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2023年5月21日
サムエル記下 12:1-9 マタイによる福音書 18:6-14
「小さな者を愛する神」 牧師 永瀨克彦
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせるものは、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。……もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」。
この箇所は、文脈から切り離されて、神の裁きの厳しさを述べている文章だと理解されることもあるだろう。しかし、これは直前の「この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」という箇所の続きである。神は子供をつまずかせる者、つまり、子供を教会から追い出し神から離れさせる者を決して容赦されず、反対にそのような者をこそ教会から切って捨てられるということがここでは語られている。「それを切って捨ててしまいなさい」という言葉は確かに厳しい。しかし、それは、それをしてでも一人の小さな者を守らなければならないという神の愛なのである。そして、その小さな者、子供というのは、わたしたちのことである。わたしたちは皆神の子供なのである。 神は迷い出た一匹の羊ために、九十九匹を山に残してでも捜しに来てくださる。人間の羊飼いであれば、九十九匹を心配して一匹は諦めるかもしれない。しかし、神はこの小さなわたしのために、全てを置いて捜しに来てくださるのである。
2023年5月14日
詩編 71:4-8 マタイによる福音書 18:1-5
「子供のようにならなければ」 牧師 永瀨克彦
弟子たちは、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに尋ねた。彼らは、皆神に頼らなければならない弱い存在であり、その点で同列であることをわかっていない。自分は他の弟子に比べて、自分の力で生きられると思っている。しかし、それはその分神に頼らなくても良いと思っているということであり、大きな間違いなのである。
主イエスは一人の子供を真ん中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。 この言葉はしばしば「子供のように純粋にならなければならない」という意味だと理解される。しかし、子供にも悪い心はあることを忘れてはならない。子供の特性として間違いなく言えることは、親に頼らざるを得ない存在であるということである。赤ちゃんは親や、代わりに世話をしてくれる大人がいなければ一日だって生きていることはできない。親は子供を愛し、子供はその愛を喜んで受け入れる。主イエスは、わたしたちもその子供のように、神の愛を喜んで受け入れるものとなりなさいと言っておられるのである。ここで示されていることは、わたしたちは神の子供であり、まず神がわたしたちを子供として愛してくださっているということである。大人はつい、自分の力に頼ろうとする者である。大人は子供より、親に頼ることが不得意なのである。わたしたちは子供を侮ってはならない。自分より優れた点を持つ一人の人間、良いお手本として受け入れ、子供に倣い、自らも神により頼む者となりたいのである。
2023年5月7日
エレミヤ書 31:20 マタイによる福音書 17:22-27
「子供たちは納めなくてもよい」 牧師 永瀨克彦
主イエスの一行のところに、神殿税の徴収人が来た。主イエスはペトロに言われた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか。それとも他の人々からか」。ペトロが「他の人々からです」と答えると、主イエスは「では子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と言われた。そして、釣りをして最初に釣れる魚の口から銀貨を取り、神殿税として収めるように指示された。
王は、国民から税を徴収する。それが、王が軍隊を組織し、国民を他国の侵略から守ったり、治安を維持することの見返りなのである。つまり、王は国民を愛するが故に無償で守っているのではない。国民は守ってもらうためには対価を支払わなければならない。だが、王の子供は違う。彼らは守ってもらうために対価を支払う必要などない。王はただ、子供を愛し、守りたいから守るのである。
ならば、神の子供も同じである。彼らが神殿に税を収めるというのはおかしな話である。神の子供は、税を収めるから守ってもらえるのではない。神はわたしたちのことを、ただ愛するが故に救ってくださったのである。わたしたちは献げ物を献げるのであるが、それは、あちらから徴収される税ではない。そうではなく、救ってくださった神の愛に対するこちらからの自由な応答である。対価は親子の関係には馴染まないが、応答は親子の関係において本質的なものである。親からの一方的な愛で終わらせず、わたしたちも神に愛を返す。そこで初めて、わたしたちは神との豊かな親子の交わりを生きることができるのである。
2023年4月30日
出エジプト記 4:1-9 マタイによる福音書 17:14-20
「山をも動かす信仰」 牧師 永瀨克彦
ある人が主イエスにひざまずいて言った。「主よ、息子を憐れんでください。〔……〕お弟子たちのところに連れてきましたが、治すことができませんでした」。主イエスはその子をいやされた。
弟子たちが、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねると、主イエスは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」と言われた。
からし種は一ミリもないような小さな粒である。弟子たちには、その程度の信仰すらなかったことになる。かつて、主イエスは十二弟子を派遣した際、汚れた霊に対する権能を授けてから送り出した。弟子たちは、神からの力によってのみ、悪霊を追い出すことができるのである。また、弟子たちは、修行をし成長したからその力を得たのではなくて、それは初めから与えられている。だから、どのような弱い者であっても、神からの力により頼む信仰が一ミリでもあれば、悪霊を追い出すことができるのである。弟子たちにそれができなかったのは、おそらく神からの力に頼ることを忘れ、自分の力で何とかしようとしたからである。 わたしたちは、主イエス・キリストの福音を伝え、人々を救いに導くという、困難で恐れ多い働きを、ただ神の力によってのみ成すことができる。「自分にはできないから、もっと優秀な人に任せます」と言うべきではない。それは「自分の力で成す」と思っていることの裏返しである。何十年修行した人も昨日洗礼を受けた人も全く同じであり、神の力に頼るならばそれができるし、自分の力に頼るならばそれはできないのである。
2023年4月23日
詩編 67:1-8 マタイによる福音書 17:1-13
「苦難のメシアの栄光」 牧師 永瀨克彦
主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて山に登られた。そこで主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていた。
この光景は、もちろん、主イエスが栄光をお受けになるお方であることを示しているのだが、それは普通人間が思い描くような栄光ではない。つまり、強い王、人間が望むような救い主の栄光ではない。
