これまでの説教から

2022年1月9日
申命記 31:1-8 マタイによる福音書 2:13-23

                        「約束の実現」   牧師 永瀨克彦

 マタイはこの個所で、神の言葉が実現したということを三度繰り返し、強調している。神は約束を必ず果たしてくださるということをここから知ることができる。そのことによって、わたしたちは、将来わたしたちに与えられている約束も必ず実現するということを確信することができる。過去の恵みを思い起こすことと、将来の希望を確信することはセットなのである。

 キリスト教信仰は、常に将来を待ち望むものである。過去と現在だけでなく、将来という視点を持つことが大事である。確かに、現在の恵みに比べて、将来主イエスが再び来てくださり、御支配を完成してくださるという約束は分かりにくいかもしれない。しかし、わたしたちは日頃から主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」と祈っている。そして、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈り、今天の国で御心が全て行われているように、地上でも御心が全て行われるようにしてくださいと願っている。これは、天の国を地上にまで拡大してください、完成させてくださいと言っているに他ならない。このように主の再臨を待ち望む信仰は、キリスト教信仰の中核をなすものなのである。

 「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11:1の引用である。この出エジプトを語った、過去と現在に関係している言葉は、実は未来にも開かれているということを、マタイは明らかにしている。この言葉は、メシアの到来を預言する希望の言葉でもあったのだ。過去の恵みから、神は必ず約束を実現させてくださることを思い起こし、将来の救いの完成を確信をもって待ち望むものとなりたい。

2022年1月2日
創世記 18:1-8 マタイによる福音書 2:1-12

                       「救い主を迎える」   牧師 永瀨克彦

 東方の占星術の学者たちは、主の星を見てエルサレムにやって来た。東方というのはペルシア等の異国であり、彼らは異邦人であった。そして、占星術とはユダヤでは忌むべき異教の習慣である。つまり、神はそのような悪しきものさえ用いて彼らを導いてくださった。異邦人である彼らが主に出会うにはそうするしかなかったのである。主の救いが全ての民に与えられているということ、そして、そのために主はあらゆる手を尽くしてくださるということがここから分かる。

 異邦人たちが主を拝んだ一方、ユダヤ人の王であるヘロデ、そして神殿の祭司たちは主を拒んだ。彼らは不安を抱いたと書かれている。それは、神が新しい時代を創始してくださることを嫌い、現状維持を望んだということである。彼らは自分の地位にしがみつこうとした。神の意志を拒み、自分の願いに従ったのである。しかし、主の救いは、古いものに死に、新しい命を生きるところにその喜びがある。わたしたちの洗礼もそうである。

 わたしたちは、自分の中にもヘロデと同じ心があることを認めるまでは、彼を笑うことはできない。わたしたちが主を拒んだから、主イエスは十字架にかからなければならなかったのである。しかし、そのような、主から離れていたわたしたちを、神は悪しきものさえ利用して学者たちを導いたような熱意をもって招いてくださったのである。

2021年12月19日 クリスマス特別礼拝
イザヤ書 7:14 マタイによる福音書 1:18-25

                  「イエス・キリストの誕生」   牧師 永瀨克彦

 「イエス」とは「主は救い」という意味であり、珍しい名前ではなかった。しかし、そのありふれた名前に天使が与えた意味は全く新しいものであった。主イエスは「罪からの救い」なのである。

 このお方によって、わたしたちは初めて主が共にいてくださる恵みを喜ぶことができるようになった。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(1:23)。

 これは、イザヤ書からの引用であり、イザヤがアハズ王に告げた言葉である。実はそれは裁きの言葉であった。イザヤは、主に頼ることを拒んだアハズに対して先の言葉を告げたのである。神が共におられ、アハズの不信仰は明らかにされるだろう。そして、アッシリアの支配の下、ユダ王国の上には臨んだことのないような暗い日々が臨むのである。

 このように、主イエスが来てくださる以前、神が共におられることは裁きに他ならなかった。罪人は、正しい神の前に立つとき、立ち続けることはできないからである。例えば、アダムも神が歩く音を聞いて隠れなければならなかった。神が共にいてくださるという恵みが裁きになってしまう。これほどの悲劇はない。

