これまでの説教から

 

2019年10月6日

イザヤ書 43:8-15 使徒言行録 19:11-20

              「主の名をあがめる」   伝道師 永瀨克彦

 エフェソで、神はパウロの手を通して奇跡を行われた。パウロが手ぬぐいを病人に当てると、病気は癒され、悪霊は出て行った。ユダヤの祈祷師たちはこれを見て、神を自分たちに従わせようとする。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言って、彼らは悪霊を追い出そうとした。試しに主イエスの名を使ってみて、利用できるようなら、自分たちの地位を一層高められると考えたのである。しかし、パウロは主の名を使う者ではなく、主に仕える者である。祈祷師たちは根本的なところで思い違いをしているのである。

 結局、悪霊は「イエスのことは知っている」「だが、いったいお前たちは何者だ」と言って彼らを酷い目に遭わせた。悪霊の方がかえって主イエスを知っている。悪霊は主イエスを恐れているからである。

 この出来事が広まり、人々は主イエスの名をあがめるようになった。御名を軽々しく使うのではなくあがめるようになったのである。そして、魔術を行っていた祈祷師たちは、持っていた本を皆の前で焼き捨てた。それは銀貨五万枚に値する量であった。当時の書物は手書きの写本であったので非常に高価だった。それを彼らはためらわずに焼いた。それはもう必要ないからである。主の名をあがめ、主に仕える者となるとき、わたしたちには、高価な書物の山もかすんで見えるほどの大きな喜びが与えられているのである。

 

2019年9月29日

詩編 51:1-19 使徒言行録 18:18-19:10
「聖霊を受ける」   伝道師 永瀨克彦
 アポロという雄弁家がエフェソに来た。彼は主イエスについて熱心に語っていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。そこで、パウロと共にエフェソに来て、その後も滞在していたプリスキラとアキラは、アポロを招待し、もっと正確に神の道を説明した。
 しばらくして、第三回伝道旅行に出たパウロは、再びエフェソを訪れた。そこでパウロは何人かに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えた。彼らもやはりヨハネの洗礼しか知らなかったのである。そこでパウロは、主イエスの名によって洗礼を授けた。
 ヨハネの洗礼は主イエスの名による洗礼に備えるための、悔い改めの洗礼である。それは良い備えであるが、あくまで準備であって目的ではない。
 ここで、人々は洗礼を二回受けている。しかし、わたしたちは二度洗礼を受けなければならないのではない。大切なのは誰の名によって洗礼を受けるかである。わたしたちは主イエスの名によって洗礼を受けるならばそれで十分なのである。
 主イエスが十字架と復活によって成し遂げてくださった救いを受け入れ、自分のものにする、ただ一度の主イエスの名による洗礼を受けるならば、わたしたちは、二度と救われる以前の状態に戻ることはない。わたしたちは永遠に、赦されたものとして神のみもとに憩うことができる。だから、わたしたちは再び不安に陥る必要は何もないのである。

2019年9月22日

創世記 28:10-22 使徒言行録 18:1-17

「わたしがあなたと共にいる」   伝道師 永瀨克彦

 パウロは、コリントでアキラとプリスキラという夫婦に出会った。パウロは二人と職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで一緒に仕事をした。その仕事はテント職人であった。

 それはコリントの教会に負担をかけないようにというパウロの配慮であった。パウロは御言葉を語り働いたが、その報酬は受け取らなかった。シラスとテモテが合流してからは、彼らから必要なものを受け取り、コリント教会からは受けなかった。アンティオキア教会から派遣されたパウロが生まれて間もないコリント教会を支える。そして成長したコリント教会は後にエルサレム教会を支えることになる(Ⅱコリント9章)。教会は互いに仕え合う者の群れである。

 パウロが主イエスを証ししていると、ユダヤ人たちは反抗し、パウロをののしった。パウロは「わたしは異邦人の方へ行く」と言ってそこを去った。しかし、パウロはユダヤ人を見限ったわけではなく、ユダヤの会堂の隣で異邦人に向けて伝道をし続けた。その結果、会堂長クリスポの家族が信仰に入った。

 パウロ自身ユダヤ人であり、これまでユダヤの会堂を優先して伝道をしてきた。ユダヤ人たちとの対立はパウロにとって挫折であり、悲しみであったに違いない。しかし、神は「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」と言われる。この言葉があるから、パウロは1年6か月そこで働くことができた。いつまた暴動が起こるかもしれない状況でも、パウロは雄々しく語り続けることができたのである。共にいると約束してくださり、その約束を必ず果たしてくださる神に信頼し、わたしたちは伝道することができるのである。

2019年9月15日

詩編 50:1-7 使徒言行録 17:16-34

「主の復活による確証」    伝道師 永瀨克彦

 パウロはアテネでいたるところに偶像があるのを見て憤慨した。そこでパウロは広場に出て、あらゆる人々と議論をした。パウロは憤慨した後、軽蔑して拒絶するのではなく、真の神を伝えようとした。人々は真の神を知らないが、何かをあがめたいという思いを持っている。それは彼らが「知られざる神に」と書かれた祭壇まで造っていたことから分かる。人々は主を求めている。だからパウロは主を伝えるために必死に働く。

 神は人が造った像の中に住まわれる方ではない。そうではなく、わたしたちをお造りになったのが神である。この創造主をアテネの人々は知らなかった。

 「神を探し求めさえすれば、神を見出すことができる」とパウロはいう。それは、自然を観察すれば神にたどり着くということではない。そうではなく、探し求める者に神はご自身を啓示してくださるのである。