主イエスはこの出来事の六日前に弟子たちに死と復活を予告された。そして、山には(ルカの並行記事によると)祈るために登られた。祈られた内容は、おそらく十字架についてであろう。そして、モーセとエリヤと語り合っていた内容も(やはりルカによれば)主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後についてであった。
雲の中から、父なる神の声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。主イエスは何をもって父から「わたしの心に適う」と言われているのだろうか。それは、人間の救いのために十字架の死を引き受ける決心をされたことをもってなのである。そして、三人の弟子はこれを証言する証人として立てられているのである。わたしたちも、主イエスの栄光とは、苦難のメシアの栄光であることを忘れてはいけない。自分が望むメシア像、イエス像を伝えるのではない。弱いものとなってくださり、わたしたちの代わりに十字架にかかり、復活し、ただそのことによってのみ、わたしたちを救ってくださった救い主、イエス・キリストを伝えなければならないのである。
2023年4月23日
申命記 30:15-20 マタイによる福音書 16:21-28
「命とは何か」 牧師 永瀨克彦
主イエスは、ご自身の死と復活を三度も予告された。それは、その福音が人間にとってそれだけ受け入れ難いものであることを示している。実際、弟子たちは三度も予告されておきながら、主イエスが逮捕されると見捨てて逃げてしまった。十字架が救いであると理解していなかったからである。
この箇所で、主イエスは十字架と復活によって人間を救おうとしてくださっている。しかし、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って引き止めようとする。一見主イエスを心配しての言葉にも見えるが、実際には、ペトロは主イエスに対し、自分の願いどおりのメシアでいるように要求しているのである。 人間は、主イエスを自分の思い思いの救い主に仕立て上げようとする。例えば、イエスとは自分が愛されている存在であることに気づかせてくださった救い主、自己肯定感を高め、自信を持って生きられるようにしてくださった救い主だと思うかもしれない。もちろん、それも信仰によって与えられる恵みである。しかし、あくまでも十字架と復活による神との和解、そしてそれによる神と共に生きる生活を通して初めて得られる恵みである。十字架と神の愛は切り離すことができない。このことを忘れ、十字架と復活を取るに足らない迷信、あるいは単なる比喩と考え、イエスの愛だけをありがたがるならば、イエスを単なる愛の伝道師として崇めるならば、それは「主よ、とんでもないことです」と言って十字架の主を拒んだペトロと同じなのである。わたしたちは、十字架へと進んでくださった主イエスをそのようなお方として受け入れなければならない。自分の理想のイエス像を造るのではなく、十字架と復活によって救ってくださった主イエスを受け入れなければならないのである。
2023年4月9日
詩編 98:1 マルコによる福音書 11:1-11
「恐れを抱かせる良い知らせ」 牧師 永瀨克彦
婦人たちが主イエスの墓に行くと、入り口の石はどかされ、中は空であった。天使は言った。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。〔……〕さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」。
婦人たちは、いつも優等生であった。主イエスが逮捕されたあと、弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げたが、そんな中でも最後まで十字架を見届けたのが婦人たちであった。だから、ここでも天使の言葉に従ったに違いないと思いきや、そうではなかった。彼女たちは逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、「告げなさい」と言われたにもかかわらず、誰にも何も言わなかった。これは、婦人たちの弱さを強調しているのではなく、むしろ、最も強い弟子たちでさえ、主の復活をすぐには受け入れることができなかったということである。ならば、復活をすんなり受け入れられる人などいないのである。
わたしたちが伝えているのは、このような、万人に拒絶反応を引き起こさせるような福音である。復活は科学が発展した今の時代には受け入れられないから、聖書を今流にアレンジして伝えようなどと思ってはならない。復活が受け入れられ難いことは、今に始まった話ではない。昔の人は無知だったから無邪気に復活なんて信じていたのだと、昔の人を馬鹿にしてはいけない。婦人たちは逃げ出すし、パウロもアテネで復活の福音を伝えたとき、嘲笑を受けた。聖書は、イエス・キリストの復活が、世間から拒絶され馬鹿にされるような知らせであることを百も承知の上でそれを書いている。それこそが良き知らせだからである。
十字架と復活。そこにこそ、人間の罪の贖いと神との関係の回復という福音がある。この受け入れてもらい難い福音を、めげずに伝えていきたい。
2023年4月2日
ゼカリヤ書 9:9 マルコによる福音書 11:1-11「主イエス、死ぬためにエルサレムに入る」 牧師 永瀨克彦
主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入られた。主イエスは、王が馬に乗って戦から凱旋するようにではなく、身を低くし、仕える者として都に入られた。つまり、主イエスは十字架にかかって死ぬためにエルサレムに入られたということである。主イエスの十字架は、わたしたちの罪を背負って死に、それによってわたしたちの罪を贖うものであり、人間に対するこの上ない奉仕である。同じことが主イエスの御降誕に対しても当てはまる。主イエスは、ただ十字架にかかって死ぬためにこの世界に来てくださったのである。
だから、福音とは、十字架と復活による罪からの贖いに他ならない。そして、それによる神との関係の回復である。しかし、人間は主イエスを自分の好きなような救い主として捉えがちである。この箇所では、群衆は主イエスをダビデ依頼の強力な王として担ごうとする。しかし、それは実際の主イエスとは正反対である。主イエスはへりくだり、弱い者となってくださっているのである。
わたしたちも、自分の望むイエス像ではなく、主イエスご自身を心の内に迎え入れるべきである。「自分にとっての救いは、イエスの愛によって心が満たされることであり、十字架は求めていない」というならば、それは仕えようとしてくださる主イエスを拒むことである。しかし、洗足のとき、主イエスの奉仕を拒もうとしたペトロは注意を受けた。主イエスは、十字架と復活によってわたしたちを救ってくださった救い主である。
2023年3月26日
詩編 46:1-2 マタイによる福音書 16:13-20
「教会の土台」 牧師 永瀨克彦
ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」という正しい信仰告白をした。これは驚くべきことである。この時点では弟子たちは主イエスの十字架と復活についての予告を聞いていないし、聞いた後でも、彼らはろくに理解することもできなかった。それにも関わらず、ペトロが主イエスこそ全ての人間を罪から贖う救い主であると告白できたのは、真に神の力という他ない。主イエスは「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言って念を押しておられる。