 しかし、主イエスはわたしたちを罪から救ってくださった。そのとき初めて、わたしたちは神が共にいてくださる恵みを、恵みとして味わうことができるようになった。今や、わたしたちは神が共にいてくださることを喜ぶことができる。それが罪からの救い主、主イエス・キリストが与えてくださった恵みなのである。救い主のご降誕に心より感謝したい。

2021年12月12日
ミカ書 2:12-13 マタイによる福音書 1:1-17

                  「すべての民のまことの王」   牧師 永瀨克彦

 聖書には多くの系図が出て来るが、わたしたちにはそれがあまり重要なもとのとは思えないことが多いかもしれない。しかし、マタイはその系図を福音書の冒頭という非情に重要な個所に持って来ている。マタイはこの系図を通してメッセージを語ろうという強い意志を持っているのである。

 それは、主イエス・キリストはアブラハムの子でありダビデの子であるということである。主イエスはダビデの王位を継ぐ正当な王なのである。神は主イエスを、ダビデの系図の中で生まれさせられた。それは、主イエスのご支配の正当性を民にも分かる形で示してくださったということである。

 主イエスこそは、ユダヤ人たち自身が待ち望んできた自らの王である。だから、ユダヤ人たちは異邦人が主イエスを受け入れて喜んでいる間に、他の方向を向いてぼんやりしている場合ではない。「このお方は他ならぬあなたがたの王なのだ」。それがマタイのメッセージである。

 このように、主イエスは紛れもなくユダヤ人としてお生まれになったユダヤ人の王である。しかし、それにも関わらず、主イエスは異邦人の王でもある。マタイはこの系図を通してそのことをも語っている。ラハブとルツとは、異邦人の女性である。しかも、ラハブは娼婦であった。ダビデ王家の純粋性を示すためなら、彼女たちの名前を省くことは簡単であるが、マタイは意図があって異邦人の女性の名前を記す。主の救いの計画には昔から異邦人も含まれているのである。つまり、「これはあなたの救いだ」というメッセージはわたしたち自身にも向けられている。世間では、クリスマスはイエスという人の誕生祝いだと思われているかもしれないが、実際にはそのような他人事ではなく、わたしたちの救い主がお生まれくださった、わたしたちのお祝いなのである。

2021年12月5日
マラキ書 3:1 ローマの信徒への手紙 16:1-27

                 「神は間もなく悪を打ち砕かれる」   牧師 永瀨克彦

 このローマの信徒への手紙の締めくくりの部分は、神が隠されてきた福音をすべての異邦人に知らせてくださったという祝福の言葉で締めくくられている。神はイスラエルに異邦人を加えてくださり、ユダヤ人と異邦人を和解させ一つとしてくださったのである。そして、実はこれはこの手紙の冒頭で語られていたことでもある。つまり、はじめと結びで語られ、この手紙を貫いている福音は、一致であり主の平和なのである。

 平和とは、単に人間同士に争いが無いことではない。神は独り子を犠牲にして神と人間との間に和解をもたらしてくださった。この神と人との平和が全ての源である。人は神と和解するからこそ、キリストを頭とする一つの体とされ、人同士和解することができるのである。神との平和を抜きに人との平和を考えることはできない。

 1-16節でパウロは誰々によろしくと何度も繰り返しているが、これは平和の挨拶をしなさいということである。つまり、シャローム、主の平和についてあなたがたは聞いたのだから早速実践しなさいということである。

 そうすると、一見ただの挨拶にしか見えない1-16節が17節以下と繋がっていることがわかる。17節以下では主の平和を保ち、不和をもたらす人々を警戒しなさいということが語られる。そして20節で、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」と言われる。

 この個所は主の再臨を待ち望むアドベントに読むのにふさわしい。わたしたちは既に主の平和にあずかっているが、まだその平和を妨げようとする勢力が残っており、わたしたちは苦しめられている。しかし、既に勝利しておられる主は、終わりの日に再び来られ残存する悪を打ち砕いてくださる。だから、この苦しみはずっと続くものではない。それがパウロが語っている福音である。主のご降誕を思い起こし、再臨を確信するアドベントとしたい。