 神は主イエス・キリストを復活させてくださった。そのことによって、最後に正しく裁いてくださるのは主イエスであるという確証が与えられている。わたしたちは主イエスによってもはや罪に定められることはないのである。  

復活は自然の法則に反することである。自然を、またわたしたちの常識を超えることを神は行い示してくださる。そのことによってわたしたちは神を知ることができる。アテネの教養ある人々でさえ、有り余る時間を使って自然を観察しても神を知らずにいた。しかし、神が介入し、御言葉を与えてくださる。わたしたちはご自身を現し、信仰を与えてくださる神に感謝して、その御言葉を受け入れたいのである。

2019年9月8日

イザヤ書 53:1-12 使徒言行録 17:1-15
「御言葉の実現」 伝道師 永瀨克彦
 パウロとシラスはテサロニケに着いたとき、いつものようにユダヤ人の会堂に入っていった。異邦人への伝道が本格的になされるようになった後も、イスラエルにはまっさきに主に立ち返ることが期待されている。
 パウロは旧約から引用して三回の安息日にわたって主イエスこそメシアであることを論じた。信仰をもって旧約を読むならば、そこに予言されている方が主イエスであることは明らかである。
 そこで多くの人が信じたが、ユダヤ人たちは嫉妬をし、暴動を起こした。パウロとシラスはベレアへと向かった。そこのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこでまた、多くの人が信じた。
 彼らは、聖書を調べた結果そのとおりだったから信じたのではない。そうではなく、御言葉を熱心に受け入れたのが先である。わたしたちは神から御言葉をいただく。そして聖霊の働きによってそれを受け入れさせていただく。まず神から信仰を与えられる。それは神からの一方的な恵みである。それに対して、聖書を学ぶというわたしたちの応答がある。
 ただ聖書を学ぶだけでは、いくら調べても預言されているメシアが主イエスであることは分からない。しかし、信仰をもって読むとき、学べば学ぶほどそれは明らかとなる。わたしたちには、信仰をもって聖書を学び、また調べ、主イエスによる救いの恵みをいっそう深く味わうことが許されている。

2019年9月1日

詩編 114:1-8 使徒言行録 16:11-34

「牢からの解放」    伝道師 永瀨克彦

 フィリピでリディアという女性が洗礼を受けた。彼女は紫布の商人であった。その財産を自由に用い、パウロたちをもてなし、また、教会の指導者として成長していった。彼女は、社会の風習から自由であった。女性の活躍が制限されるような時代でも、キリスト者はそこから解放され、自らの賜物、持ち物を神のために自由に用いるとができるのである。

 パウロはフィリピで投獄されてしまった。女奴隷に取りついていた占いの霊を主イエスの名によって追い出し、金もうけの手段を失った主人に訴えられたからである。

 真夜中、パウロは賛美の歌を歌っていた。パウロは傍から見ればはなはだ不自由である。しかし、パウロは獄中にありながら、主イエスによって自由とされた者として感謝を捧げているのである。

 そのとき大地震が起こり、牢の戸は皆開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。看守は囚人が逃げたと思い込み、自害しようとした。パウロは「自害してはならない。わたしたちは皆ここにいる」と叫んだ。震えながらひれ伏し「救われるためにはどうすべきでしょうか」と聞く看守に、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」と答えた。

 一見、自由なのは女奴隷の主人であり、看守である。しかし、真に自由とされているのはリディアであり、女奴隷であり、(獄中にいたとしても)パウロなのである。自由とされるために必要なことは、ただ主イエスを信じることであるとパウロは答える。主イエスはわたしたちを罪から解放してくださった。わたしたちは贖われ、神のもとに取り戻された。「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8:32)」。わたしたちは牢から解き放たれた者である。

2019年8月25日

出エジプト13:17-22 使徒言行録15:36-16:10

「主が示される道」  伝道師 永瀨克彦

 ここから第二回宣教旅行が始まる。この旅行によって福音がギリシアへともたらされた。福音がヨーロッパ、そして世界へと広まっていくきっかけとなった。大きな成果をパウロたちは得たのである。しかし、その旅路はパウロの思い通りに進むものではなかった。初めに、マルコ=ヨハネを連れて行くかどうかでバルナバと対立し、別行動を取ることになった。そのことでキプロス島まわりではなく、陸路で諸教会を問安することになった。

 デルベでは、旅に同行する者としてテモテが与えられた。パウロの計画通りに進まないこの旅は、神が計画され、祝福しておられるものである。

 パウロはアジア州を通ってアンティオキアへ帰るつもりであったのだろう。いずれにせよ、問安がこの旅の当初の目的であった。しかし、その道を閉ざされ、さらにビティニア州に入ることも許されなかった。こうしてパウロはトロアスに導かれた。そこでパウロは、「海を渡って来て、わたしたちを助けてください」というマケドニア人の幻を見た。

 神がマケドニア人を救うため、パウロを港町であるトロアスまで導かれたのである。そして、「渡って来て助けてください」というのは、マケドニア人だけの訴えではないだろう。神は助けを求めて叫ぶ声に必ず応えてくださる。そのために、パウロの計画を何度も妨げたように、何としてでも助け手を送ってくださる。そして御言葉を与えてくださるのである。

