これまでの説教から

 

2020年7月5日
イザヤ書 41:1-4 マルコ福音書 6:45-56

「ご自身を示される主」 伝道師 永瀨克彦

 五千人の給食の奇跡の後、主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダに先に行かせた。しかし、舟は嵐に遭い、夜明けになっても湖の上で漕ぎ悩んでいた。主イエスは弟子たちを嵐に遭わせる。キリスト者は、主に従うがゆえの嵐を経験するのである。

 しかし、主イエスは弟子たちが漕ぎ悩む様子をしっかりと見ておられた。わたしたちが嵐の中にあって、主に見放されたかのように思うときも、主はしっかりと見ていてくださる。わたしたちの窮状を知っていてくださる。これは慰めである。

 主は弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、湖の上を歩いて弟子たちのそばを通り過ぎようとされた。通り過ぎるとは、神がご自身を示されるときの方法である。モーセやエリヤに対しても神は通り過ぎられた(出エジプト33:22、列王記上19:11)。つまり、主イエスは、ご自身が主であることをはっきりと示される。また、主が共にいるということを弟子たちに分からせようとされるのである。

 しかし、弟子たちは幽霊だと思い大声で叫んだ。弟子たちは、主イエスが舟に乗りこまれ、風が静まったことでようやく胸を撫でおろしたのだろう。だが、弟子たちは本当はもっと早く安心しても良かったのである。主が共におられることが示されたのは、舟に乗りこまれたときではなく、主が通り過ぎたときである。

 それは暴風のように感じられたり、幽霊のように見えるものである。しかし、信仰の目をもって見るならば、主の臨在である。わたしたちが嵐の中にいるとき、主は必ず共にいてくださる。信仰の目をもって通り過ぎてくださる主を見、安心するものでありたい。

 

2020年6月28日
列王記下 4:42-44 マルコ福音書 6:30-44

「群衆を青草の上に座らせる」 伝道師 永瀨克彦

 五千人の給食の場面。これまで見てきた通り、マルコによる福音書の前半の主題は、主イエスは神の子、救い主であるということである。その主題は8章のペトロの信仰告白の場面で頂点に達する。この五千人の給食も、そうした流れの中に置かれている。だから、この個所を単に、「飢えた人々に施したイエスは立派だ。わたしたちも施す者になろう」という風に読むことはできない。もちろんそう読むこともできるかもしれないが、それで終わってしまうべきではないだろう。この個所が最も伝えようとしていることは、このような奇跡を行うことができる主イエスは神の子だということである。

 主イエスは、人々が飢えていたから憐れに思ったのではない。そうではなく、人々が神を見失っていたから憐れまれたのである。「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」とはそういう意味である。

 主イエスは人々に、まず教えた。つまりパンより先に御言葉を与えた。主イエスは人々を青草の上に座らせるが、主イエスが人々を休ませるのは御言葉を与えることによってである。「人はパンだけで生きるものではない」と主イエスが言われた通りである。

 主イエスは、五つのパンと二匹の魚を分配するために弟子たちをお用いになる。パンを分けることは、御言葉を分けることを象徴している。わたしたちは、御言葉をいただき、憩わせていただく。そして、今度は御言葉を分け与える働き、伝道へと用いていただけるのである。

2020年6月21日
イザヤ書 40:1-11 マルコ福音書 6:14-29

「ヘロデの栄華と洗礼者ヨハネの死」 伝道師 永瀨克彦

 ヘロデ王は兄弟の妻ヘロディアを自分の妻としたこと批判されたため、洗礼者ヨハネを捕らえた。しかし、ヘロデはヨハネの言葉を聞くうちにヨハネが正しい聖なる人であることを知り、喜んで教えを聞くようになった。

 しかし、ヘロディアはヨハネを恨み、殺す機会をうかがっていた。ヘロデの誕生日の祝宴のとき、ヘロディアの娘サロメが踊りをおどり、王と客を喜ばせた。王が褒美を与えると言ったので、ヘロディアは娘に「洗礼者ヨハネの首を」と言わせた。こうしてヨハネは死んだ。

 しばらくして、人々が主イエスの噂をしているのを聞いて、ヘロデは「ヨハネが生き返ったのだ」と言った。ヨハネが死んでもなお、ヨハネが語った福音は止まらないのである。ヘロデが、ヨハネが生き返ったと誤解するほどに、御言葉は生きているのである。

 ヨハネは御言葉に従った。語るということを通して御言葉に仕えた。言は主イエスであり、言の内に命がある。ヨハネは永遠の命に連なる者である。

 ヘロデは一見、必要な物をすべて持っているように見える。彼は宮殿にすみ、宴会を楽しむ。その宴会の裏でヨハネは殺される。

 しかし、人間にとって本当に必要なものを持っているのはヨハネである。すなわち、救いであり、永遠の命である。

 わたしたちは、自分が宮殿の宴会ではなく、牢にいるように感じられるときがあるかもしれない。しかし、そのようなときも、ヨハネには慰めがあった。黙って最後を迎えたのは、ヨハネが満たされていたからではないか。わたしたちも同じである。ただ、主イエスを救い主と信じるなら、終わりの日に復活し、永遠に神のみもとで生きることができる。この、人間にとってこれ以上ない慰めがわたしたちには与えられているのである。

2020年6月14日
主イエスは十二人の使徒を派遣される。その際、主イエスは、彼らに汚れた例に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも金も持たず、下着も二枚着てはならないと命じられた。それは、彼らが、伝道の業とその実りが、主の力によるものであることを忘れないためである。

 下着を二枚着てはならないというのは、旅の間は質素な服装であれということである。それは、彼らが滞在する家の人に対してへりくだるためである。使徒たちは、福音を語るのであるが、優位に立って「語ってあげる」のではない。むしろ彼らは語ることを通して仕えるのである。一つの家に滞在し、寝食の世話になることで、彼らは自らが奉仕者であることを学ばされる。互いに仕え合う交わりの中で伝道がなされる。

 「あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」。これは、福音を伝える責任は使徒にあるが、それを受け入れるかどうかはその人の問題であり、使徒の責任ではないということである。つまり、神は、人間が自由な意思をもって信じることを待ってくださるのである。

 使徒たちは、この旅で多くの収穫を得た。それは主の権能によるものである。使徒たちは、福音書を読み進めると分かるが、多くの欠点を持つ弱い人間である。しかし、主が力を与えくださるがゆえに、立派に伝道の働きを果たすことができる。だから、わたしたちも、恐れることなく伝道に励むことができる。主はわたしたちを用い、福音を語り、実りを与えてくださる。わたしたちは、その召しに応え働くとき、ただ主の権能により頼むのである。