だから、ペトロは天の国の鍵を授けられていることを誇ることはできない。主イエスは、ペトロの信仰を指して教会の土台、岩と言われたのであり、その信仰を与えたのは神なのである。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」とあるが、18:18では「あなたがたが地上でつなぐことは…」とあり、いわゆる「鍵の権能」は個人のものではなく教会のものであることが分かる。地上で福音を伝え、罪の赦しを宣言し、洗礼を授けることは、まさに神と人間を「つなぐ」ことである。この尊い業を、恐れ多くもわたしたちがなすことができるのは、神がわたしたちに信仰を与え、その岩の上に教会を建ててくださったからに他ならない。わたしたちが自らの権威に頼るとき、教会は倒れる。教会の頭は主イエスであり、わたしたちはその肢(えだ)である。主の権威により頼み、伝道をしていきたい。
2023年3月19日
詩編 145:4 マタイによる福音書 16:1-12
「悪いパン種に注意しなさい」 牧師 永瀨克彦
ファリサイ派とサドカイ派の人々は、結託して主イエスにメシアである目に見える証拠を見せるように要求した。しかし、主イエスは十字架と復活というしるし以外は与えられないと言われた。
ファリサイ派とサドカイ派という普段激しく対立する両者が主イエスを陥れる目的で一致している姿は、神の存在すらも認めてやるのは自分であるという驕りが、特定の立場だけでなく、全ての罪人に共通するものであることを示している。
十字架と復活のしるしは、ファリサイ派とサドカイ派が要求したような目に見える証拠ではない。むしろ、信仰が無い人から見れば十字架は弱さのしるしであり、やはりメシアではなかったことを示す証拠ですらあるだろう。また、復活は信仰によって初めて受け入れられるものである。つまり主イエスは、目で見て信じるのではなく、見ないでも信仰によって信じなさいと言っておられるのである。
実は見ずに信じるところに恵みがある。神が約束を与え、その約束を人間が神の言葉によって信じるところに、神との豊かな関係がある。この神との関係こそ、救いそのものである。永遠の命とは、この神との関係が永遠に奪われないことである。反対に、仮に証拠を見たならば信じるのは当たり前であり、そこに神との信頼関係も喜びも何もない。わたしたちには、目に見える証拠などよりもずっと素晴らしいものが与えられている。それは御言葉である。信頼する神の言葉を信じて待つ。そこに真の喜びがある。
2023年3月12日
イザヤ書 2:2-3 マタイによる福音書 15:29-39
「全ての民に及ぶ憐れみ」 牧師 永瀨克彦
主イエスは言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」。主イエスは七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えて裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちが群衆に配ると、四千人が満腹した。
ここを読んで、「実際には七つのパンで四千人が満腹することはあり得ないから、何かの比喩だろう」とか、「イエスに感銘を受けた群衆が持っていたものを分け合ったのだ」と解釈してもあまり意味はないだろう。ただ奇跡を奇跡として受け止めるときに初めて、主イエスが神の子、メシアであるという福音を受け取ることができる。
しかし、主イエスはただご自身の神性を示すためだけにこの奇跡を行われたのではない。奇跡のための奇跡ではなく、主イエスは群衆を憐れに思い、養うために奇跡を行われたのである。わたしたちにとっても、十字架と復活の救いは、ただ奇跡が行われたというだけでなく神の愛である。
直前の「カナンの女の信仰」の箇所では、主イエスは「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」ことが明言されていた。それにも関わらず、主イエスはカナンの女性の娘をいやし、この箇所では異邦人の群れをかわいそうに思い、養われる。つまり、主イエスはその憐れみにより、天の父からの使命に反し、異邦人を救ってしまわれるのである。この神の深い御憐れみにより、本来救いから遠い異邦人であり罪人であるわたしたちは救っていただけたのである。
2023年3月5日
イザヤ書 52:10 マタイによる福音書 15:21-28
「分不相応な恵み」 牧師 永瀨克彦
カナンの女性、つまり異邦人の女性が主イエスの前に進み出て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、主イエスは何もお答えにならなかった。その後も主イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と言って、彼女を退けようとされた。しかし、彼女が、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言うと、主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とお答えになった。そのとき、娘の病気はいやされた。
主イエスの態度はあまりにも冷たいのではないかと思われるかもしれない。しかし、わたしたちはまず、神は救いたいと思うものを自由に救う権限を持っておられることを、畏れをもって認めなければならない。そして、わたしは本来救っていただけるようなものではなく、罪人であるということを、やはり謙遜をもって認めなければならない。それが、女性が「主よ、ごもっともです」と言ったことなのである。 その上で、それでもわたしを憐れんでくださいと女性は願った。この謙遜と大胆さの両方を見習いたい。神は、本来救いから遠い罪人を、憐れみをもって救ってくださる。自分の力により頼むのではなく、この女性のように、ただ主の憐れみを粘り強く願い求める者となりたい。
2023年2月26日
詩編 50:14 マタイによる福音書 14:34-15:20
「心から出るものが人を汚す」 牧師 永瀨克彦
ファリサイ派の人々は主イエスに言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」。彼らは、口から汚れが入ることを恐れていたのである。しかし、主イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すのである」。また、弟子たちに言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪行などは、心から出てくるからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」。
そもそも、手から汚れが入ることを恐れたことがない現代人からすれば、前半で言われていることはあまりピンと来ず、心から出るものが人を汚すという部分にばかり目がいってしまうかもしれない。よって、この箇所は心に悪意を抱くだけで人は汚れ裁かれるという、非常に厳しい箇所と思われるかもしれない。しかし、主イエスは、口から入るものは人を汚さないという良き知らせを伝えてくださっているのである。それは、心が神に向いていれば、誤って汚れに触れてしまっても汚れることはないということである。もし、口から入ったものが人を汚すなら、いくら心から主を畏れていても、出された食物が汚れていたら、自分の信仰とは関係なしに汚されてしまうことになる。そんなことを恐れて生きる生活はなんとも窮屈で不自由なものに違いない。しかし、キリスト者は余計なことを恐れる必要がなく、ただ心が主に背くことを恐れ、自由に主に応える生活を送ることができるのである。