2019年8月18日

創世記 17:1-11 使徒言行録 15:1-21

「信仰によって」  伝道師 永瀨克彦

 エルサレムにおいて、異邦人キリスト者にも割礼を受けされるべきか否かが話し合われた。いわゆるエルサレム会議である。

 議論を重ねた後、ペトロは立って、異邦人にも聖霊が与えられたことを改めて述べた。異邦人は割礼を受けたから聖霊を得たのではない。そうではなく、割礼の有無にかかわらず、信仰によって神は彼らを清められたのである。そして「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」とペトロは語った。救いは自らの行為によって至るものではなく、主イエスの恵みによって与えられるものである。

 割礼は救いの手段ではなく、救いを覚えるために受けるものである。創世記17章にあるとおり、アブラハムは信仰によって義と認められ、その後に割礼を受けたのである。

 しかし、一部のユダヤ人たちは、いつしか割礼を手段のように考えるようになった。そう誤解するとき、人間は、救いに値する行為をした自分を誇ってしまう。救ってくださった神を忘れてしまうのである。そのように、自分のする善い行いに頼りたくなる誘惑はわたしたちにもある。

 一方で、自分の行いに失望することもある。善い行いをすることができないばかりか、明らかに悪行を重ねてしまうこともある。そのようなとき、なぜ自分のようなものが救ってなどもらえるだろうかと思う。

 行いにこだわるならば、救いに至ることなどできるはずもない。しかし、神はわたしたちの罪にもかかわらず、ただ恵みによって主イエスを与え、罪から贖ってくださったのである。わたしたちは信仰によってその救いを受け入れ、義とされるのである。

2019年8月11日

創世記 45:8 使徒言行録 14:2128

「信仰に踏みとどまる」     伝道師 永瀨克彦

 パウロとバルナバは、第一回伝道旅行の最後の目的地デルベで福音を宣べ伝えた後、まっすぐアンティオキアへ帰るのではなく、これまで伝道した町をもう一度訪れ、それぞれの教会の様子を見ながら帰って行った。

 パウロたちは各地で「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って弟子たちを力づけた。彼らは楽観的なことだけを語るのではない。キリストを信じたからには何も苦しみはない。人生バラ色だとは言わないのである。

 しかし、それが確かに励ましになっている。信徒たちは力を受けている。それは、彼らが今受けている苦しみが意味のないものではないと分かったからである。彼らは迫害を受けている。社会からの拒絶を味わっている。しかし、それは、主イエスの名が宣べ伝えられているからこそ生じる苦しみである。彼らが苦しむとき、同時に福音が広まっている。その苦しみは意味のないものなどではなく、経なくてはならない苦しみなのである。

 パウロも後に獄中書簡であるフィリピの信徒への手紙の中で、「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と語っている。伝道者が苦しむとき、キリストが告げ知らされているのである。

 社会が拒絶をし、キリスト者が苦しむのは、福音が変化を求めるものだからである。自らの罪を知り悔い改めることは簡単ではない。それは拒否反応を招く知らせなのである。しかし、だからと言って伝える内容を変えるべきではない。それが「信仰に踏みとどまりなさい」ということの意味である。神は独り子を十字架につけた人間の罪を赦してくださった。そのことを知り、神に立ち返る、悔い改めて神の前に新しく生きる信仰を教会は伝えていくのである。

2019年8月4日

申命記 4:2531 使徒言行録 14:20

「天地万物の創造主」     伝道師 永瀨克彦

 リストラで、パウロが説教するのを一人の足の不自由な男性が聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で叫んだ。すると、その人は躍り上がって歩きだした。

 ふさわしい信仰とは、聖書についてよく知っているとか、清く正しい生活を送っているということではない。そうではなく、主イエス・キリストを救い主として信じるという、ただそのことである。彼は足が不自由であるために、主イエスの救いにより頼み、受け入れたいと願っている。完全な人はいないが、人間はしばしばそのことを忘れ、自分の力に頼ろうとする。しかし、この人は主イエスに頼ろうとしている。わたしたちも、欠けがあるゆえに、主イエスにより頼む者でありたい。それがふさわしい信仰である。

 この癒しの出来事を見ていた人々は、バルナバを「ゼウス」パウロを「ヘルメス」と呼んで崇拝し、牛数頭と花輪を運んできて、二人に捧げようとした。それを聞いた二人は激怒し、衣を裂いて叫んだ。自分たちは神ではない、偶像から離れて、まことの生ける神、天と地のすべてを造られた神に立ち返れ、と彼らは説教した。

 まことの神は、天地万物の創造主である。つまり、イスラエルではないリストラの人々も、この神に造られ、生かされてきたのである。パウロが訪れ、人々が神を知るよりも前から、神は彼らに雨を降らせ、彼らを養っておられた。だから、牛はパウロに捧げるのではなく神に返すべきである。

 わたしたちは、すべての人を造り、養っておられる神を、すべての人が知るようになるために遣わされているのである。

2019年7月28日

イザヤ書 55:5  使徒言行録 13:4252

「あなたたちに与える」     伝道師 永瀨克彦

 ピシディア州のアンティオキアでパウロは説教をする。その説教は、神がアブラハムを選ばれた出来事から振り返る、長いものである。神は突如思い立ち、主イエスを送られたのではない。主イエスが来てくださったことは、神の長い計画と約束の実現なのである。神はアブラハムを選び出してからイスラエルを決して見捨てることなく導き続けられた。荒野の四十年では、民は神に歯向かい、偶像を拝んだが、神は耐え忍ばれた。ダビデの時代には、神はダビデの子孫から救い主を起こすと約束された。神はこの長大な計画を実行してくださる。