2020年6月7日
エゼキエル書 2:1-7 マルコ福音書 6:1-6a             

「主の業が行われる場」     伝道師 永瀨克彦

 主イエスはナザレの会堂で教えられた。人々は主イエスの知恵ある教えを聞いて驚いた。しかし、イエスが主であると受け入れることはできなかった。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」。

 主イエスが語り、奇跡を行われたのは、主イエスが救い主であると人々が知るためである。そのことによって、自分は救われると確信するためである。しかし、人々は、大工としてのイエスを知っているために、主イエス・キリストを受け入れることができなかった。

 主イエスは、ナザレでは、ごくわずかないやしをしただけで、そのほかには何も奇跡を行うことができなかった。それは、主イエスのいやす力に限界があるからではない。相手の協力がなければいやせないということではない。主イエスには、死んでいる相手さえ生き返らせることができるからである。主イエスはここで、一方的に奇跡を行うことではなく、人々が主イエスを受け入れ、主の業に参与することを求めておられたのである。しかし、それは叶わなかった。だから主イエスは去られたのである。

 主イエスは、わたしたちの間で、わたしたちを通して働いてくださる。わたしたち教会は、主の業が行われる場なのである。わたしたちは、福音を宣べ伝えてくださる主の御業に参与する。主ご自身が伝道される。そして、主は人間をそのために用いてくださる。わたしたちは、主イエスを迎え入れ、わたしたちの間で御業を行っていただけるようなわたしたち教会でありたいのである。

2020年5月31日
哀歌 3:22-33 マルコによる福音書 5:21-43             

「起きなさい」     伝道師 永瀨克彦

 ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上に降った。聖霊なる神がわたしたちの内に住んでくださるようになった。神との永遠の交わりを、わたしたちは、終わりの日に先駆けていただいている。

 神との交わりに生きるということは、神が人間を創造されたときから人間に与えられた本性である。神は父・子・聖霊なる三位一体の神にかたどって人を創造された。ご自身の内に交わりを持つ神にかたどって創造された。人間は神との交わりに生きるものである。

 主イエスは、人間と人格的な交わりを持とうとされる。出血の止まらなかった女性は、主イエスの服に触れた時点ですでにいやされていたが、主イエスは彼女をそのまま去らせはしなかった。彼女を探し出し、言葉を交わし、救いを宣言される。病が治ったことではなく、神との交わりに生き始めたということが、彼女の救いなのである。

 また、ヤイロの娘を生き返らせた後、主イエスは彼女に食べ物を与えるよう、人々に命じる。主イエスは彼女を愛している。ここでもやはり、単に生き返ったことが救いではない。

 わたしたちは、聖霊をいただき、信仰に導かれ、神との交わりを回復させていただいた。神の愛を受け、それに応えて神を愛する、また隣人を愛する。この神との永遠の交わりをいただいていることがわたしたちの救いである。

2020年5月24日
創世記 1:26-27 エフェソの信徒への手紙 2:1-10             

「善い業のために造られた」     伝道師 永瀨克彦

 ここでパウロが語っていることは、わたしたちは行いによって救われるのではない、にもかかわらず、善い行いは重要である、ということである。

善い業の大切さを説くと、自分の行いを誇る者が出てくる。善行を積んで救われようとする者が出てくる。そうした誤解を避けるため、パウロは、救いは徹頭徹尾、神の恵みと信仰によるのだということを強調する。

 その上で、善い業はやはり大切なものである。わたしたちは救われるためではなく、救われた者として善い業を行う。

 神は、前もって準備された善い業のためにわたしたちを造られた(10節)。だから、善い業とは、わたしたちが自分勝手に考える良いことではなく、神がわたしたちに求めておられることである。善い業は、人間が造られた目的そのものである。

では、善い業とは具体的に何をすることなのか。その中心は礼拝である。詩編102:19には、「後の世代のために/このことは書き記されなければならない。/『主を賛美するために民は創造された』」とある。

人間は、つい、自分を世界の中心のように考えてしまうものではないだろうか。しかし、人間のために神があるのではなく、神のために人間があることを忘れてはいけない。わたしたちは主を賛美するために造られたのである。

もちろん、社会で他人に仕える福祉や医療、教育も善い業だと思う。しかし、それらの働きはすべて礼拝から出るのだということを覚えたい。わたしたちは、主を礼拝する。そして、そこで御言葉を聴き、神が今求めておられる善い業とは何か、御心を聴く。そして、礼拝から押し出されて善い業へと出て行くのである。何よりも主日の礼拝を通して神を賛美する者となりたい。これこそ、わたしたちが成し得る善い業の中心である。

2020年5月17日

サムエル記下 12:1-17 フィリピの信徒への手紙 3:17-21             

「主に立ち返る」       伝道師 永瀨克彦

 ナタンの叱責の場面。主はナタンを通してダビデの罪を指摘される。その罪とは、バトシェバを夫ウリヤから奪い、さらにウリヤを殺した罪である。ダビデはウリヤを最前線に送った上で孤立させ、故意に戦死させて、バトシェバを妻とした。

 その罪に対する叱責と、バトシェバが生んだ男児の死亡という重い結果がここには書かれている。しかし、この物語は、罪と罰で終わるわけではない。男の子が死ぬと、ダビデは体を洗って礼拝し、王宮に戻る。そして、しばらく経って、バトシェバはソロモンを産む。つまり、ここには赦しと再生が書かれているのである。

 ダビデの略奪と殺人さえ赦される神の憐みがいかに大きいか。「ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ」とナタンが言う通り、ダビデがウリヤを殺したのである。しかし、そのような者さえ、神は赦し、新しく生きることを許してくださる。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」(詩編51:12)。ダビデの再出発は、神による新しい創造である。神が造り変えてくださるからこそ、ダビデは歩み始めることができる。

 ダビデの罪のために男の子が死ぬことは理不尽である。律法を見ても、男の子が死ななければならない理由などない。しかし、ここではその犠牲によってダビデの罪は赦されている。

 理不尽といえば、主イエス・キリストの十字架こそ、まさに理不尽である。なぜ、罪のない神の独り子が死ななければならなかったのか。しかし、この理不尽、不条理のおかげで、わたしたちは罪赦され、新しく生きることができるのである。

 ダビデの非常に重い罪さえ、神は赦される。人間のすべての罪を赦すため、神は独り子を犠牲として与えてくださったのである。わたしたちは、この赦しを、悔い改めをもって受け入れたいのである。

2020年5月10日

出エジプト記 15:1-5 マルコ福音書 5:1-20             

「主に従う者の平安」       伝道師 永瀨克彦

 主イエスに対して、「かまわないでくれ」と叫ぶこの男性、また、主イエスに「この地方から出て行ってくれ」と頼む人々。わたしたちは、こうした人々の中に、自分の姿を見る。悪霊の試みを受けるとき、自ら望んで神を遠ざけようとする。神から離れて自由に生きたい、それが自分にとっていいことだと思ってしまうことがある。しかし、主イエスによって立ち返らせていただくとき、主に従うことこそ幸いなのだと分かる。悪霊を追い出していただいた男性は、服を着て座っている。そこには、これまで無かった平安がある。自分でも気づいていない、また、否定している平安を、主イエスは来て、与えてくださる。主イエスは湖を渡って、この男性のもとに来てくださったのである。