2021年11月28日
詩編 102:19 ローマの信徒への手紙 15:22-33

                     「一つのキリストの体」   牧師 永瀨克彦

 パウロは全く驚くべきことに、三つの旅行の計画を通して「一致」について語っている。これはただの依頼ではなく、福音なのである。

 パウロは今ギリシアにいるが、ローマに行く前に一度エルサレムに行かなければならない。それは、ギリシアの諸教会からの献金を届けるためである。しかし、なぜそんな遠回りをして、ましてや命の危険を冒してまでエルサレムに行かなければならないのだろうか。エルサレムには、パウロを殺すまでは決して飲み食いしないと誓ったような輩が大勢いるのである。ユダヤ人からみればパウロは裏切り者であった。それならば、誰か他の者に献金を託して送り届けてもらえばよいのではないか。死ぬかもしれないと分かっていながら、パウロが自ら行かなければならない理由は何なのか。それは、異邦人とユダヤ人を和解させるためなのである。

 この献金には、単に支えるという以上の意味がある。エルサレムのユダヤ人キリスト者たちは、この献金を受け取るとき、ギリシアの異邦人キリスト者たちを兄弟として認めることになるのだ。異邦人が上の立場から、一方的に支えてあげるというのではない。異邦人はユダヤ人たちの霊的なものにあずかったのである。つまり、これは、互いの欠けを補い合うということである。彼らは今や、一つのキリストの体とされている。

 このことが明らかにすることは、教会の中に二級の民は存在しないということであり、神の愛から漏れる者は一人もいないということである。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。「一人も滅びないで」とある通り、この愛はわたしたち一人一人に間違いなく向けられたものなのである。

2021年11月14日
イザヤ書 10:1-4 ローマの信徒への手紙 15:14-21

「神の民の一致」   牧師 永瀨克彦

 「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」(15節)とパウロは言う。人間は変化を嫌うものではないだろうか。だから、人間は変化を求める御言葉を拒むかもしれないし、「そのままでいい」という意味に勝手に変換することもあるかもしれない。しかし、パウロが言っているように、御言葉は確かにわたしたちの記憶を新たにする。人間が御言葉を変えるのではなく、御言葉が人間を変えるのである。

 神が人間に従うのではなく、人間が神に従う。パウロは自分のことを、異邦人を神に喜ばれる供え物として献げる祭司だと自称する。異邦人が供え物とはどういう意味だろうか。それは、神が異邦人を求めておられるということである。救いは、異邦人が願って、自分で勝ち得たものではない。何よりもまず、神が異邦人をお求めになった。だからこそ、異邦人は神に応えることができたのである。人間はつい、人間を中心に考えてしまう。しかし実際には、神が中心となり救いを成しとげてくださったのである。

 神が異邦人を求めておられる。だから、教会は伝道をしなければならない。信仰を個人的なもの、自分の心の中の問題と考えていては伝道する意味はわからない。人間を中心に据えていては伝道する意味はわからない。神が中心であることを思い出して初めて、その神が求めておられる伝道に自分が従事するのだということが分かるのである。

2021年11月7日
詩編 146:6-10 ローマの信徒への手紙 15:7-13

「希望の源である神」   牧師 永瀨克彦

 神は「忍耐と慰めの源」である。わたしたち人間は、神の子を十字架につけて殺すような主に背く存在であった。そうした存在は、裁きを受けて滅ぼされるのが本来自然なことである。にもかかわらず、主イエスは人間のために十字架にかかり復活してくださった。それは、人間の背きを忍耐し慰めを与えてくださったということである。この主を源としてのみ、わたしたちは兄弟に対して忍耐し慰めることができる。自分の心の強さによって忍耐しようとするなら必ず失敗する。わたしたちはまず、自分自身に与えられた主イエスの赦しを知らなければならないのである。