 にもかかわらず、当のイスラエルは、せっかく神が送ってくださった救い主を十字架につけて殺してしまう。だが、神はこの人間の背きさえ救いへと変えてくださったのである。神は主イエスを復活させてくださった。「その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています」(31)。このとき、まだ復活の主イエスと直接会い、言葉を交わした人が大勢生きていた。人々はそうした人々からの証言を聞き、主イエスの復活をありありと思い浮かべ、信じた。わたしたちもこの証言を聞いている。わたしたちもまた、主イエスの復活を現実の出来事として信じる。復活を信じるからこそ、御子を十字架につけてしまった人間をも赦された神のいつくしみをわたしたちは信じるのである。

 荒れ野で背き、預言者たちを殺し、神の子を殺した人間を、神は救ってくださる。この歴史を見るとき、「あなたたちに与える」と約束された救いを、神は必ず与えてくださるということが分かるのである。

2019年7月21日

列王記上18:2024 使徒言行録13:12

「主のまっすぐな道」     伝道師 永瀨克彦

 聖霊は、「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事にあたらせるために」とお語りになる。ここから始まるパウロの第一回伝道旅行は、神が計画されたものである。

 パウロとバルナバがまず向かったのは、バルナバの出身地であるキプロス島であった。彼らはそこでバルイエスという魔術師に会った。バルイエスはローマの地方総督パウルスと交流があった。あるとき、パウルスがパウロとバルナバを呼び、御言葉を聞こうとした。しかし、バルイエスは二人に対抗してパウルスを信仰から遠ざけようとした。バルイエスはパウルスの目を神ではなく自分に向けようとしたのである。

 妨害するバルイエスに対してパウロは、「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」と言った。「悪魔の子」という非情に厳しい言葉が使われている。悪とは何であるのか。それは自然法に反することでも法律に反することでもない。それは神の御心に反することである。だから、救わんとされる神の御心を妨げようとするバルイエスが悪と呼ばれるのである。神は独り子を犠牲にしてまで、心血を注いで人間を救ってくださる。人間はそれを妨げてはならない。

御心に背くことが悪であるということは、神は必ず善を行ってくださるという信頼に基づいている。「主のまっすぐな道」とは善い道、正しい道とも訳すことができる言葉である。神は、わたしたちが自分でゆがめない限りは、まっすぐな、わたしたちにとって最善の道を備えてくださる。その道を進みたい。

2019年7月14日

出エジプト13:10 使徒言行録12:25

「解き放たれる神」     伝道師 永瀨克彦

 ヘロデの力は強大なものである。彼は一声発するだけでヤコブを殺し、またペトロを捕らえることができる。周囲の人々はそれを止めることができない。しかし、そのヘロデの力も神の前には空しいものである。

 ヘロデがペトロを捕らえたのは除酵祭の時期である。イスラエルの人々は、エジプトからの解放を喜ぶ除酵祭のただ中で、同胞が捕らえられているのを見て喜ぶ。

 ペトロは非常に厳重に囚われている。牢の中に二人、牢の前に数人の番兵がいる。牢の外には二つの衛兵所があり、その先には町に続く鉄の扉がある。しかし、強大な力をもつヘロデがどれだけ厳重にペトロを捕らえたとしても、神がそこから出そうとされるならば、何の意味もない。ペトロは天使に導かれて難なく町へと脱出するのである。

 マルコと呼ばれたヨハネの母マリアの家に集まっていた人々は、ペトロが門の前に立っていると聞いて、初めは信じられなかった。エジプトからの解放を喜ぶこのとき、ペトロの牢からの解放を彼らは信じることができない。エジプトから自分たちを解き放ってくださった神ならば、ペトロを牢から出すくらいわけないはずである。彼らはそのことを忘れている。

 人々は除酵祭を祝いながらも、かつて神が自分をエジプトから解放してくださったことを忘れている。わたしたちは、神が罪から解き放ってくださったことを覚えるものでありたい。罪からの贖いを覚えているからこそ、ペトロの牢からの解放を聞くときに、神の力をもってすれば当然であると答えるものでありたい。神は、脱獄よりも、また出エジプトよりも偉大な業である罪からの解放を成し遂げてくださったのである。

2019年7月7日

創世記 28:1015 使徒言行録 11:1930

「教え導き続ける神」     伝道師 永瀨克彦

 アンティオキアで福音が語られ、多くの者が信じた。ほとんどのユダヤ人は異邦人に福音を語らなかったにも関わらずである。アンティオキアはローマ、アレクサンドリアに次ぐ大きな異邦人の町である。大多数のユダヤ人は異邦人が救われるのを望まなかった。しかし、神はキプロスやキレネから来たユダヤ人たち、つまり、一部の人々を用いて福音を告げてくださった。いくら人間が拒もうとも、神の計画を止めることはできない。

 多くが信じたといううわさを聞き、エルサレムの教会はバルナバを派遣した。それは、アンティオキアの教会が指導を受け続けるためである。信じることが目標であり、それで終わりというのではない。信じた後には、神に向かって生きる生活が待っているのである。

