と言って戻ってみると、空き家になっており、掃除をして整えられていた。そこで悪霊はさらにわるい七つの霊を連れて来て住み着く。そうすると、その人の状態は前より悪くなる。

 イスラエルは、これまで偶像を拝み神から離れることもあった。しかし、ヨシヤ王は国中の偶像の祭壇を破壊したし、主イエスの時代の律法学者たちも、潔癖なまでに罪を遠ざけようとしている。それは、家から悪霊を追い出し、家を綺麗に片づけるようなものである。そこまでは素晴らしい。掃除をするのは、来るべき主をお迎えするためだからである。しかし、その肝心の主を拒んでしまえば、主のために用意した広い場所に誤った他の者が入り込んでしまう。待ち望んでいる主イエスを、しっかりと迎え入れることが何よりも大切である。

2022年11月13日
ヨナ書 3:1-10 マタイによる福音書 12:38-42

「主イエスの復活というしるし」  牧師 永瀨克彦 

 ファリサイ派の人々は、「ベルゼブル論争」で主イエスを貶めようとしたが反対に論破されてしまった。そこで、この個所では、「今ここで、あなたがメシアであるという目に見える証拠を出して見ろ」と彼らは迫っているのである。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」とは、ヨハネによる福音書で主イエスがトマスに言われた言葉であるが、今回の個所でも同じことが主題となっている。

 主イエスは、預言者ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたことが、主イエスが三日目に死人の内から復活することのしるしであると言われる。ヨナの出来事が、主イエスがメシアであることのしるしである。

 主イエスは、ファリサイ派の人々に応えてしるしを提示された。しかし、それは彼らが求めていたような目に見えるしるしではない。ヨナのしるしは、結局は信じるしかないものである。当時の人の誰もが知るあの物語が、実は主イエスの復活を指し示しているというのは、信じるしかないものである。主イエスは見て信じるのではなく、福音を聞いて信じるようにと招いておられるのである。  証拠によって信じさせられても、そこに神との交わりはない。しかし、神が御言葉を語ってくださり、わたしたちが、神を信頼するがゆえに神からの約束を信じるとき、神との相互の交わりがある。見て信じるのは当然であり、信仰ではない。神が愛してくださり、その神をわたしたちも信頼するから信じる。そこに恵みがある。だから、主イエスは福音を聞いて信じるように、わたしたちを招いてくださるのである。

2022年11月6日聖徒の日召天者記念礼拝
詩編 102:19 Ⅰテサロニケ 4:13-18

「いつまでも主と共にいることになる」  牧師 永瀨克彦 

 聖徒の日、召天者記念日礼拝をおささげすることが許され感謝である。召天者記念日礼拝は、一つには既に天に召された信仰の先達の歩みを、敬意をもって振り返るひとときであると言える。しかし、それだけではない。このときは、既に召された人も、わたしたちも、終わりの日には復活し、共に主を賛美することができるという福音によって慰められるときでもある。

 パウロは言う。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。

 主イエスの復活を信じるときに初めて、わたしたちは自らの復活、そして愛する人の復活を信じることができる。そのとき初めて、わたしたちには希望がある。そうでなければ、わたしたちはこの世の生活に全ての望みをかることになる。だから、復活の信仰は、キリスト教の沢山ある良い教えの内の一つというのではなく、教会が伝える福音の中核である。

 わたしたちは、既に眠りについた人たちについて希望を持っている。終わりの日に再び相まみえ、共に主を礼拝し、いつまでも主と共にいるという希望である。わたしたちは、過去を懐かしむだけではなく、将来に希望を持っているのである。

2022年10月30日
イザヤ書 55:8-11 マタイによる福音書 12:33-37

「木が良ければその実も良い」     牧師 永瀨克彦 

 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとしなさい」と主イエスは言われる。わたしたちは、主という良い木に繋がるとき、初めて良い実を結ぶことができる。一方、罪という幹からは悪い実しか生まれない。茨をいくら丁寧に育てても、リンゴを実らせることはない。