 豚が湖に沈んだということは、悪霊を深淵に追いやったということを意味する(ルカ8:31を参照)。深淵・混沌は創造の秩序の外にあるものである。つまり、神に抵抗するものである。しかし、その深淵にまで主イエスのお力は及んでいる、主イエスの権能はすべてに及んでいるというのが、この個所が表していることである。神が今も行ってくださっている創造の業は、終わりの日に必ず完成する。

 わたしたちはそのことを信じるからこそ、今この忍耐のときも、希望を抱いていることができる。主から離れたくなる誘惑を受けるとき、主イエスは来て立ち返らせてくださる。そのとき、わたしたちは平安の内に生きることができる。

2020年5月3日
創世記 1:1-3 マルコ福音書 4:35-41             

「嵐を静める主イエス」       伝道師 永瀨克彦

 舟は嵐に遭い、転覆寸前であった。弟子たちは眠っておられた主イエスを起こすと、主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われた。すると風はやみ、凪になった。主イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われた。弟子たちは非常に恐れた。

 この嵐は、主に従ったゆえの嵐である。主イエスはゲラサ人の土地に向われる。弟子たちは異邦人のところになど行きたくないと思ったことだろう。しかし、彼らは主イエスに従う。その結果遭遇したのがこの嵐である。わたしたちもまた、主イエスに従うとき、様々な困難を味わう。洗礼さえ受ければすべてが上手くいき、悩みが無くなるのかと言えばそうではない。

 しかし、主イエスは嵐を静めてくださる。弟子たちの命を守られる。そのことによって、彼らは伝道者として働くことができる。主イエスはまた、わたしたちの心と身体を守り、伝道者として立ててくださるのである。

 主イエスの言葉に風が従うということは、主イエスが全てを支配されるお方であることを示している。言葉をもって世界を創造された神の支配が、今ここで主イエスにおいてあるのである。

 だから、弟子たちは慌てて主イエスを起こす必要はなかった。「先生、わたしたちが死にそうなのに、気づいておられないのですか」。そのように考える必要はなかった。主イエスはすべてご存知なのである。

 風を従わせる主イエスの権威を見た弟子たちは恐れて震え上がる。今、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言って単に恐れている彼らは、主イエスが神の子であるがゆえに風や湖が従ったのだと理解したとき、主イエスを畏れるようになる。

 わたしたちは主を畏れる。そして、だからこそ、主に信頼するのである。主イエスはすべてを支配するお方である。だからこそ、わたしたちの苦しみをすべて知っていてくださる。そのお方が同じ舟に、共にいてくださるのである。

2020年4月26日
エゼキエル書17:22-24 マルコ福音書4:21-34             

「聞く耳のある者は聞きなさい」   伝道師 永瀨克彦

 「ともし火」のたとえと「からし種」のたとえが表していることは、神の国は必ず明らかになるということである。神の御支配について誰もが知るようになる。すべてのものがその支配の内に入る。神の御支配は必ず完成するのである。

 ともし火は升の下や寝台の下に置くものではない。そのように隠されれば、誰もその火に気づかない。ともし火は燭台の上に置くものである。ともし火は部屋中を照らす。そのとき、その火に気付かない者はいない。

 からし種も同じである。それはどんな種よりも小さいので、道端に落ちていれば気づく人はいない。それは隠されている。しかし、育つとどんな野菜よりも大きなかん木になり、そこを通るすべての人がその存在に気づく。

 4:10以下で、主イエスは、外の人々は聞くには聞くが理解しないとおっしゃっていた。今、多くの人には神の国の秘密は隠されているのである。しかし、それは将来必ず明らかにされる。神の御支配が完成する。神はすべての人を神の国へと招いておられるのである。

 「成長する種」のたとえで、芽を出させ、実らせてくださるのは神であることが語られる。神の国の完成は人間の努力によって成し遂げられるものではない。たとえ、人間がただ寝起きしているだけだとしても、神は知らない間に穂を実らせてくださる。だから、わたしたちにはすでに実りが約束されている。わたしたちは、勝利を確信して、働くことができるのである。

 「聞く耳のある者は聞きなさい」と主イエスは言われる。厳しい言葉に見えるが、その前後には、神の国が必ず明らかにされる、完成するという約束がある。この喜ばしい知らせを聞こうとしなさいと主イエスは言われるのである。

2020年4月19日
イザヤ書 55:8-11 マルコ福音書 4:1-20             

「蒔かれた御言葉」      伝道師 永瀨克彦

 主イエスが湖のほとりで教えておられると、おびただしい群衆が集まってきた。彼らはおそらく、病のいやしを求めて集まってきたのだろう。その群衆に対して、主イエスは舟に乗って湖の上に行き、距離を空けられた。そして、「よく聞きなさい」と言って種を蒔く人のたとえを話し始められた。

 当初、群衆は「聞く者」ではなかった。それぞれの目的のために集まったのであり、主イエスが教えておられる間も、「早く話し終えていやしに来てくれないかな」などと思っていたことだろう。その人々を主イエスは変えられる。湖畔と湖上というふうに、物理的に距離を取り、人々が聞かざるを得ないようにされた。主イエスは彼らを聞く者としてくださったのである。

 後になって、弟子たちはたとえについて主イエスに尋ねた。主イエスは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち返って赦されることがない』ためである」と言われた。外の人は、御言葉を聞こうとしないので、「イエスが何やらしゃべっている」ということは分かっても、その意味を理解することはできない。しかし、あなたがたは外の人ではない。主イエスは弟子たちにそう言っておられるのである。弟子たちは御言葉を自分に語られた御言葉として聞く。そして理解して喜ぶのである。

 主イエスは湖畔の群衆に対してしたように、わたしたちを聞く者へと変えてくださる。内へと引き入れてくださる。主イエスが代わりに十字架にかかって死に、復活してくださった。わたしたちは、この福音を自分の福音として聞くのである。

2020年4月12日
創世記 22:1-18 ヨハネ福音書 20:1-18             

「なぜ泣いているのか」      伝道師 永瀨克彦

 マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていた。主イエスの遺体が盗まれたと思い込んでいたからである。泣きながら墓の中を見ると、二人の天使が見えた。天使は「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリアが「わたしの主が取り去られました」と言いながら振り向くと、主イエスが立っておられるのが見えた。主イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言われた。