 神は、信じた者を放ってはおかれない。神は教え導き続けてくださる。

 このアンティオキアで、弟子たちは初めて「キリスト者」と呼ばれるようになった。それは、教会の人々が周囲から見てそれだけ異質な存在だったからである。信徒たちは、周囲から「キリスト者」と呼ばれ、区別され、時には敬遠されるほど、周囲と異なる生活を送った。それは、神に応える新しい生き方である。「キリスト者」はもともとは好意的な呼び方ではなかったかもしれないが、信徒たちはそう呼ばれることを誇りとし、自ら称するようになった。

新しい生き方ができるだろうか。救われたのに、以前と何も変わっていないのではないか。そのように思うことがある。しかし、そのようなわたしたちを神は教え導き続けてくださる。その神に信頼し、応える者でありたい。

2019年6月30日

イザヤ書 25:10 使徒言行録 11:18

「神がそうなさるのを」     伝道師 永瀨克彦

 エルサレムにいた使徒たちは、ペトロがコルネリウルスら異邦人に洗礼を授けたことを知って怒った。それに対し、ペトロは「わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」と答えた。

 ペトロはここで自分が体験したことをそのまま語っている。幻を通して異邦人が皆救われることが神の御心であることが分かった。彼自身、異邦人との交流を避けてきたが、それが変えられた。そして、この報告を聞いた人々も皆変えられた。彼らは「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って神を賛美したのである。

 このように、神がしてくださったことは、そのまま語るだけで十分に力を発揮する。何も付け加えられる必要はない。わたしたちは、神から与えていただいているものをそのまま証しするものでありたい。

 使徒たちが言うように、神はコルネリウスを「悔い改めさせ」てくださった。全ては神が主導される。悔い改めさえも神から与えられる恵みである。

 彼らは異邦人が救われたことを知って神を賛美した。直前までは異邦人への洗礼に怒っていた彼らが、今や、反対にそれを喜ぶ者とされている。

 彼らが他人の救いを喜んでいるということは重要である。救いは自分が救われればそれで終わりというものではない。すべての民を救おうとしてくださるのが神である。

 神がなさることを妨げることはできない。それが行われるために働き、その実現を喜ぶ者となりたい。神の望みを自らの望みとさせていただきたい。

2019年6月23日

ヨナ書 4:11 使徒言行録 10:3448

「信じる者はだれでも」     伝道師 永瀨克彦

 ローマの百人隊長コルネリウスに対してペトロは言う。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」。分け隔てしないとは、単に差別をしない、つまはじきにしないという意味ではない。それは愛するということである。神はイスラエルに対すると同じように異邦人を愛してくださる。イスラエルを弾圧し敵対する者の代表とも言える百人隊長さえ、神は愛し、イスラエルに加えてくださるのである。

 ヨナ書の四章において、神はニネベを惜しむと言われる。それは神が労し、育てられたからである。ニネベは異邦人の町であるが、そこに住む人々のことも、やはり神はお造りになった。神はイスラエルだけの創造者ではない。神は大変な労を払い、ご自身の手で造り、お育てになった異邦人のことを愛される。

 だから、ペトロが言うように、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」。全ての民は救いへと招かれている。

 ペトロを通して御言葉を聞いていると、コルネリウスたちの上に聖霊が降った。それを見た周囲の人々は大いに驚いた。コルネリウス自身驚いたに違いない。異邦人である自分のところにも神が来てくださるとは。それは喜びに満ちた驚きである。

 この驚きが私たちにも与えられていることを思い起こしたい。主イエスが私たちのところに来てくださり、救ってくださったことは驚くべき恵みである。労して造り、育てた人間を神は愛し、救ってくださるのである。

2019年6月16日

詩編 78:4 使徒言行録 10:33

「残らず聞こうとして」     伝道師 永瀨克彦

 ペトロは皮なめし職人シモンの家の屋上で幻を見た。天が開き、大きな布のようなものが四隅でつるされて地上に降りてくると、その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。神が「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」とお命じになると、ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことはありません」と答えた。神は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われた。神はペトロとそのやり取りを三度繰り返された。

 これまで守ってきたことを止めてもいいのか。ペトロは確信が持てなかった。また不安を覚えた。しかし、神は三度も同じように命じ、ペトロに確信を与え、不安を取り去ってくださる。今やそれらは食べてもよいのである。

 ペトロが思案に暮れていると、ローマの百人隊長コルネリウスからの使いが彼のもとに到着した。コルネリウスもまた幻を見て、ペトロを招くようにという神の声を聞いたのであった。ペトロはコルネリウスの使いが来たのを見て、幻のさらなる意味を悟った。神は異邦人たちを清めておられる。主イエスは彼らをも救われたのである。ペトロは神の御心を知り、それまで避けていた異邦人との交流をためらわず行った。彼らを泊め、(直接書かれてはいないが)食事を共にし、翌日コルネリウスを訪ねた。

 わたしたちは今日語ってくださる神の言葉によって生きる。固定された過去の考えによるのではない。わたしたちは日々新たにされる。その日その時に、祈りを通して与えられる御言葉に従い為すことを決める者でありたい。神は三度語り確信を与えてくださる。

2019年6月9日

列王記下 4:3237  使徒言行録 9:3243

「多くの人が主を信じた」     伝道師 永瀨克彦

 ペトロはリダに着くとアイネアという人に会った。アイネアは中風で八年前から床に着いていた人である。そこでペトロは主イエスの名によって命じ、アイネアを癒した。人々はそれを見て主に立ち返った。