2023年2月19日
ヨブ記 9:8 マタイによる福音書 14:22-33
「安心しなさい」 牧師 永瀨克彦
弟子たちは、主イエスが湖上を歩いておられるのを見て「幽霊だ」と言い、恐怖のあまり叫び声をあげた。「大の大人が何を言っているのだ」とおかしく思うかもしれないが、弟子たちは一晩中、暗闇の中で波に悩まされ、おびえきっていたのである。その弟子たちを主イエスは助けに来てくださった。そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。単に幽霊ではないから安心しなさいということではなく、弟子たちは暗闇の中でも波の中でも、はじめから恐れる必要などなかったのである。
ペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と頼んだ。波が猛っていようと、主が共におられるなら恐れはないと分かったのである。主イエスが「来なさい」と言われると、しばらく水の上を歩き主に近づくことができたが、強い風に気がつくと怖くなり、沈みかけてしまった。主イエスはすぐに手を伸ばし、ペトロを引き上げられた。
風が吹いたから沈んだのではない、風に気づいたから沈んだのである。つまり、風はずっと吹いていたが、主が共におられることを覚えている間は、ペトロは大丈夫だったのである。 わたしたちは、いつも安心していることができる。風が無いからではない。暗闇の中でも風の中でも、主が共におられるから安心して歩を進めることができるのである。
2023年2月12日
エゼキエル書 34:13-14 マタイによる福音書 14:1-21
「五千人の供食」 牧師 永瀨克彦
弟子たちは群衆を帰らせようとした。とてもではないが五千人分の食べ物は無かったからである。しかし、主イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。弟子たちが「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と答えると、主イエスをそれを手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちがそのパンを群衆に与えると、すべての人が満腹した。
神はわたしたちを養ってくださる。ただパンだけではなく、神の言葉によって日々生かしてくださる。そして、それを人々に与えるために用いていただける。わたしたちが持つものは、弟子たちのパンと魚のようにごくわずかでも、主はそれを豊かに祝福し大いに用いてくださる。 「五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹することなどありえない」と言って、「これは、イエスの教えに感銘を受けた人々が鞄から食べ物を取り出して分け合ったのだ。少しずつでも皆で分ければ全員が満たされるのだ」と説明する人もいる。しかし、この個所はそのような、単に助け合いの大切さを説くような小さなものではない。主イエスは奇跡を行われたのである。それは、主イエスが神の子であり、このお方が十字架と復活によってわたしたちの罪を贖われたということをわたしたちに示す。奇跡を奇跡として正面から受け止めなければ、この恵みは決して味わえない。助け合いの大切さは、偉人や学校からも学ぶことができる。教会にしか語れない福音を、ただの道徳の話に引き下げてしまうとは、何ともったいないことだろうか。
2023年2月5日
出エジプト記 20:4 マタイによる福音書 13:53-58
「神のイメージを勝手に作らない」 牧師 永瀨克彦
主イエスは故郷のナザレにお帰りになった。会堂で主イエスがお教えになられると、人々はその知恵に驚いた。しかし、同時に「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか」と言って主イエスにつまずいた。
人々の心中には、「素晴らしい教えに聞こえるが、この間まで近所で大工をしていた人が、高名な学者のような言葉を語れるはずがない。やはりどこかが間違っているのではないか」、「ナザレから何か良いものが出るはずがない」という疑いがあったのではないか。人々は「イエスが語るのであれば、この範囲に収まる言葉であるはずだ」という枠をあらかじめ決めてしまっているのである。
わたしたちも、「神の言葉とはこういうものであるべきだ」と決めつけてしまうことがあるのではないだろうか。薬局で薬を買うように、こういう言葉が聞きたいんだと言って御言葉を聞く時、その枠を超えた御言葉は聞こえなくなってしまう。しかし、御言葉はわたしたちの要求や想像をはるかに超えて、上から語られる神の言葉である。時には耳が痛い言葉、悔い改めに導く言葉もある。しかし、それは、わたしたち以上にわたしたちの必要を知っていてくださる神の言葉である。自分が御言葉を規定するのではなく、御言葉に聴き従い、自らが変えられるとき、わたしたちに真の喜びがある。
2023年1月29日
箴言 2:1-5 マタイによる福音書 13:44-52
「宝を見つけた人は」 牧師 永瀨克彦
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。
畑に宝が隠されていることを知り、そのまま隠しておく人のような気持を、わたしたちは味わっているだろうか。「この宝は絶対に手に入れたい。他の人に取られるなんて考えられない。どうか他の人に見つかりませんように」そこまでの執着を見せているだろうか。神に従って生きることができる。この恵みは、本当はそれほどまでに奪われたくない恵みなのである。
そして、実際には、この恵みはこのたとえのように隠す必要はない。取り合う必要はない。主イエスは全ての人間の罪を背負って十字架にかかってくださったからである。そして、罪の奴隷から解放し、自由に神に従うことができるようにしてくださった。 これほどまでに自分のものにしたい喜び、取られたくない喜びが、わたしたち皆に与えられている。この恵みが、このたとえほどに大きな喜びなのだということを忘れないようにしたい。何に代えてでも、絶対に手に入れたい。その、神に従って生きるという大きな恵みがわたしたちは既に与えられているのである。
2023年1月22日
詩編 126:6 マタイによる福音書 13:24-43
「毒麦のたとえ」 牧師 永瀨克彦
主イエスは毒麦のたとえを話された。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。僕たちが主人に「行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。借り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう」と答えた。
わたしたちの周りには多くの罪がある。戦争や病など、理不尽に思えることがある。また、罪はわたしたちの内側にもある。そうした罪を見ていると、神は存在しないと感じる人も多いだろう。神がいるならこのような悪を放っておくはずがない。また、放っておくならそんな神は善ではないと思うかもしれない。しかし、神は終わりの日にそれらをまとめて焼くために、今はそれらをそのままにしておられる。罪の世でも、わたしたちは主の御支配を信じ安心して良いのである。 毒麦は若い頃は麦そっくりだが、収穫のころには黒ずみ、選別が容易になる。また、毒麦は根が強いので麦まで一緒に抜けてしまう恐れがある。そのため、収穫の時まで待ち、それからまとめて焼くのが毒麦の正しい対処法である。わたしたちは罪が存在することに焦り、自分で対処しようとするべきではない。収穫前に麦と毒麦は似ているため、間違えてしまうかもしれない。また、その判断は正しくても、麦を巻き添えにしてしまうかもしれない。正しく裁くことができるのは神だけである。わたしたちは、罪の現実に焦ることなく、主の御支配を信じ、安心して主の裁きを待つ者となりたい。