 「なぜ泣いているのか」というのは、言い方を変えれば、「泣く必要はない」「泣かなくてもよい」ということである。主イエスは復活された。だから、「主イエスが死んでしまった」、「遺体が盗まれてしまった」といって泣く必要はもうないのである。

 この「なぜ泣いているのか」という言葉は、わたしたちにも語られている。主は復活された。死に勝利された。この勝利があなたがたに与えられている。だから泣く必要はない。わたしたちはその福音を聴くのである。

 わたしたちは主日ごとに礼拝を捧げ、主の復活を喜び祝う。毎週日曜日が復活の喜びに満たされている。そして、礼拝から押し出されて過ごす一週間がその喜びの内にある。つまり、わたしたちの生活は、一年、また生涯を通して、このイースターの喜びによって貫かれているのである。

 新型コロナの影響で教会に集うことができない辛さがある。しかし、わたしたちは、そのような困難の中にあっても主の復活を喜ぶことができる。「なぜ泣いているのか」と主は言われる。教会は主の復活を祝う主日礼拝を止めることはない。わたしたちは、それぞれの家庭にあっても、教会の礼拝に心を合わせ共に主日の礼拝を捧げる。主イエスが復活された、永遠の命が与えられた。この希望によって、わたしたちは困難の中を歩んでいくことができる。

2020年3月29日
イザヤ書 49:22-26 マルコ福音書 3:20-35             

「すべて赦される」      伝道師 永瀨克彦

 律法学者たちは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って主イエスを非難した。主イエスはたとえを用いて律法学者たちの間違いを正した後、「はっきり言っておく。人の子らが犯すどんな罪や冒涜の言葉も、すべて赦される、しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われた。
 律法学者たちがしたように、聖霊の働きを悪霊だと言い張ることは聖霊を冒涜することである。主イエスは聖霊によって悪霊を追い出しているのである。聖霊によってということは、つまり、それが神の御心であるということである。だから、聖霊を否定するということは、それが神の御心であることを否定するということになる。つまり、神が人間を救おうとしておられる、その事実を否定することに他ならないのである。

 だから、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない。一見厳しすぎる言葉に見えるが、それは、「赦そうとされる神の御心を拒めば赦されない」ということを言っているのである。であるから、すべてを赦すということが神の御心である。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と主イエスがおっしゃっている通りである。

 わたしたちは、聖霊を否定する必要はない。御心を御心として受け止めれば良い。神が独り子を与え、十字架にかけてくださった。それは、わたしたちを救いたいと心から望んでくださったからである。わたしたちは、この御心を否定するのではなく、感謝して受け入れたいのである。

2020年3月22日
サムエル記上 21:1-7 マルコによる福音書 2:23-3:6             

「安息日の主」      伝道師 永瀨克彦

 安息日に、弟子たちが麦の穂を摘んだとき、ファリサイ派の人々は「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言って主イエスを非難した。それに対し主イエスは、かつて祭司アヒメレクが空腹だったダビデに供えのパンを与えた例を示し、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と述べられた。

 安息日は人間のためにある。しかし、人間は好き勝手に安息日を過ごすのではない。わたしたちは、安息日に主を礼拝する。「だから、人の子は安息日の主でもある」と主イエスは言われる。主を礼拝する安息日は、人のためにある。安息日に主を礼拝し、御言葉をいただくことが、人にとってもっとも良いことなのである。

 また、主イエスは、会堂で「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言われた。そして、手の不自由な人をいやされた。主イエスは安息日に命の救いを行ってくださる。

 わたしたちは、安息日に麦を我慢して飢えて死ぬのではない。安息日は主イエスによる命の救いを聴く日である。わたしたちは、安息日に教会に集い、主を礼拝する。そして、礼拝を通して、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聴く。それは、わたしたちのために与えられた日である。

2020年3月15日
イザヤ書 58:3-12 マルコ福音書 2:13-22             

「主を迎える喜び」      伝道師 永瀨克彦

 人々は主イエスに言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。主イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。

 イスラエルは救い主を待っていた。罪を悔い改め、断食もした。その救い主が来たのに、いつまでも断食し続けるのは本来の断食ではない。それは、痩せた頬を誇り、ほめてもらうための断食である。いまや、花婿を迎えての婚宴が始まっているのである。

 イザヤ書58章にこのようにある。「そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。/葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと(…)。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。(…)飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」。断食は、ただ苦しむために悔い改めることではない。そうではなく、悔い改め、赦しにあずかり、変えられること、そこまで含めて断食なのである。

 わたしたちは、救い主である主イエスを迎えている。わたしたちはただ苦しむためではなく、主イエスによって与えていただいた救いを受け入れるために悔い改めるのである。

2020年3月8日
イザヤ書 43:18-25 マルコ福音書 2:1-12             

「あなたの罪は赦される」      伝道師 永瀨克彦

 主イエスが家の中で御言葉を語っておられると、四人の男性が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて主イエスのもとに連れて行くことができなかったので、彼らは屋根をはがし、病人を床ごとつり降ろした。主イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

 律法学者たちはこれを見て、「神を冒涜している。神おひとりの他に、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と心の中で思った。主イエスはそれを見抜き、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて床を担げ』と言うのと、どちらが易しいか」と言われた。主イエスが命じると、その人は起き上がり、床を担いで出て行った。

 このことによって示されたことは、「あなたの罪は赦される」という言葉は真実であったということである。律法学者たちは、主イエスが口先だけで「罪を赦す」と言ったのだと思った。そんなことは誰にでもできる。だから、主イエスは「起きて歩け」と言うことで、「あなたの罪は赦される」という言葉もまた、口先だけのまやかしではなく、真実なのだということを示されたのである。主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われた。

 ルターは、「わたしは洗礼を受けている」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせた。ルターも自分の罪深さに悩み不安を覚えることがあったのである。わたしたちも、自分の救いに確信が持てなくなることがあるかもしれない。そのようなとき、十字架についてくださったのは、まことに赦す権威をもつお方なのだということを思い出したい。罪の赦しは成し遂げられたのである。

2020年3月1日
列王記下 5:9-16  マルコ福音書 1:40-45             

「御心ならば」         伝道師 永瀨克彦

 重い皮膚病を患っている人が、主イエスにのところに来てひざまづいて言った。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。この男性は、主の御心にゆだねた。それに対して、主イエスは「よろしい。清くなれ」と言われた。「よろしい」とは、原語では「わたしはそれを望む」という意味の言葉である。主イエスは男性をいやすことを御心としてくださった。

 主イエスは、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言って男性を厳しく注意した。それは、いやしを求める人々が殺到し、主イエスが福音の宣教をすることができなくなるような事態になってはいけないからである。主イエスは宣教するために出て来られた(1:38)のである。しかし、結果として、男性は人々に言い広めたので、主イエスは公然と町に入れず、これ以上その町で宣教することはできなかった。