 その後、ペトロはヤッファでタビタという婦人を生き返らせた。彼女はたくさんの善い行いや施しによって、人々から慕われた人物であった。彼女が死んだとき、やもめたちは泣きながら彼女が作ってくれた上着や下着をペトロに見せた。ペトロが祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」というと、タビタは起き上がった。これがヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。

 この二つの奇跡は何のために起こされたのであろうか。それは、それぞれの奇跡の結末を読めば明らかである。つまり、皆が主に立ち返り、また多くの人が主を信じるために奇跡は起こされたのである。癒し、また甦り自体が目的ではない。それは嬉しい出来事ではあるが、そこに住む人が皆救われることに比べれば重要ではない。

 やもめたちの生活は楽ではなかっただろう。夫に先立たれた女性が一人で生きるのは厳しい時代であった。貧しさ、病、死と彼女たちは無縁ではいられなかった。将来に希望を持つことは難しかったかもしれない。しかし、主イエスはペトロを通してタビタを生き返らせ、死は恐れる必要がないことを示してくださった。主イエスを知った人が皆、恐れから解き放たれた。それが二つの奇跡によってもたらされた恵みである。そして、この奇跡を知らされているわたしたちもまた、同じ恵みをいただいているのである。

2019年6月2日

サムエル記上 10:9 使徒言行録 9:19b-31

「サウロと使徒たち」     伝道師 永瀨克彦

パウロはダマスコを出るとエルサレムに向かった。そこで他の弟子たちに加わろうとしたが、すんなりとはいかなかった。皆、ついこの間まで仲間たちを捕らえて処刑をしていたパウロを恐れたのである。それは当然の反応であった。そこでバルナバが仲介し、パウロが本当に主イエスと出会って回心したということ、そしてダマスコで力強く説教をしたことを説明した。そのことによってパウロは使徒たちに受け入れられた。

 パウロは主イエスと自分という一対一の関係のみにおいて伝道者となったのではない。直接主と出会い、召命を確信していたパウロでさえ、使徒たちから確認される必要があった。主イエスは教会を通して、パウロの召命を客観的にも確かにしてくださる。

 わたしたちもまた、信仰者となるとき、誰しも他の信仰者から確認を受けて教会に加わる。もちろん、主が出会ってくださり、信仰を与えてくださる出来事が最も重要である。しかし、それだけでキリスト者として歩み始めるかと言えばそうではない。洗礼の志が与えられたことを教会に申し出、それが確かであることを周囲が認め、信仰告白をし、そして洗礼を受けるのである。

 パウロの信仰、また召命は、神と自分の関係だけで完結しない。パウロは神から受けたものを分かち合い確認し合うことへと促されている。

 わたしたちは神から受けた愛を伝えていく者とされている。また、召しを確認し合い祈り合うことがわたしたち教会には許されているのである。

2019年5月26日

ヨナ書 3:10:11 使徒言行録 9:19a

「名を呼び遣わす主」     伝道師 永瀨克彦

 パウロの回心の出来事は実に簡潔に書かれている。悔い改めに至るパウロの心境などは書かれていない。ただ、主イエスがパウロに出会い、回心させられるからこそ、パウロは主イエスを伝え始めるのである。

 実際、パウロは徐々に自らの罪に気づき悔い改めたのではない。彼は直前まで教会を迫害していた。主イエスと会ったのも、教会の人々を捕らえて殺す許可を大祭司からもらうための道のりにおいてであった。彼はそれが正しいと信じ、嬉々として大祭司のもとに向かっていた。

 そこで、主イエスはパウロと出会われ、彼を回心させられた。パウロは主イエスを迫害する者から主イエスを伝える者となった。まさに180度向きを変え、主に向かって生きる者となった。それは彼が望んだのではなく、主がそうされたのである。

 アナニアは、主からパウロのところにいって目を開くように命じられた。彼は一度はそれを拒もうとした。パウロがどれほど酷い行いを主と教会に対してしてきたかよく知っていたからである。彼は初めは行きたくなかった。しかし、それが主の御心であると信じてアナニアは従った。

 ヨナ書では、ヨナもニネベに行くことを拒んで逃げたが、神は彼をそこに向かわせ、ニネベの人々をお救いになった。

 わたしたちは望むと望まないとにかかわらず、神によって回心させていただく。従った三人のように、正しく導かれる神に従いたい。

2019年5月19日

イザヤ書 53:10  使徒言行録 8:2640

「福音が告げられる」     伝道師 永瀨克彦

 サマリアでの出来事に続いて、この個所でも福音が全ての人にもたらされているということが示されている。ユダヤ人と犬猿の仲であったサマリア人たちへの伝道が成功した。最も伝えるのが難しい敵対する相手にそれができるならば、まだ会ったことのない相手にはなおさら伝道をすることができる。福音は全ての土地に、エチオピア人の、アフリカ人であり宦官である彼のもとにももちろんもたらされるのである。

 彼に福音を伝えたのはフィリポである。しかし、彼が自らそこに行こうと思ったのではない。むしろ彼はサマリアに留まって、できたばかりの教会を見守ろうと思ったことだろう。何しろ、彼が向かうことになるのは「寂しい道」である。そんな人通りも少ない場所に行ってはたして良い働きができるだろうか。しかし、天使はそこに行けと告げる。だからこそフィリポはそこに向かう。フィリポを通して宦官に福音を告げてくださるのは神である。