2023年1月15日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 13:18-23
「御言葉を聞いて悟る人」 牧師 永瀨克彦
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれた者を奪い取る。道端に蒔かれたものとはこういう人である」。
御言葉を聞いて喜んでいても、それがその人の血となり肉となっていなければ、いつの間にか悪い者が来て奪い去られてしまう。しかし、御言葉が深くその人に根付いていれば、持ち去ることはできない。主イエスは、聞くことと、聞いて悟ることを区別される。わたしたちは、御言葉を頭で理解するだけではなく、御言葉によって変えられなければならないのである。
「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」。
熱しやすく冷めやすい。これは、自分が変えられることなく、御言葉を自分の願望に沿って理解し喜んでいたというような場合だろう。だから初めは熱烈に喜ぶが、やがて自分の期待通りではないと分かると急に冷めるのである。しかし、御言葉によって変えられた者は、自らの十字架を背負って主の後を歩み始める。
単に御言葉を聞いて納得し、「そういうことか、良く分かりました」と言って喜ぶのが真の喜びなのではない。御言葉によって変えられ、実際に主と共に生きる新しい生き方を始めるところに、真の喜びがあるのである。
2023年1月8日
詩編 119:97-105 マタイによる福音書 13:10-17
「聞くことができる幸い」 牧師 永瀨克彦
「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と聞く弟子たちに対して、主イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」とお答えになった。これは驚くべき答えである。群衆には悟ることが許されていないから、たとえを用いて、あえて分からなくさせたと主イエスは言われるのである。
普通たとえとは、相手が理解できるように用いるものである。しかし、主イエスは相手を分からなくさせるためにたとえをお用いになる。なぜそんな意地悪なことをされるのかと思うかもしれない。しかし、ここには、神の国の秘密は、神の側からの啓示によらなければ、決して人間には理解することができないという厳粛な事実が書かれているのである。
福音は、たとえ最高峰の頭脳を持った人が、最高の方法で聖書を研究しても、神の許しが無ければ理解することはできない。しかし、わたしたちは、最高の頭脳を持っているわけではないかもしれないが、神の許しによって、主イエス・キリストの十字架と復活による救いについて余すことなく知らされており、それを理解し、信じることができていることを感謝したい。 わたしたちには、福音を知ることが許されている。聞く耳が与えられている。だから、しっかりと御言葉を聞いて、それを受け入れる者となりたい。
2023年1月1日
サムエル記上 1:20-28 ルカによる福音書 2:21-40
「神殿での奉献」 牧師 永瀨克彦
ヨセフとマリアが幼子の主イエスを神殿で主に献げたとき、ザカリアは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。
一体、この言葉のどこが祝福だというのか。しかし、シメオンは確かにこれを祝福として語るのである。
主イエスはわたしたちの反対を受け、わたしたちの心にある思い、罪のために十字架につけられた。それは、母の心を刺し貫いた。そして、それこそがわたしたちの救い、祝福となった。
主イエスの前に人々は起きもすれば倒れもする。主イエスの福音は悔い改めを必要とするからである。主イエスが十字架で死なれたのは、まことにこのわたしの罪のためであったと認めるとき初めて、わたしたちはその罪の赦しを知ることができる。だから、福音は人間にそのままでいることを許さず、聞く者を二分する。それが、倒される者もいるという厳しさであり、悔い改めなければならないという厳しさである。しかし、この厳しさの中にこそ真の慰めがある。わたしたちは悔い改めることができる。そして、罪の赦しの福音を聞くことができるのである。
2022年12月25日
ミカ書 5:1-3 ルカによる福音書 2:1-20
「大きな喜び」 牧師 永瀨克彦
主イエスは生まれると飼い葉桶に寝かされた。宿屋には家族が泊まる場所が無かったからである。このことは、主イエスが神の子でありながら、身を低くし、人間に仕える者となってくださったことを意味する。主イエスは人間に奉仕をするために来てくださった。つまり、十字架にかかって全ての人間の罪を贖うために生まれてくださったのである。
世間では、クリスマスはイエスの誕生日であり、クリスチャンは皆イエスの誕生日をお祝いするために教会に集まっていると思われているかもしれない。しかし、クリスマス礼拝は誕生日パーティーではない。クリスマス礼拝は、主イエスがわたしたちのために十字架にかかって死のうと決意して生まれてくださったことを感謝する礼拝である。だから、主イエスの誕生日を祝うのではなく、祝われているのはわたしたちの方である。わたしたちは、救い主が生まれてくださったことを互いに祝い合い、神に感謝をささげる。
天使は羊飼いたちに「恐れるな」と語る。羊飼いは、当時のユダヤでは罪人と見なされていた。家畜の世話で安息日を守ったり、神殿で献げ物を献げることができなかったからである。罪人が神の前に出ることは、本来恐ろしいことである。しかし、天使は「恐れるな」と告げる。罪人が罪赦され、神の前に立つことができる。神と共に生きることができる。これこそが、主イエスが生まれてくださり、十字架と復活を通してわたしたちに与えてくださった恵みなのである。
2022年12月18日
イザヤ書 11:1-10 ルカによる福音書 1:26-38
「お言葉通り成りますように 牧師 永瀨克彦
天使が「マリア、恐れることはない」と言った通り、マリアの身に起こったことは、普通であれば恐ろしくなるようなことである。婚姻前の女性が身ごもれば、姦通を犯したと判断される可能性が高い。婚約中の女性が姦淫の罪を犯した場合、石で打ち殺されなければならないことが律法で定められている。また、永遠にヤコブの家を治める王を生み育てなさいと突然命じられたわけである。これも普通であれば恐ろしいことである。
マリアも初めは恐ろしく思ったのではないだろうか。「どうして、そのよなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」という言葉には、「そんなはずはない」というだけでなく、「そうであっては困る」という気持ちも含まれているのではないか。