 このように、宣教することが主イエスの御心である。しかし、「御心ならば」と男性が言ったとき、主イエスは「わたしはそれを望む」と言ってくださった。主はわたしたちの祈りを聞いてくださる。ときには思い直してさえくださるのである。

 しかし、わたしたちは自分の願いを願うのではない。この男性は「御心ならば」と言った。主イエスがゲツセマネで「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(14:36)」と祈られたようにである。神は、わたしたちにとって良いものを与えてくださる。わたしたちは、その神に信頼し、御心を祈り求めるのである。わたしたちが祈るとき、神は必ず聞いてくださる。そして、御心ならば、それを与えてくださるのである。

2020年2月23日

出エジプト記 15:11-18 マルコ福音書 1:29-39             

「主に応える」         伝道師 永瀨克彦

 主イエスは、熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめをいやされた。すると、彼女は一同をもてなした。シモンのしゅうとめは、いやされるやいなや、主イエスに応えるのである。

 「もてなした」という言葉は、原語では「給仕した」という意味の言葉である。英語の聖書でも、”serve”と訳しているものが多い。「給仕」というと、女性が男性に仕えている印象を与えるので、「食事の準備」などに言い換えるべきだという意見もある。しかし、ここで「給仕した」という言葉が使われていることには意味がある。つまり、シモンのしゅうとめは、主イエスに応えて、仕える者となったのである。主イエスによって救われた者は、主に、また、隣人に仕える者とされる。男性であっても女性であってもそれは同じである。主イエスは神の子でありながら身を低くし、人間となり、十字架にかかってくださった。わたしたちは、主イエスがしてくださったように仕える者となるのである。

 朝になって、主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と言われた。主イエスが来られたのは、病をいやすためではない。そうではなく、すべての造られた者が福音を聴くためである。わたしたちは、その主イエスに仕える者とされている。罪の支配から回復させられたならば、その苦しみからいやされたならば、わたしたちは、シモンのしゅうとめがしたように、主に応えたい。「宣教する、そのためにわたしは来たのだ」と言われる主イエスに仕える者となりたいのである。

2020年2月16日

詩編 124:8 マルコ福音書  1:21-28             

「権威ある者」         伝道師 永瀨克彦

 主イエスが権威ある者としてお教えになったので、人々は非常に驚いた。そのとき、汚れた霊が叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。・・・正体は分かっている。神の聖者だ」。主イエスは「黙れ。この人から出て行け」と叱り、汚れた霊を追い出した。主イエスが言葉だけで汚れた霊を追い出したので、人々は「権威ある新しい教えだ」と言って、皆驚いた。

 「権威ある者として」「神の聖者」「権威ある教え」。記者マルコは、主イエスが権威あるお方であることを強調する。主イエスは権威ある方、神の子なのである。

 悪霊の追い出し、病のいやし、死者の復活。聖書には多くの奇跡が登場する。わたしたちは、ときにそれらを自分の理解できる範囲まで押し下げたいと思うかもしれない。いやしや復活も、何か他の事を伝えるための誇張や隠喩なのだと思いたくなる、そのような誘惑がある。実際に「イエスは立派な思想家だったが、神ではなく、革命に失敗して処刑された人間なのだ。復活も無かった」と主張する人もいる。そう考えるとき、聖書はずっと理解しやすい書物に思えるだろう。

 しかし、実際には、神はわたしたちが理解に苦しむような奇跡を行ってくださった。すなわち、独り子を十字架につけ、復活させることによって、すべての人間の罪を贖ってくださったのである。この理解を超えた大いなる恵みを、神は語り、信じさせてくださるのである。マルコは、主イエスが権威ある方であることを強調する。それは、まことに神の独り子が、わたしたちの罪を担って代わりに死に、復活をしてくださったということなのである。

2020年2月9日

創世記 12:1-4 マルコ福音書 1:16-20             

「わたしについて来なさい」   伝道師 永瀨克彦

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。そう言われると、シモンとアンデレはすぐに網を捨てて従った。ヤコブとヨハネも、主イエスに呼ばれると、父と舟を残して主イエスについて行った。不思議な個所である。なぜ彼らはすぐに主に従ったのか。彼らは、主イエスが偉大なお方だとあらかじめ知っていたわけではない(マルコ福音書においては、シモンのしゅうとめのいやしは、この出来事の後である)。彼らは、突然目の前に現れ呼びかける主イエスに迷わず従う。彼らが従うのは、ただ、主イエスが呼ばれるからなのである。まさに、網にかかり、否応なく舟に引き上げられる魚のように、彼らは主によって捉えられ、召し出されるのである。

 しかし、同時に、彼らは自分の意志で主に従う。「すぐに網を捨て」という言葉は、シモンとアンデレが喜んで主に従ったことを示している。いまや彼らは網や舟を捨てても惜しくないと思っている。だからためらわないのである。

 そして、今度は彼らが人間をとる漁師とされる。主イエスは四人だけではなく、すべての人間を救おうとされるのである。そのために彼らをお用いになる。

 わたしたちは、主によって捉えられ、引き上げられる。舟に引き上げられると、魚は死んでしまう。わたしたちはまさに、古いものに死に、主イエスが与えてくださった永遠の命に生きるものとされる。そして、他の人々が主イエスの福音を聞くために働くものとされるのである。

 主イエスはわたしたちに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と呼びかけてくださる。弟子たちは喜んで従った。わたしたちも喜んで応える者でありたい。

2020年2月2日

イザヤ書 12:1-6  マルコ福音書 1:12-15             

「時は満ち、神の国は近づいた」   伝道師 永瀨克彦

 14節には、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え」たと書かれている。ヨハネの時代が終わり、主イエスのときが来た。つまり、準備のときが終わり、救い主を迎え入れるときが来たということである。ヨハネは、人々にメシアを受け入れる準備をさせるという役目を十分に果たした。そして、主イエスが来られた。そのことによって、ヨハネが働くべき時代、人間が備える時代が終わったのである。

 つまり、もはやゆっくりと準備をしている時間はない。人々は今決めるのである。主イエスを救い主として受け入れるかどうかを。だから、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスのお言葉には、緊張感がある。時は満ちた、状況は差し迫っているのである。

 悔い改めよ、とはどういう意味だろうか。反省しなさい、十分反省したら許してあげる、ということだろうか。そうではない。主イエスは既に十字架と復活により、赦しを成し遂げてくださっているのである。しかし、それを受け入れるには悔い改めなければ無理である。自分は赦しを必要としていると知って初めて、主の十字架が自分のためであったのだと認めることができるのである。「あなたはすでに赦された。この赦しをあなたの赦しとして受け取りなさい」ということ、これが悔い改めなさいということの意味である。