 この宦官のために、サマリアの信徒たちは置いて行かれることになる。ルカ15章で主イエスは、「あなたがたに百匹の羊がいて、一匹を見失ったならば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と言われた。神はまさに失われた羊を捜すように、この宦官を見つけ出してくださるのである。彼は福音を聞いて喜び、迷わず洗礼を受けた。

 わたしたちが神から遠く離れて生きるとき、神は探し回ってでも見つけ出し連れ戻してくださる。神は今日も、捜し、福音を告げてくださる。

2019年5月12日

箴 言 2:13-20 使徒言行録 8:1-25

「神からの賜物」     伝道師 永瀨克彦

 ステファノの殉教の後、エルサレム教会に対して大迫害が起こった。人々はそこに留まっていることができなくなり、各地に散っていった。だがそこで福音が告げ知らされていく。迫害さえも、神は伝道のための力へと変えてくださる。

 フィリポはサマリアの町で伝道した。ユダヤ人にとってサマリアは最も近く、最も遠い場所である。彼らはサマリア人を軽蔑していた。そのためサマリア人も当然ユダヤ人を良く思っていなかった。しかし、そこでの伝道が成功する。敵対する相手に福音を伝えるのは、会ったことのない異邦人に伝道するよりもよほど難しいことである。それが実を結ぶならば、福音が到達できない土地はないのである。この世のすべての人間に対して福音は語られる。

 サマリアに住む魔術師シモンは、使徒たちが手を置くと人々に霊が与えられるのを見て、その力を金で売ってほしいと頼んだ。

 彼は、使徒たちが今持っているその力が、神から与えられたものであることを理解していない。もし金で買えるのだとしたら、その力は支払いに対して得られる当たり前のものに過ぎない。神は、そうではなく、いくら支払っても本来得られないものを、値なしに与えてくださるのである。

 主イエスの十字架と復活によって与えていただいた救いは、わたしたちが代価を払って得た当然のものではない。それは神の無償の愛である。救いが神からの賜物であることを思い起こし、その喜びを伝えていく者でありたい。

2019年5月5日

イザヤ書66:2 使徒言行録 7:5160

「ステファノの殉教」     伝道師 永瀨克彦

 人々は、ステファノを最高法院に連れて行き、訴える。彼らは、ステファノが律法を破壊しようとしていると主張する。それに対して、ステファノの長い説教がなされる。ステファノが言っていることは、本当に律法を軽んじているのはどちらか、ということである。ステファノはアブラハム、ヨセフ、モーセを神がいかに導き、そして律法を与えられたかを詳細に語る。このことから、彼が律法を重んじるものであることは明らかである。
 
周囲からは、ステファノは、また教会は革新的であるように見えたのかもしれない。しかし、それは律法を変えるためではなく、むしろ重んじるがゆえのことである。彼は律法を破壊するのではなく、律法を完成させる主イエスを伝えているのである。
 
反対に、ステファノを訴えた人々こそ律法を軽んじていると指摘される。彼らはまさか自分たちが律法を軽んじているとは思わなかった。彼らはたしかに、そこに記された規定をできるかぎり守って生活していたからである。しかし、律法を守ること自体が目的になるとき、それは律法を重んじていることにはならない。神は律法を通して人間に語り掛けてくださる。その神にお応えするためにこそ律法は用いられるのである。
 
そのためには「心と耳に割礼を受け(51節)」なければならない。つまり、聖霊によって、その時々に、律法を通して語られる神の言葉を新しく聞かなければならない。何をなすべきか、いつも祈り問うものでありたい。

2019年4月28日

列王記上 8:2027  使徒言行録 6:15

「七人の選出」     伝道師 永瀨克彦

 ここには、御言葉を伝えていくために、柔軟に変化する教会の姿が書かれている。世間から、教会は伝統的、保守的な存在と思われているかもしれない。しかし、教会は聖霊が降って誕生して以来、ずっと同じ姿であり続けているのではない。教会の誕生から間もないこのときにすでに、七人が選ばれ、大きな変化が起こっている。変わることのない御言葉を守り続けるために、教会はかえって自身を新しくしていただくのである。
 
主イエス・キリストの十字架と復活によってわたしたちの罪は赦された。この福音は変わることがない。この福音を教会は守り、伝えていく。ここで生じている、七人の選出という変化も、すべてはそのためである。彼ら七人が担ったことは、日々の食事の分配等である。それは一見、御言葉の奉仕とは関係のない雑務のようにも思える。しかし、そうではない。彼らは何よりも「霊と知恵に満ちた」者として選ばれる。それは、事務能力によってではない。御言葉に仕えるにふさわしいものとして彼らは選ばれる。そして、彼らが働いたことによって、事実、神の言葉はますます広まり、弟子の数は非常に増えていった。彼らは、説教や聖書の解き明かしもしたが、主な働きは事務的なことであった。しかし、それは御言葉のためであり、実際そのために彼らは用いられた。御言葉に仕えている点では、使徒たちと彼らは全く同じなのである。
 