しかし、天使が「神にできないことは何一つない」と言うと、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と言った。マリアにも自分の計画があったはずである。思い描いた結婚準備と結婚生活があったはずである。しかし、天使が告げたことはそれらすべてを打ち壊すものである。婚約を破棄されるかもしれないし、処刑されるかもしれない。しかし、マリアは、自分の計画を捨て、神の計画が成ることを願った。ここにマリアの信仰の偉大さがある。わたしたちも、自分の計画にこだわらず、主がいつ再び来てくださっても、喜んでお迎えする者となりたい。
2022年12月11日
創世記 45:1-8 マタイによる福音書 13:1-9
「妨げられない計画」 牧師 永瀨克彦
種を蒔く人のたとえ。このたとえでは、蒔く種の大半は実を結ぶことはない。道端に落ちた種は鳥に食べられ、芽を出すことすらない。石だらけの土に落ちた種といばらの間に落ちた種は、どちらの芽を出すが、実を結ばない。
種を蒔く人は福音伝道者を指しており、実はその成果である。鳥に食べられ芽すら出ないのももちろん悲しいが、芽が出たのに実を結ばないのはもっとつらい。つまり、初めからなしのつぶてであるよりも、福音を受け入れ、教会の一員となったのに、その兄弟姉妹が躓き、教会を去る。信仰を失うということも現実に起こるのである。この場合、悲しみは一層深刻である。
わたしたちは、長年教会生活を送っていれば、そのような悲しみを実際に何度も経験する。しかし、希望を捨ててはならない。このたとえにおいて、大半の種は実を結ばないにもかかわらず、良い土地に落ちた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなる。実を結ぶ種は極一部なのに、収穫はあふれんばかりのものとなるのである。ほとんどが上手くいかないからといって、全体が失敗すると考えるのは人間の見方である。神の計画は、そうした多くの失敗や挫折によって挫かれるものではない。多くの困難にもかかわらず、神は計画を推し進めてくださり、神の国を完成させてくださるのである。
2022年12月4日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 12:46-50
「主イエスの兄弟、姉妹」 牧師 永瀨克彦
主イエスが群衆に話しておられるとき、主イエスの母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。主イエスの家族は、おそらく主イエスを連れ帰りに来たのだろう。マルコによる福音書には、主イエスの家族は、「あの男は気が変になっている」と聞いて取り押さえに来たと書いてある。一族の恥だと思ったのかもしれないし、あるいは純粋に心配して保護しようとしたのかもしれない。いずれにしても、母たちは、主イエスが語っていることを全く理解することができなかったということである。主イエスがなお話しておられるときにやって来て、説教を止めさせようとした。伝道を止めさせようとした。そのことが問題である。
主イエスは、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言われた。「何と冷たい」と思われるかもしれない。しかし、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と主イエスは言われる。御言葉の伝達を止めさせようとするのは、まさにこれと逆である。主イエスは感情的になって「あなたのことは母とも思わない」と言っているのではなく、「御心に背く者は神の子ではなく、神の独り子である自分と兄弟とは言えない」ということを言っておられるのである。主イエスは肉親を見捨てたのではなく、母と兄弟たちは後に教会の一員となっている。
この個所の主題は、肉親との決別ではなく、主イエスがわたしたちのことを家族だと言ってくださっているということである。初代教会には、信仰のために家族から切り離された人が大勢いた。しかし、主イエスがわたしたちのことを兄弟姉妹だと言ってくださる。家族からの誤解や無理解に悩むとき、わたしたちにとってもこれ以上の慰めはない。
2022年11月27日
創世記 18:1-5 マタイによる福音書 12:43-45
「主を待ち望むアドベント」 牧師 永瀨克彦
アドベントは、ただクリスマスを待つ期間ではない。また、わたしたちは救い主のお生まれを待ち望むのでもない。救い主、イエス・キリストは、二千年前に生まれてくださった。「メシアよ、どうか生まれて来て下さい」という人々の願いは、既に叶えられているのである。アドベントのとき、わたしたちは、主の降誕を待ち望んでいた人々に自らを重ね合わせつつ、終わりの日の主の来臨を待ち望むのである。
主イエスはたとえを話される。悪霊がある人から出て行き、さまよった後、「やはり我が家に戻ろう」と言って戻ってみると、空き家になっており、掃除をして整えられていた。そこで悪霊はさらにわるい七つの霊を連れて来て住み着く。そうすると、その人の状態は前より悪くなる。
イスラエルは、これまで偶像を拝み神から離れることもあった。しかし、ヨシヤ王は国中の偶像の祭壇を破壊したし、主イエスの時代の律法学者たちも、潔癖なまでに罪を遠ざけようとしている。それは、家から悪霊を追い出し、家を綺麗に片づけるようなものである。そこまでは素晴らしい。掃除をするのは、来るべき主をお迎えするためだからである。しかし、その肝心の主を拒んでしまえば、主のために用意した広い場所に誤った他の者が入り込んでしまう。待ち望んでいる主イエスを、しっかりと迎え入れることが何よりも大切である。
2022年11月13日
ヨナ書 3:1-10 マタイによる福音書 12:38-42
「主イエスの復活というしるし」 牧師 永瀨克彦
ファリサイ派の人々は、「ベルゼブル論争」で主イエスを貶めようとしたが反対に論破されてしまった。そこで、この個所では、「今ここで、あなたがメシアであるという目に見える証拠を出して見ろ」と彼らは迫っているのである。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」とは、ヨハネによる福音書で主イエスがトマスに言われた言葉であるが、今回の個所でも同じことが主題となっている。
主イエスは、預言者ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたことが、主イエスが三日目に死人の内から復活することのしるしであると言われる。ヨナの出来事が、主イエスがメシアであることのしるしである。
主イエスは、ファリサイ派の人々に応えてしるしを提示された。しかし、それは彼らが求めていたような目に見えるしるしではない。ヨナのしるしは、結局は信じるしかないものである。当時の人の誰もが知るあの物語が、実は主イエスの復活を指し示しているというのは、信じるしかないものである。主イエスは見て信じるのではなく、福音を聞いて信じるようにと招いておられるのである。 証拠によって信じさせられても、そこに神との交わりはない。しかし、神が御言葉を語ってくださり、わたしたちが、神を信頼するがゆえに神からの約束を信じるとき、神との相互の交わりがある。見て信じるのは当然であり、信仰ではない。神が愛してくださり、その神をわたしたちも信頼するから信じる。そこに恵みがある。だから、主イエスは福音を聞いて信じるように、わたしたちを招いてくださるのである。
2022年11月6日聖徒の日召天者記念礼拝
詩編 102:19 Ⅰテサロニケ 4:13-18
「いつまでも主と共にいることになる」 牧師 永瀨克彦
聖徒の日、召天者記念日礼拝をおささげすることが許され感謝である。召天者記念日礼拝は、一つには既に天に召された信仰の先達の歩みを、敬意をもって振り返るひとときであると言える。しかし、それだけではない。このときは、既に召された人も、わたしたちも、終わりの日には復活し、共に主を賛美することができるという福音によって慰められるときでもある。