 福音は喜ばしい知らせ、”good news”である。それが語られるとき、わたしたちは、自らの内に受け入れるかどうかという決断を迫られる。後回しにすることはできない。主イエスは既に救いを成し遂げてくださったからである。わたしたちは、この知らせを自分にもたらされた良き知らせとして、喜んで受け入れたい。それは事実その通りのものなのである。

2020年1月26日

イザヤ書 40:9-11 マルコ福音書 1:1-11             

「妨げられない福音」     伝道師 永瀨克彦

 神の子イエス・キリストの福音の初め、この言葉には、主イエスが誰であるのかを示す言葉が二つ含まれている。つまり、主イエスはキリストであり、神の子なのである。このキリストが神の子であるということが重要である。

 なぜ、主イエスがキリスト、つまり救い主でありうるのかと言えば、それは主イエスが神の子だからである。ただ、神が独り子を送ってくださり、その血が流されたことによってのみ、すべての人間の罪が贖われたのである。もしその人が神の子でなかったなら、その十字架に人間を罪から贖う力はない。その場合、イエスはキリストではありえない。マルコが一息に「イエスはキリストであり、キリストは神の子である」と言っていることには意味がある。主イエスがキリストであるということと、神の子であるということは、切り離すことができないのである。

 主イエスはヨハネから洗礼をお受けになった。罪のない主イエスは、本来悔い改めの洗礼を受ける必要はない。しかし、主イエスは罪人たちの列に加わってくださった。それは、主イエスが神の子でありながら罪人と同じ者にまで身を低くしてくださったということである。主イエスは人間の罪を担って十字架に着いてくださる。その罪を担うということを、主イエスはここから始めてくださっているのである。

 父なる神は「天を裂いて」、「あなたはわたしの愛する子」と語られる。神と人間との間にある断絶を神は裂いて介入してきてくださる。そして、独り子を遣わしてくださる。マルコが「福音の初め」と言っているように、救い主が表れてくださったということは、それ自体既に喜ばしい知らせである。人々は、ヨハネの洗礼を受けてメシアを迎える準備をした。わたしたちも、神の子イエス・キリストの福音を喜んで受け入れる者でありたい。

2020年1月19日
ヨブ記 42:1-6 使徒言行録 28:11-31             

「妨げられない福音」     伝道師 永瀨克彦

 使徒言行録の講解を始めたときに申し上げた通り、使徒行伝は聖霊行伝である。単に使徒の言動の記録なのではなく、使徒たちを、また教会を用いる聖霊の働きが使徒言行録を通して書かれている。そして、聖霊が働かれるからには、福音が広まることを妨げることはできない。使徒言行録28章を読むとそのことがよくわかる。

 パウロはローマで「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(31節)。全く自由に何の妨げもなくとはどういうことだろうか。パウロが捕らわれていることがまるで嘘であるかのようだ。パウロは確かに捕らえられている。しかし、それが伝道の助けになることこそあれど、妨げになることはないのである。ユダヤ人たちがどれだけ熱心にパウロを迫害しても、福音を止めることはできない。聖霊はそうした妨害に対し、全く自由に働かれるのである。

 使徒言行録は、パウロの最後を描いていない。それは、使徒言行録がパウロの伝記ではなく、聖霊による教会の働きを記した書物だからである。つまり、この物語はパウロが死んで終わったのではない。教会の働きは今日まで続いているのである。

 聖霊は全く自由に働き続けてくださっている。使徒言行録の時代と何も変わることはなく、今日の教会の上に働かれる。であるから、わたしたちの伝道もまた、たとえ困難にぶつかったとしても、それによって妨げられることはない。主イエス・キリストが宣べ伝えられることを、何ものも止めることはできないのである。

2020年1月12日
ダニエル書 6:19-29 使徒言行録 27:13-44                
「嵐の中の食事」     伝道師 永瀨克彦

 パウロたちが乗る船は、エウラキロンと呼ばれる暴風に襲われ、漂流してしまった。何日も嵐が続き、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。しかし、パウロは言う「あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち、だれ一人として命を失う者はないのです」。パウロは「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」という神の言葉を聞いた。だから、パウロは今、必ず神がローマまでの道を守られると信じ、心から安心している。

 十四日目の夜に、パウロはパンを裂いた。嵐が去ったからではない。なお激しい波に襲われている。彼らは嵐の中で、しかし、感謝して食事をするのである。

 わたしたちは、週の歩みを過ごし、すべてが順調で、心に余裕があるときにだけ教会に来て礼拝をするのではない。むしろ悩みを抱えることの方が多いかもしれない。しかし、そのような中で、わたしたちは日曜日に教会に集い、心を静めて礼拝をすることができる。嵐の中で、安心して命のパンをいただくことができる。聖餐にあずかり、御言葉を聴くことができるのである。

 パウロと同じように、わたしたちも、「あなたは主を力強く証ししなければならない」という御言葉を聴く。神がわたしたちを選び、用いようとされる。だから、わたしたちはどんな嵐に襲われようとも、波にのまれて沈んでしまうことは決してないのである。

 わたしたちは、上手くいっているときにしか喜べないのではない。どのようなときでもわたしたちを守り、役目を全うさせてくださる神に信頼し、安心していることができる。嵐の中で主を賛美することができるのである。

2020年1月5日
イザヤ書 42:6-7 使徒言行録 26:12-32                
「あなたを救い出し遣わす」     伝道師 永瀨克彦

 パウロは、アグリッパ王に自分の回心を語る。キリスト者を迫害しにダマスコへ向かう途中、天からの光に照らされ、主イエスと出会ったあの出来事である。パウロは回心を語るのであるが、それは同時に召命を語ることでもある。主イエスはパウロに「わたしがあなたに現れたのは・・・あなたを奉仕者、また証人にするためである」と語られた。主イエスは、パウロにご自身を示し、信仰を与えると同時に、奉仕者として召し出す。

 このように、回心と召命は切り離すことができない。神がわたしたちを求め、見つけ出し、信仰を与えてくださるのである。だから、回心は人間だけの喜びではない。神が喜んでくださる。信仰の喜びは、救われたという喜びであると同時に、神が用いようとしてくださり、それに応えることができるという喜びである。パウロを見ているとそのことが分かる。

 パウロは一見不幸になったようにさえ見える。ファリサイ派のエリートであった彼は、キリスト者となり、迫害を受ける者となった。そして、今も鎖でつながれながらアグリッパ王に弁明している。しかし、パウロは、「わたしのようになってくださることを神に祈ります」と語る。主イエスによって罪赦された喜びをあなたがたにも知ってほしいとパウロは言うのである。

 パウロが味わっている喜びは、まさに今縛り上げられている苦しみよりもはるかに大きい。神は私たちを切に求め、召してくださる。わたしたちはそれにお応えすることができる。苦難に勝る喜びがわたしたちには与えられているのである。