 「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」。わたしたちは、良い言葉を口にし、良い実を結ぶとき、良い木に連なる枝であることを確認することができる。そして、良い実の中心は礼拝であることを忘れてはならない。神が神として礼拝される。これ以上に本来なされなければならないことはない。そして、造り、生かし、救い、愛してくださっている神に応えて祈り、賛美する言葉、礼拝におけるわたしたちの応答はどれも麗しい、良い言葉である。わたしたちがそのように良い言葉を口にすることができるのは、神によって礼拝に招かれているからである。わたしたちは今、礼拝をささげることができている。まさに、この現実を通して、神はわたしたちが既に救われ、永遠に神のものとされていることを確証してくださっているのである。この恵みを感謝したいと思う。

 礼拝という最大の良い実から押し出され、良い言葉を語っていく者となりたい。

2022年10月23日
イザヤ書 42:1-3 マタイによる福音書 12:22-32

「神の国は来ている」        牧師 永瀨克彦 

 主イエスは、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われた。聖霊が働いているとき、そこに神の国は来ている。もちろん、神の国の完成は将来の出来事である。しかし、聖霊が働くとき、終わりの日に実現するはずの神の支配、神との全き交わりが先んじて与えられるのである。

 教会がまさにそうである。ペンテコステの日、聖霊が降り教会が生まれた。教会の中において、神との全き交わりが実現している。礼拝がそうである。神が御言葉を語ってくださり、わたしたちがそれを感謝し、賛美している。これは豊かな交わりである。こういうわけで、教会の中では、天の国の恵みが先に与えられている。つまり、天の国は既に来ているのである。

 そして、この事実は、将来の神の国の完成が確実であることを保証することでもある。なぜなら、今既に実現しているものは、将来完成することが確実であるからである。つまり、わたしたち教会は、将来神の国が来るということが間違いないということを世に向かって証しする存在である。教会は、世の人々が神の支配の完成に希望を持てるようになるための兆しとなることができる。

今教会の中で実現している、この神との豊かな交わりが世に広まり、遂には完成することを確信して世に伝える者となりたい

2022年10月16日
イザヤ書 42:1-3 マタイによる福音書 12:15-21

「裏通りに届く福音」        牧師 永瀨克彦 

 主イエスは皆の病気をいやし、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、人々がいやしそれ自体をもてはやさないようにするためである。人々がいやしを目的に集まり、ただいやしのみを喜んで帰っていくのでは仕方がない。主イエスを見出し、そのことを喜ばなければならないのである。わたしたちにとっても、いやしはそれ自体が目的ではなく、主イエスが救い主であることを指し示すためにあることを忘れてはならない。

 また、沈黙命令はユダヤ人ではなく異邦人が福音を受け入れるという預言が実現するためでもあった。「彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」。主イエスは、異邦人が福音を聞くために、ユダヤ人が主イエスの評判を聞かないようにされるのである。

 ユダヤ人は選ばれた神の民であり、大通りを歩く者であった。一方、異邦人には、神を知る可能性すら与えられていなかった。わたしたち異邦人は隅に追いやられ、路地裏で肩をすぼめて生きる者であった。しかし、主イエスはその異邦人に御声が届くようにしてくださったのである。主イエスの十字架は全ての人間の罪を背負うものであった。

 主イエスは全ての人間に語り掛け、招いてくださっている。その招きに応える者となりたい。

2022年10月9日
申命記 6:5 マタイによる福音書 12:1-14

「律法の完成」          牧師 永瀨克彦 

 ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたことを批判した。他人の麦を食べることがいけないのではない。律法では、空腹を覚える者が隣人の麦畑に入って食べることが許されている。神は人間が飢えることのないように配慮してくださるのである。だから、ファリサイ派の人々が批判しているのは、弟子たちが安息日に労働したという点である。