パウロは言う。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。
主イエスの復活を信じるときに初めて、わたしたちは自らの復活、そして愛する人の復活を信じることができる。そのとき初めて、わたしたちには希望がある。そうでなければ、わたしたちはこの世の生活に全ての望みをかることになる。だから、復活の信仰は、キリスト教の沢山ある良い教えの内の一つというのではなく、教会が伝える福音の中核である。
わたしたちは、既に眠りについた人たちについて希望を持っている。終わりの日に再び相まみえ、共に主を礼拝し、いつまでも主と共にいるという希望である。わたしたちは、過去を懐かしむだけではなく、将来に希望を持っているのである。
2022年10月30日
イザヤ書 55:8-11 マタイによる福音書 12:33-37
「木が良ければその実も良い」 牧師 永瀨克彦
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとしなさい」と主イエスは言われる。わたしたちは、主という良い木に繋がるとき、初めて良い実を結ぶことができる。一方、罪という幹からは悪い実しか生まれない。茨をいくら丁寧に育てても、リンゴを実らせることはない。
「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」。わたしたちは、良い言葉を口にし、良い実を結ぶとき、良い木に連なる枝であることを確認することができる。そして、良い実の中心は礼拝であることを忘れてはならない。神が神として礼拝される。これ以上に本来なされなければならないことはない。そして、造り、生かし、救い、愛してくださっている神に応えて祈り、賛美する言葉、礼拝におけるわたしたちの応答はどれも麗しい、良い言葉である。わたしたちがそのように良い言葉を口にすることができるのは、神によって礼拝に招かれているからである。わたしたちは今、礼拝をささげることができている。まさに、この現実を通して、神はわたしたちが既に救われ、永遠に神のものとされていることを確証してくださっているのである。この恵みを感謝したいと思う。
礼拝という最大の良い実から押し出され、良い言葉を語っていく者となりたい。
2022年10月23日
イザヤ書 42:1-3 マタイによる福音書 12:22-32
「神の国は来ている」 牧師 永瀨克彦
主イエスは、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われた。聖霊が働いているとき、そこに神の国は来ている。もちろん、神の国の完成は将来の出来事である。しかし、聖霊が働くとき、終わりの日に実現するはずの神の支配、神との全き交わりが先んじて与えられるのである。
教会がまさにそうである。ペンテコステの日、聖霊が降り教会が生まれた。教会の中において、神との全き交わりが実現している。礼拝がそうである。神が御言葉を語ってくださり、わたしたちがそれを感謝し、賛美している。これは豊かな交わりである。こういうわけで、教会の中では、天の国の恵みが先に与えられている。つまり、天の国は既に来ているのである。
そして、この事実は、将来の神の国の完成が確実であることを保証することでもある。なぜなら、今既に実現しているものは、将来完成することが確実であるからである。つまり、わたしたち教会は、将来神の国が来るということが間違いないということを世に向かって証しする存在である。教会は、世の人々が神の支配の完成に希望を持てるようになるための兆しとなることができる。
今教会の中で実現している、この神との豊かな交わりが世に広まり、遂には完成することを確信して世に伝える者となりたい
2022年10月16日
イザヤ書 42:1-3 マタイによる福音書 12:15-21
「裏通りに届く福音」 牧師 永瀨克彦
主イエスは皆の病気をいやし、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、人々がいやしそれ自体をもてはやさないようにするためである。人々がいやしを目的に集まり、ただいやしのみを喜んで帰っていくのでは仕方がない。主イエスを見出し、そのことを喜ばなければならないのである。わたしたちにとっても、いやしはそれ自体が目的ではなく、主イエスが救い主であることを指し示すためにあることを忘れてはならない。
また、沈黙命令はユダヤ人ではなく異邦人が福音を受け入れるという預言が実現するためでもあった。「彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」。主イエスは、異邦人が福音を聞くために、ユダヤ人が主イエスの評判を聞かないようにされるのである。
ユダヤ人は選ばれた神の民であり、大通りを歩く者であった。一方、異邦人には、神を知る可能性すら与えられていなかった。わたしたち異邦人は隅に追いやられ、路地裏で肩をすぼめて生きる者であった。しかし、主イエスはその異邦人に御声が届くようにしてくださったのである。主イエスの十字架は全ての人間の罪を背負うものであった。
主イエスは全ての人間に語り掛け、招いてくださっている。その招きに応える者となりたい。
2022年10月9日
申命記 6:5 マタイによる福音書 12:1-14
「律法の完成」 牧師 永瀨克彦
ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたことを批判した。他人の麦を食べることがいけないのではない。律法では、空腹を覚える者が隣人の麦畑に入って食べることが許されている。神は人間が飢えることのないように配慮してくださるのである。だから、ファリサイ派の人々が批判しているのは、弟子たちが安息日に労働したという点である。
しかし、安息日を守るのは、十戒が書かれている出エジプト記20章を見ると、主が六日の間に天地を創り、七日目に休まれたからである。つまり、安息日には、神こそが天地の造り主であることを覚えることが重要なのであり、ただ単に休めと命令されているから労働すると裁かれるという話ではないのである。このように、律法には、神がそれをお与えになった目的があるはずである。しかし、ファリサイ派の人々はそれを忘れ、律法を守ること自体が目的になってしまった。律法は主に従うためにある。律法全体は、主を愛することと、隣人を愛することに基づいているからである。
主イエスは、弟子たちの行為は罪にならないと言われた。また、会堂で安息日に手の萎えた人をいやされた。いずれの場合も、主イエスは形式的には律法を破ってでも、人間を生かそうとされたのである。それは、律法を軽んずるのではなく、むしろ真の意味で律法を行うことであった。神は独り子を犠牲にしてでも人間を生かそうとされるお方であり、律法は神の御心に従うためにあるものだからである。人間の命とは、ただ肉体が生きることではない。主に立ち返り、主と共に生きることである。文字面にとらわれ過ぎず、主に応えることで、真に律法を重んじる者となりたい。
2022年10月2日
詩編 1:1-6 マタイによる福音書 11:20-30
「休ませてあげよう」 牧師 永瀨克彦
主イエスは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町に、終わりの日に裁きが下されることを宣告された。主イエスがそれらの町で奇跡を行われたのに、悔い改めなかったからである。