2019年12月29日
詩編 103:14-19 使徒言行録 23:12-35                
「すべてを支配される主」    伝道師 永瀨克彦

 ユダヤ人たちの一部は、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は四十人以上であった。千人隊長がパウロを最高法院に連れて行く道中を襲い殺す算段であった。この企てをパウロの姉妹の子が耳にし、パウロに知らせた。パウロは姉妹の子を通して千人隊長にこの陰謀を伝え、祭司長たちの言いなりになって最高法院に移送しないでほしい、道中を狙っているから、と頼んだ。

 パウロは今死ぬわけにはいかないのである。それは、ローマに行かなければならないからである。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない(23:11)」との言葉をパウロは受けている。エルサレムとローマでのパウロの活動は、三回に及ぶ伝道旅行に比べれば重要でないように思えるかもしれない。しかし、その数年間は、ただ捕らえられ裁判を受けただけの無駄な時間ではない。神が証しをさせるために、パウロをエルサレム、そしてローマに遣わしたのである。

 だから、パウロは今、単に命乞いをしているのではない。神の御心が行われるために嘆願しているのである。

 千人隊長はこれを受け、四百七十の兵をつけて、パウロをカイサリアへと護送することを決めた。それは、一つには、さっさと総督のもとにパウロを送ってしまい、暴動が起きた場合の責任を回避したいという理由からである。そして、もう一つは、ローマ市民であるパウロを保護したという手柄が欲しかったからである。

 このようにして、パウロは最も安全な仕方でローマへと移された。パウロを護送されたのは神である。ローマの軍隊さえ、そして、千人隊長の利己的な思いさえ、神は用いることがおできになる。神はすべてを支配される。あらゆるものを益と変え、御心を実現してくださる。わたしたちはそれを待つことができるのである。

2019年12月22日
イザヤ書 60:6-12 ヨハネ福音書 1:1-14   
「神の身分でありながら」    伝道師 永瀨克彦

 ヨハネによる福音書の冒頭の部分は、もしかすると、何やら抽象的で観念的なもののように思われるかもしれない。わたしたちと関係のない、天の上の話だと思われるかもしれない。しかし、そうではない。主イエスが来てくださったことによって、わたしたちに変化がもたらされたという、極めて現実的なことがここには書かれている。主イエスは、わたしたちが住む現実の中に生まれて来てくださったのである。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」とある。主イエスを信じるということ、神の子となるということ、それは、新しく生まれるということなのである。言が来てくださるということによって、わたしたちの現実に変化が起きている。

 「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」。そして、「わたしたちはその栄光を見た」。主イエスは神の子でありながら、わたしたちの間に来てくださった。そして、今も闇の中で輝いていてくださる(5節)。言を受け入れた人を通して、わたしたちは主の栄光を見るのである。

 あなたの罪は赦されたという福音を、わたしたちは聴く。この福音は、自分とは関係のない天上の話なのではない。主イエスは来てくださり、わたしたちの内に住まわせてほしいと言ってくださるのである。わたしたちがこの福音を自分の福音として聴いて喜ぶとき、わたしたちの内に主の光が輝く。その光は今も輝いており、世を照らす光なのである。

2019年12月15日

イザヤ書 40:1-11 ヨハネ福音書 1:19-28

                「待ち続けた主を迎える」    伝道師 永瀨克彦

 洗礼者ヨハネは、自分のことを「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と言った。救い主を受け入れなかった世界はまさに荒れ野である。暗闇は光を理解しなかった、とヨハネによる福音書1:5に書かれている通りである。ヨハネは荒れ野で叫び、世が光を受け入れるように訴えている。

1:15によれば、ヨハネは、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と言った。先におられたというのは、初めからおられたという意味である。初めに言があった。そして万物は言によって成ったのである。つまり、後から来られる方、主イエスは神であるとヨハネは言っているのである。

まことの神がこの世に来てくださった。神の子イエス・キリストがわたしたちの罪を担い代わりに死んでくださり、復活してくださった。これこそがわたしたちの福音である。もし、このイエスという人が神でなかったならば、その十字架がどうして、わたしたちにとって福音でありうるだろうか。すべての人間の罪を償うために、どうして一人の人間の血が流されるだけで事足りるだろうか。ただ、イエスという立派な人間が、良い教訓を教え広め、そして、死んだ、これではわたしたちにとって何の福音にもならないのである。

わたしたち、すべての人間の罪は、神の独り子の血をもってしか償い得なかった。神はそのために独り子を差し出してくださった。これが神の愛なのである。

2019年12月8日

詩編 16:10-11 使徒言行録 22:22-23:11

                「復活を望みとし」    伝道師 永瀨克彦

 パウロは「わたしは生まれながらのファリサイ派です」と語る。パウロはファリサイ派のユダヤ人であり、キリスト者である。それは矛盾することではなく、むしろ一直線につながっているものである。ファリサイ派は復活を信じ、待ち望んでいた。その彼らが待ち望んだものの成就が主イエスの復活であり、また、それによって約束されるわたしたちの復活なのである。

 であるから、ファリサイ派であるなら、いや、ファリサイ派であるからこそ、本来は主イエスの復活を真っ先に信じ、喜ぶべきなのである。パウロは同じファリサイ派として、主イエスの復活による希望を伝えようとする。

 パウロがローマ市民であることが明かされる場面は、逆転である。市民権を金で買った千人隊長より、縛り上げられていたパウロの方がかえって優れた者であったのである。聖書に記されている最も鮮やかな逆転は、主イエスの十字と復活によって死が打ち滅ぼされたことである。病、争い、災害、そして、それらが行きつく死は、人間を支配し続ける最も強力な力に見えた。しかし、主イエスはその死に勝利してくださった。

 わたしたちは恐怖から解放された。それは、何を経験しようとも最後には死に引き渡されて神から見放されて終わるのだ、という恐怖である。わたしたちは、終わりの日に復活にあずかり、神との永遠の交わりに生きることができる。その約束が確かであることは、主イエスの復活によって示されている。

 だから、復活こそがわたしたちにとって最大の希望である。主を待ち望むアドヴェントを過ごすこのとき、わたしたちは、終わりの日に再び来てくださる主イエスを待ち望む者でありたい。

2019年12月1日

詩 編 32:8-11 使徒言行録 22:1-21

                「主に従う幸い」    伝道師 永瀨克彦

 パウロは、自らを拘束し暴行を加え、殺そうとまでしたユダヤ人たちに対し、階段の上から弁明をする。それは、自分の罪を軽くするための方便などではない。パウロは兄弟に主イエスを伝えようとしているのである。

 パウロは「兄弟であり父である皆さん」と言って語り始める。パウロ自身ユダヤ人なのである。パウロは自らを「ユダヤ人だった」とは言わない。「わたしはキリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です」と言うのである。

 パウロは他の神を信じるようになったわけでは決してない。イスラエルの神が主イエスをお与えくださったのであって、パウロは今もイスラエルの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じている。それは当然のことである。