 しかし、安息日を守るのは、十戒が書かれている出エジプト記20章を見ると、主が六日の間に天地を創り、七日目に休まれたからである。つまり、安息日には、神こそが天地の造り主であることを覚えることが重要なのであり、ただ単に休めと命令されているから労働すると裁かれるという話ではないのである。このように、律法には、神がそれをお与えになった目的があるはずである。しかし、ファリサイ派の人々はそれを忘れ、律法を守ること自体が目的になってしまった。律法は主に従うためにある。律法全体は、主を愛することと、隣人を愛することに基づいているからである。

 主イエスは、弟子たちの行為は罪にならないと言われた。また、会堂で安息日に手の萎えた人をいやされた。いずれの場合も、主イエスは形式的には律法を破ってでも、人間を生かそうとされたのである。それは、律法を軽んずるのではなく、むしろ真の意味で律法を行うことであった。神は独り子を犠牲にしてでも人間を生かそうとされるお方であり、律法は神の御心に従うためにあるものだからである。人間の命とは、ただ肉体が生きることではない。主に立ち返り、主と共に生きることである。文字面にとらわれ過ぎず、主に応えることで、真に律法を重んじる者となりたい。

2022年10月2日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 11:20-30

「休ませてあげよう」   牧師 永瀨克彦 

 主イエスは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町に、終わりの日に裁きが下されることを宣告された。主イエスがそれらの町で奇跡を行われたのに、悔い改めなかったからである。

 なんて厳しいのだと思われるかもしれない。そんなことを言わずに、全ての町を救ってあげればいいじゃないか、信じる者しか救わないというのは酷いのではないか、信じない者も全て救えばいいではないか、と。しかし、そうした意見は、救いを誤解している。聖書が語る救いとは、神に立ち返り、神と共に生きることができることなのである。だから、それらの町が悔い改めなければ救われないというのは、実は当然のことなのである。そして、主イエスは、それらの悪い町々に出向き、奇跡を行い、悔い改めへと招かれた。そのことが重要である。主のもとに行く資格が無いものなどいない。悪い者こそ、主のもとへ招かれているのである。

 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。そして、わたしたちは主イエスと同じ軛(くびき)を負う。主が隣で、共に荷を負ってくださる。「わたしにはそうする資格がありません」などと言う必要はない。主は正しくない者をこそ、悔い改めへと招いてくださっているからである。正しくあることができず、疲れたわたしたちは、主イエスのもとに行って休むことができるのである。

2022年9月25日
マラキ書 3:19-24 マタイによる福音書 11:1-19

「主の到来に備える」   牧師 永瀨克彦 

 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。これは当時のわらべ歌である。前段は、結婚式の祝うべきときに、祝ってくれなかったという意味である。主イエスはなぜこの歌を持ち出されるのか。それは、人々が、神が行ってくださることに対して無反応だからである。今や、待望のメシアが到来し、祝うべきときなのに、人々は祝わない。そして、自らの救い主が死んでしまう、その十字架のときに、人々は悲しまないどころか、「十字架につけろ」と騒ぎ立てるのである。

 また、断食し、悔い改めるべき時代には、人々はヨハネの断食を馬鹿にし、一方で主イエスが来られた祝宴の時代には、人々は主イエスの飲み食いを非難する。これも先ほどと同じで、人々は神がなさることに応じて自分の在り方を変える気がないのである。

 しかし、断食のときは終わった。今や祝宴のときが開始している。なぜなら、主イエスは復活し、わたしたちが永遠に神との交わりに生きることができるようにしてくださったからである。時代が変わったのだから、わたしたちは振る舞いを変えなければならない。いや、変えることができる。悲しみ顔を伏せる者だったのが、今や、既に救われていることを喜び祝う生き方を送ることが許されているのである。