なんて厳しいのだと思われるかもしれない。そんなことを言わずに、全ての町を救ってあげればいいじゃないか、信じる者しか救わないというのは酷いのではないか、信じない者も全て救えばいいではないか、と。しかし、そうした意見は、救いを誤解している。聖書が語る救いとは、神に立ち返り、神と共に生きることができることなのである。だから、それらの町が悔い改めなければ救われないというのは、実は当然のことなのである。そして、主イエスは、それらの悪い町々に出向き、奇跡を行い、悔い改めへと招かれた。そのことが重要である。主のもとに行く資格が無いものなどいない。悪い者こそ、主のもとへ招かれているのである。
主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。そして、わたしたちは主イエスと同じ軛(くびき)を負う。主が隣で、共に荷を負ってくださる。「わたしにはそうする資格がありません」などと言う必要はない。主は正しくない者をこそ、悔い改めへと招いてくださっているからである。正しくあることができず、疲れたわたしたちは、主イエスのもとに行って休むことができるのである。
2022年9月25日
マラキ書 3:19-24 マタイによる福音書 11:1-19
「主の到来に備える」 牧師 永瀨克彦
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。これは当時のわらべ歌である。前段は、結婚式の祝うべきときに、祝ってくれなかったという意味である。主イエスはなぜこの歌を持ち出されるのか。それは、人々が、神が行ってくださることに対して無反応だからである。今や、待望のメシアが到来し、祝うべきときなのに、人々は祝わない。そして、自らの救い主が死んでしまう、その十字架のときに、人々は悲しまないどころか、「十字架につけろ」と騒ぎ立てるのである。
また、断食し、悔い改めるべき時代には、人々はヨハネの断食を馬鹿にし、一方で主イエスが来られた祝宴の時代には、人々は主イエスの飲み食いを非難する。これも先ほどと同じで、人々は神がなさることに応じて自分の在り方を変える気がないのである。
しかし、断食のときは終わった。今や祝宴のときが開始している。なぜなら、主イエスは復活し、わたしたちが永遠に神との交わりに生きることができるようにしてくださったからである。時代が変わったのだから、わたしたちは振る舞いを変えなければならない。いや、変えることができる。悲しみ顔を伏せる者だったのが、今や、既に救われていることを喜び祝う生き方を送ることが許されているのである。
2022年9月18日
ミカ書 7:1-7 マタイによる福音書 10:26-42
「剣をもたらすために来た」 牧師 永瀨克彦
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」この主イエスの言葉を聞いて、わたしたちは驚くに違いない。主イエスは平和のために来てくださったのではないのか。人間が剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。そのために主イエスは来てくださったのではないのか。しかし、主イエスは間違いなく、平和ではなく、剣をもたらすために来たと言われるのである。ただ、それは、戦争をしなさい、殺し合いなさい、憎み合いなさいと言っておられるのではない。そうではなく、たとえ、愛する家族から切り離されても、捨てられそうになっても、それでも主に対する忠誠を貫きなさいと主イエスは言っておられる。わたしたちは、主イエスを捨てて家族を取るような者になってはいけないのである。
信仰のために家族から疎外されるということは、特に初代教会の人にとっては当たり前であった。彼らはイスラエルから離脱したと見なされたからである。しかし、そのような者に対して、主イエスご自身が兄弟であると語ってくださる(12:49-50)。今日の個所は、積極的に家族との対立を勧める個所ではなく、信仰のために親族と疎遠になった者に対する慰めである。それは主に従うという正しい行いの故なのである。そして、主に従う先にこそ、神の愛によってまことに家族を愛する道があるのではないか。
2022年9月11日
エレミヤ書 1:4-10 マタイによる福音書 10:16-25
「話すのは父の霊である」 牧師 永瀨克彦
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。(…)人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」。
人々を警戒しなければならないとは、何とも悲しいことではないか。それよりも、「人を信頼しなさい」と言う方が、温かみのある、主イエスらしい言葉だと思うかもしれない。また、道徳的に優れた教えだと思うかもしれない。しかし、これは、人を信頼してはいけないとか、疑心暗鬼にならなければならないということではない。
福音を伝えるということは、悔い改め、神に立ち返るよう導くことである。主と共に生きるという真の喜びに至るまでに、必ず自らの罪を認める苦しみがある。また、主に従うことは、神を神とし、自分が神のように振舞うことを止めることである。自分のために神を利用するのではなく、神のために自分が合わせなければならない。それは大変なことである。だから、福音を伝えるとき、そこに敵意が生じる。
人々を警戒しなければならないとは、相手が自分を鞭打つ存在であることを忘れてはならないということであり、それはつまり、相手は福音を伝える対象であることを忘れてはならないということなのである。伝道者は必ず反発を受けるからである。迫害を恐れて伝道を止め、信仰を捨てるようなことがあってはならない。人と仲良くするために主を捨てては本末転倒である。迫害を恐れず語り続けなければならない。しかし、心配してはならない。話すのはあなたがたではなく父の霊である、と主は言われる。
2022年9月4日
出エジプト記 3:10-12 マタイによる福音書 10:1-15
「主の権能によって働く」 牧師 永瀨克彦
主イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになり、その後で「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言って派遣された。伝道するために必要なものを、主イエスはあらかじめ与えてくださっているのである。
十二人の使徒は、伝道するにふさわしかったから選ばれたわけではない。もし、わたしたち人間が、選りすぐりの十二人を選ぶなら、知識の豊富な人や人望が厚い者、人格的に優れた人を選抜するだろう。しかし、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは漁師であり、聖書の知識が豊富なわけではなかった。マタイは徴税人であり、人々からは軽蔑されていた。熱心党のシモンが属する熱心党は極右政党だった。そして、イスカリオテのユダは主イエスを裏切ることになる人物である。彼らは伝道する力を備えているから出かけるのではない。欠けがあるにも関わらず、主が力を与えてくださるから出て行くのである。
「足の埃を払い落とす」とは、責任が自分に降りかかることはないことのしるし。わたしたちは、福音を伝えたならば責任は既に果たしている。信仰をお与えになるのは神である。それを忘れ、自分の力で何とかしなければならない、信じさせなければならないと思ってはならない。わたしたちは、自分の力ではなく、主の権能によって働くのである。