 神はまた「希望の源」である。希望とは民の一致である。将来全ての民が心を合わせ声をそろえて神を礼拝する日が来る。この希望は神の約束に基づいている。神はアブラハムに、すべての民が彼によって祝福に入ることを約束された(創12:1-3)。アブラハムの子孫、ユダヤ人だけの祝福が約束なのではない。異邦人が救われることが、実はユダヤ人にとっても待ち望んできた約束だったのである。彼ら自身が忘れていたとしてもである。

 この希望は、「忍耐・慰め」と繋がっている。わたしたちが互いに忍耐し慰め合うとき、そこに平和、一致が生まれる。そして、世界全体から見ればまだ一部ではあっても、教会の中に確かに一致が存在するからこそ、わたしたちは将来の一致を確信し待ち望むことができるのである。わたしたちは異なる者同士でありながら共に礼拝をささげている。そのことに慣れてしまい当然のことのように思うこともあるかもしれないが、神によらなければこのようなことはできない。この今の奇跡を確かに見つめるときに初めて、わたしたちは将来に確信を持つことができるのである。

2021年10月31日
イザヤ書 11:1-10 ローマの信徒への手紙 15:1-6

「キリストに倣う」   牧師 永瀨克彦

 この手紙は、ローマの教会にスペイン伝道への協力を要請するにあたって、パウロが伝えている「福音」とは何かを説明するという構成になっている。パウロが何を伝えているのかを知らないことには、支える側も支援の仕様がないのである。そして、その説明はいよいよ大詰めを迎えている。このまとめの部分には特に大事なことが書かれていると思われる。

 ここで書かれていることは、すべての民が共に主を礼拝することができるということである。それこそが福音なのである。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(1節)。強い者とは、あらゆる面で信仰が優れているという意味ではない。これは肉食の議論の続きである。特定の問題で対立が生じたとき、例え自分が正しいとしても、わたしたちは相手がつまずかないよう配慮しなければならない。信仰は「自分と神」だけの問題ではないのだ。キリスト者は自分の心の中で信仰を追求して満足するのではなく、隣人を喜ばせ互いの向上に努めるべきである。なぜならば、まさに主イエスご自身がわたしたちのためにそれをしてくださったからである。

 わたしたちは一人で礼拝するのではなく、共に礼拝をささげる。そうすることで初めて、わたしたちは将来すべての被造物が主を賛美するという「希望」を持つことができる(4節)。現在与えられている「初穂」を軽んじておきながら将来の希望を信じるというのは矛盾している。今の恵みは将来の希望を指し示す。だから、わたしたちは主に倣い、心を合わせ声をそろえて神を礼拝することができるよう、聖霊の働きを祈り求めるのである(6節)。

2021年10月24日
イザヤ書 1:17-23 ローマの信徒への手紙 14:13-23

「つまずかせない」   牧師 永瀨克彦

「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」(14節)とパウロは言う。主イエスは「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。(…)人から出て来るものこそ、人を汚す。」(マルコ7:18-20)と言われる。

だから、肉や酒は、それ自体が汚れているわけではない。主のために飲み食いするならば、それは清いものである。しかし、その正論によって、それは禁じられていると信じている信仰の弱い人を非難しつまずかせるならば、そのとき肉や酒そのものではなく、私たちの心がその人を汚したことになる。また、兄弟を不和という罪に誘ったことで、私たちの心が私たち自身を汚したことになるのである。

真の恵みは、飲み食いする自由ではなく、主にある交わりである。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17節)。たかだか食物のことで言い争い、聖徒の交わりを壊すならば本末転倒である。だから、食物については自分の信仰の確信に基づいて行動すればよい。

「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」(20節)。主イエスはご自身の命を捨てて人間を救ってくださった。兄弟をつまずかせ、その主の働きを無にすることは、主に背くことである。反対に、兄弟が主に留まるように配慮することは主に仕えることになる。「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます」(18節)。一見、主が語られた正しいことに相手を従わせることこそ主に仕えることに思える。しかし、実は相手をつまずかせず、主に留まらせることの方が主に仕えることになるのである。