2022年9月18日
ミカ書 7:1-7 マタイによる福音書 10:26-42

「剣をもたらすために来た」   牧師 永瀨克彦 

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」この主イエスの言葉を聞いて、わたしたちは驚くに違いない。主イエスは平和のために来てくださったのではないのか。人間が剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。そのために主イエスは来てくださったのではないのか。しかし、主イエスは間違いなく、平和ではなく、剣をもたらすために来たと言われるのである。ただ、それは、戦争をしなさい、殺し合いなさい、憎み合いなさいと言っておられるのではない。そうではなく、たとえ、愛する家族から切り離されても、捨てられそうになっても、それでも主に対する忠誠を貫きなさいと主イエスは言っておられる。わたしたちは、主イエスを捨てて家族を取るような者になってはいけないのである。

 信仰のために家族から疎外されるということは、特に初代教会の人にとっては当たり前であった。彼らはイスラエルから離脱したと見なされたからである。しかし、そのような者に対して、主イエスご自身が兄弟であると語ってくださる(12:49-50)。今日の個所は、積極的に家族との対立を勧める個所ではなく、信仰のために親族と疎遠になった者に対する慰めである。それは主に従うという正しい行いの故なのである。そして、主に従う先にこそ、神の愛によってまことに家族を愛する道があるのではないか。

2022年9月11日
エレミヤ書 1:4-10 マタイによる福音書 10:16-25

「話すのは父の霊である」   牧師 永瀨克彦 

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。(…)人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」。

 人々を警戒しなければならないとは、何とも悲しいことではないか。それよりも、「人を信頼しなさい」と言う方が、温かみのある、主イエスらしい言葉だと思うかもしれない。また、道徳的に優れた教えだと思うかもしれない。しかし、これは、人を信頼してはいけないとか、疑心暗鬼にならなければならないということではない。

 福音を伝えるということは、悔い改め、神に立ち返るよう導くことである。主と共に生きるという真の喜びに至るまでに、必ず自らの罪を認める苦しみがある。また、主に従うことは、神を神とし、自分が神のように振舞うことを止めることである。自分のために神を利用するのではなく、神のために自分が合わせなければならない。それは大変なことである。だから、福音を伝えるとき、そこに敵意が生じる。

 人々を警戒しなければならないとは、相手が自分を鞭打つ存在であることを忘れてはならないということであり、それはつまり、相手は福音を伝える対象であることを忘れてはならないということなのである。伝道者は必ず反発を受けるからである。迫害を恐れて伝道を止め、信仰を捨てるようなことがあってはならない。人と仲良くするために主を捨てては本末転倒である。迫害を恐れず語り続けなければならない。しかし、心配してはならない。話すのはあなたがたではなく父の霊である、と主は言われる。

2022年9月4日
出エジプト記 3:10-12 マタイによる福音書 10:1-15

「主の権能によって働く」   牧師 永瀨克彦 

 主イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになり、その後で「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言って派遣された。伝道するために必要なものを、主イエスはあらかじめ与えてくださっているのである。

 十二人の使徒は、伝道するにふさわしかったから選ばれたわけではない。もし、わたしたち人間が、選りすぐりの十二人を選ぶなら、知識の豊富な人や人望が厚い者、人格的に優れた人を選抜するだろう。しかし、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは漁師であり、聖書の知識が豊富なわけではなかった。マタイは徴税人であり、人々からは軽蔑されていた。熱心党のシモンが属する熱心党は極右政党だった。そして、イスカリオテのユダは主イエスを裏切ることになる人物である。彼らは伝道する力を備えているから出かけるのではない。欠けがあるにも関わらず、主が力を与えてくださるから出て行くのである。

 「足の埃を払い落とす」とは、責任が自分に降りかかることはないことのしるし。わたしたちは、福音を伝えたならば責任は既に果たしている。信仰をお与えになるのは神である。それを忘れ、自分の力で何とかしなければならない、信じさせなければならないと思ってはならない。わたしたちは、自分の力ではなく、主の権能によって働くのである。