わたしたちがなす働きもまた、すべては伝道のために用いていただける。主日の奉仕、そして週日の働きもまた、神は用いてくださるのである。

2019年4月21日 イースター
エレミヤ書 31:1-6  ルカ福音書 24:1-12
「生きておられる神」     伝道師 永瀨克彦

 婦人たちは、安息日が終わり、夜が明けるとすぐに主イエスの墓へと向かった。彼女たちが到着すると、墓をふさぐ石は横に転がっており、そこに主イエスの遺体は無かった。天使たちは言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。主イエスは生きておられるということが宣言される。その主イエスを墓の中に捜すのは、せっかく主イエスが成し遂げてくださった復活が、まるでなかったかのように考えることである。
 主イエスは復活してくださった。そのことによって主イエスは罪を打ち滅ぼしてくださった。もし復活がなかったなら、どうして罪が赦されたと言えるだろうか。死は相変わらず人間を支配したままである。しかし、実際には、勝利したのは死ではなく主イエス・キリストである。主イエスは復活によって死に勝利してくださったのである。主イエスは十字架と復活によってわたしたちを救ってくださった。だから、復活はわたしたちが伝えていく福音の中心である。
 天使は続けて、婦人たちに「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と言った。婦人たちは主イエスが約束された復活を思い出した。そのとき、それまで分からなかった空の墓の意味が分かった。主イエスは復活してくださったのである。わたしたちも思い出す者でありたい。主イエスの十字架と復活はすでに成し遂げられた。わたしたちは、思い出すならば、その恵みを十分にいただくことができるのである。

2019年4月14日
イザヤ書 56:1-8  ルカ福音書 22:39-53
「十字架を選ぶ」     伝道師 永瀨克彦

 エルサレムに入城してから、主イエスは毎日、昼は神殿で教え、夜はオリーブ山で祈る生活をされた。十字架にかかるその日も、主イエスは同じようにオリーブ山へと向かわれた。ユダの裏切りと追手が迫っていることをよくご存じの主イエスは、彼らが来ることを承知の上でそこに行かれる。主イエスは十字架を選ばれる。
 主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、ご自身もすぐ近くで祈り始められた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と言われた。ここでも主イエスは、ご自分の願いを捨て、人間のために十字架を選び取ってくださるのである。
 主イエスが祈り終えると、弟子たちは眠っていた。彼らは、主イエスが自分たちのために祈っておられることを知らなかった。また、主イエスが十字架におかかりになったときも、まだそれが自分のためであるとは分からなかった。彼らは眠るものであり続けた。彼らは眠っている間に救われたのである。  目を覚まし、主イエスが私のために十字架にかかり、復活してくださったのだという福音を受け入れるものでありたい。今度こそは誘惑に負けず目を覚まし続けるものでありたい。主イエスはわたしたちが誘惑に陥らないように、信仰がなくならないように祈ってくださる(ルカ福音書22:32)。

2019年4月7日
歴代誌下 13:12   使徒言行録 5:17-42
「神から出たものであれば」     伝道師 永瀨克彦
 使徒たちの手を通して行われた奇跡を見て、また、信徒たちが心を一つにしているのを見て、人々は彼らを称賛した。しかし、あえて仲間に加わろうとはしなかった。
 だが病の人々は違った。人々は病人を大通りに寝かせ、ペトロが通りがかるときに影だけでもかかるようにした。彼らは一人残らずいやされた。主を信じるものの数はますます増えて行った。
 かつて主イエスは子どもを呼び寄せ、「神の国はこのような者たちの者である」(ルカ18:16)と言われた。子どもは弱く、親にすべてをゆだねなければ生きていくことができない。子が親に頼るように、あなたがたは神に依り頼みなさいと主イエスは言われた。
 それは、幼い子どもがそうであるように、わたしたちは本当は神により頼まなければ生きていくことができないということである。病の人々は、病によってそのことをよく自覚していた。
 17節以降には、ガマリエルという人が登場する。大祭司たちが使徒たちを妬み、殺そうとする中、彼は「ほうっておくがよい。あの計画が人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」と言った。神がなさることを止めることはできない。
 彼は主に逆らうことを恐れた。神と戦っても勝ち目はない(歴代誌下13:12)。しかし、主に従う者は止めることができない神の業に加わることができる。
2019年3月31日
箴言 6:6-19       使徒言行録 4:32-5:11
「人間を欺いたのではなく」     伝道師 永瀨克彦
 初期の教会は、皆がすべての物を共有していた。しかし、それは当然のようにできることではない。バルナバが土地を売ってその代金を捧げたことは特筆すべきことであった。
 アナニアとサフィラという夫婦は、土地を売り、その代金の一部を持って来て、「これが全てです」と偽って使徒の足もとに置いた。ペトロは「あなたは人間ではなく神を欺いたのだ」と告げた。結局二人は死んでしまった。
 使徒言行録を記したルカは、ルカによる福音書においても、お金に関する記事を多く書いている。それらは他の福音書には見られない。財産はときに神からの祝福のしるしである。しかし、ルカは、それが誘惑の原因ともなりうることをよく知っているのである。
 アナニアとサフィラは誘惑に負けている。それは単に金銭による誘惑ではない。単にお金を残しておきたいだけならば、彼らは代金の一部を一部として捧げればそれでよかったのである。しかし、彼らはそれを全部だと偽る。つまり、彼らは、バルナバのように全てを捧げた立派な信仰者だと思われたかったのである。彼らが負けたのは名誉欲である。
 問題は、立派だと思われることによって自分の地位、存在を揺るがないものとしようとしたことである。そのとき、彼らは、神によって自分が生かされていることを忘れている。お金や地位という偶像にすがりたくなることがある。しかし、私たちを存在せしめてくださるお方は神おひとりである。