 だから、パウロはユダヤ人であり、キリスト者である。パウロは同じユダヤ人として、兄弟に、神の御心を知ってほしいと訴えているのである。

 パウロは自分の回心について話す。ここでは光が強調されている。それは、真昼であったにも関わらず、太陽の光を凌ぐ強い光であった。そして、同行していた人も光を目撃した。それらは9章では触れられていなかったことである。パウロは主イエスによって罪から贖われた。まさに、闇から光へと立ち返らされたのである。この回心の証しは、光に照らされた喜びに満ちている。パウロはこの喜びに、兄弟である皆さんもあずかってほしいと願っているのである。

 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ福音書1:9)。主イエスによって照らされた喜びを、わたしたちもまた、いただいている。

2019年11月17日
 出エジプト記 20:20 使徒言行録 21:17-26

                「主に仕えるためにある伝統」    伝道師 永瀨克彦

 ここには、改革者であると同時に、誰よりも伝統に忠実なパウロの姿がある。それは矛盾することではない。改革するということは、伝統の正しい意味を取り戻すということでもあるのである。

 ある人々は、パウロが「割礼を施すなと言って、モーセから離れるように教えている」と批判した。しかし、これは濡れ衣である。パウロは割礼を施す必要はないと言ったのであって施してはならないとは言っていない。人は信仰によって義とされる。アブラハムもまた、その信仰によって義と認められ、そのしるしとして割礼を受けたのである。つまり、割礼によってではなく、信仰によって義とされると信じるパウロの方こそ、実は律法に忠実な者なのである。だから、パウロは決してモーセから離れてはいない。

 パウロは清めの儀式を受けてほしいと頼むヤコブの要求を甘んじて受ける。それは、パウロが律法に従う者であることを示すためである。

 このように、改革者たちは実は伝統に忠実である。宗教改革もまた、新しい教えを造り出したというようなものでは決してない。ルターが訴えたのは「聖書のみ」であり、「信仰義認」である。思い出し立ち返ることこそ改革である。

 わたしたちには立ち返るべき確かなものが与えられている。教会と同じように、わたしたちも御言葉に立ち返ることによって日々新たにしていただけるのである。

2019年11月10日

箴 言 1:1-7 使徒言行録 21:1-16

「御心が行われますように」    伝道師 永瀨克彦

 仲間たちは、エルサレムに上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。しかし、パウロは「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られるばかりか、死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と答えた。これを聞いた仲間たちは、「主の御心が行われますように」と言って口をつぐんだ。

 この言葉は、主イエスのゲツセマネの祈りを思い出させるものである。主イエスは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と祈られた。祈り終えた後、主イエスは十字架への道を歩まれた。これは祈りが聞かれなかったということだろうか。そうではない。父なる神は、御心を行うということをもって祈りにお応えになる。

 「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ11:9)と主イエスは言われる。それは、何でも願う物を神が与えてくださるという意味ではない。そうではなく、神がわたしたちのために与えようとしてくださるものを、わたしたちは求めるのである。神はわたしたちに本当に必要なものを用意してくださるからである。

 パウロは、今、エルサレムに行くことが御心であると確信している。だからこそ、そこで待ち受ける苦難もまた、無意味なことではないとパウロは確信するのである。

 わたしたちが祈りを通して与えられる恵みは、苦しみに遭わなくて済むようになることではない。この苦しみさえも神には用いることがおできになるのだと信じられることである。そして、実際に神は苦難をも栄光に変えてくださる。神は十字架さえ、命を与える道具として用いてくださったのである。

2019年11月3日

イザヤ書 35:5-10 使徒言行録 20:17-38

「決められた道を走りとおし」   伝道師 永瀨克彦

 パウロはミレトスで、エフェソの長老たちに説教をする。パウロは、彼らに会うのはこれが最後だと分かっている。いわば、これは告別説教である。

 最後にパウロが伝えたかったこと、それはパウロの姿そのものである。パウロはこれからエルサレムに行き、そこで捕らえられる。しかし、パウロは恐れない。それは、パウロが神から決められた道を走っていると確信しているからである。主イエスを伝えるためであるならば、パウロは喜んでエルサレムに行く。主の道を歩む自らの姿をパウロは見てほしいと思ったのである。そして、パウロは、自分に倣うように彼らに勧める。

 「わたしに倣いなさい」というのは傲慢なように見えるかもしれないがそうではない。パウロは、わたしの真似をして、そのことによって主イエスに仕えなさいということを言っているのである。

 信仰者の姿は、信仰を伝えるための大きな力である。わたしたちは今日、永眠者記念礼拝を捧げている。生前、お父様やお母様から、直接言葉で信仰について説き明かされた経験はもしかすると多くはないかもしれない。しかし、わたしたちはやはり、その姿、信仰を持って生きる姿勢を通して伝道を受けていたのである。

 わたしたちは、先達たちが守られた信仰を受け継ぐものでありたい。そして、先達たちから受けたように、自らの姿を通して主イエスを指し示し、信仰を伝える者となりたい。

2019年10月27日

列王記上 17:17-24 使徒言行録 20:1-12

「大いなる慰め」   伝道師 永瀨克彦

 この世のただ中にあって主イエスを伝えていく教会の歩みは戦いでもある。教会は励ましと慰めを必要としている。そして、それらは確かに与えられる。

 パウロは三年間滞在したエフェソを発つに際して、弟子たちを集め、励ました。そして、ギリシアに行く途中も、マケドニアで言葉を尽くして人々を励ました。

 パウロもまた、励ましを受ける者である。コリントの信徒への手紙二に書かれているが、パウロはギリシアに向かう途中、コリントから戻ってきたテトスを通して、コリント教会が悔い改めたという知らせを聞いたのである。コリント教会はエルサレム教会からの推薦状を片手に乗り込んできたユダヤ人キリスト者によって混乱に陥っていた。推薦状を持たないパウロは異端であると言うのである。そしてついにパウロの来訪を拒むようになった。エフェソにいる間パウロはこのことで悩んでいた。しかし、今、その心配が無くなったという知らせをパウロは聞く。コリント教会は主イエスのもとに立ち返った。パウロは大いに慰められた。

 トロアスで、パウロはエウティコを生き返らせる。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。わたしたちにとって復活は慰めである。エウティコの復活は、主イエスが死に勝利されたという事実をわたしたちに思い出させる。死ほどわたしたちを恐れさせ、動揺させ、神から離れさせようとする大きな力はない。しかし、それさえも、もはや恐れる必要はない。つまり、死に勝利された復活の主を信じるならば、わたしたちは死だけでなく、すべてのものを恐れる必要はないのである。わたしたちはこの大いなる慰めをいただいている。だからこそ、伝道へと出て行くことができるのである。