これまでの説教から

 

2020年3月22日
サムエル記上 21:1-7 マルコによる福音書 2:23-3:6             

「安息日の主」      伝道師 永瀨克彦

 安息日に、弟子たちが麦の穂を摘んだとき、ファリサイ派の人々は「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言って主イエスを非難した。それに対し主イエスは、かつて祭司アヒメレクが空腹だったダビデに供えのパンを与えた例を示し、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と述べられた。

 安息日は人間のためにある。しかし、人間は好き勝手に安息日を過ごすのではない。わたしたちは、安息日に主を礼拝する。「だから、人の子は安息日の主でもある」と主イエスは言われる。主を礼拝する安息日は、人のためにある。安息日に主を礼拝し、御言葉をいただくことが、人にとってもっとも良いことなのである。

 また、主イエスは、会堂で「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言われた。そして、手の不自由な人をいやされた。主イエスは安息日に命の救いを行ってくださる。

 わたしたちは、安息日に麦を我慢して飢えて死ぬのではない。安息日は主イエスによる命の救いを聴く日である。わたしたちは、安息日に教会に集い、主を礼拝する。そして、礼拝を通して、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聴く。それは、わたしたちのために与えられた日である。

 

2020年3月15日
イザヤ書 58:3-12 マルコ福音書 2:13-22             

「主を迎える喜び」      伝道師 永瀨克彦

 人々は主イエスに言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。主イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。

 イスラエルは救い主を待っていた。罪を悔い改め、断食もした。その救い主が来たのに、いつまでも断食し続けるのは本来の断食ではない。それは、痩せた頬を誇り、ほめてもらうための断食である。いまや、花婿を迎えての婚宴が始まっているのである。

 イザヤ書58章にこのようにある。「そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。/葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと(…)。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。(…)飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」。断食は、ただ苦しむために悔い改めることではない。そうではなく、悔い改め、赦しにあずかり、変えられること、そこまで含めて断食なのである。

 わたしたちは、救い主である主イエスを迎えている。わたしたちはただ苦しむためではなく、主イエスによって与えていただいた救いを受け入れるために悔い改めるのである。

2020年3月8日
イザヤ書 43:18-25 マルコ福音書 2:1-12             

「あなたの罪は赦される」      伝道師 永瀨克彦

 主イエスが家の中で御言葉を語っておられると、四人の男性が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて主イエスのもとに連れて行くことができなかったので、彼らは屋根をはがし、病人を床ごとつり降ろした。主イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

 律法学者たちはこれを見て、「神を冒涜している。神おひとりの他に、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と心の中で思った。主イエスはそれを見抜き、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて床を担げ』と言うのと、どちらが易しいか」と言われた。主イエスが命じると、その人は起き上がり、床を担いで出て行った。

 このことによって示されたことは、「あなたの罪は赦される」という言葉は真実であったということである。律法学者たちは、主イエスが口先だけで「罪を赦す」と言ったのだと思った。そんなことは誰にでもできる。だから、主イエスは「起きて歩け」と言うことで、「あなたの罪は赦される」という言葉もまた、口先だけのまやかしではなく、真実なのだということを示されたのである。主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われた。

 ルターは、「わたしは洗礼を受けている」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせた。ルターも自分の罪深さに悩み不安を覚えることがあったのである。わたしたちも、自分の救いに確信が持てなくなることがあるかもしれない。そのようなとき、十字架についてくださったのは、まことに赦す権威をもつお方なのだということを思い出したい。罪の赦しは成し遂げられたのである。

2020年3月1日
列王記下 5:9-16  マルコ福音書 1:40-45             

「御心ならば」         伝道師 永瀨克彦

 重い皮膚病を患っている人が、主イエスにのところに来てひざまづいて言った。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。この男性は、主の御心にゆだねた。それに対して、主イエスは「よろしい。清くなれ」と言われた。「よろしい」とは、原語では「わたしはそれを望む」という意味の言葉である。主イエスは男性をいやすことを御心としてくださった。

 主イエスは、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言って男性を厳しく注意した。それは、いやしを求める人々が殺到し、主イエスが福音の宣教をすることができなくなるような事態になってはいけないからである。主イエスは宣教するために出て来られた(1:38)のである。しかし、結果として、男性は人々に言い広めたので、主イエスは公然と町に入れず、これ以上その町で宣教することはできなかった。

 このように、宣教することが主イエスの御心である。しかし、「御心ならば」と男性が言ったとき、主イエスは「わたしはそれを望む」と言ってくださった。主はわたしたちの祈りを聞いてくださる。ときには思い直してさえくださるのである。

 しかし、わたしたちは自分の願いを願うのではない。この男性は「御心ならば」と言った。主イエスがゲツセマネで「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(14:36)」と祈られたようにである。神は、わたしたちにとって良いものを与えてくださる。わたしたちは、その神に信頼し、御心を祈り求めるのである。わたしたちが祈るとき、神は必ず聞いてくださる。そして、御心ならば、それを与えてくださるのである。

2020年2月23日

出エジプト記 15:11-18 マルコ福音書 1:29-39             

「主に応える」         伝道師 永瀨克彦

 主イエスは、熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめをいやされた。すると、彼女は一同をもてなした。シモンのしゅうとめは、いやされるやいなや、主イエスに応えるのである。

 「もてなした」という言葉は、原語では「給仕した」という意味の言葉である。英語の聖書でも、”serve”と訳しているものが多い。「給仕」というと、女性が男性に仕えている印象を与えるので、「食事の準備」などに言い換えるべきだという意見もある。しかし、ここで「給仕した」という言葉が使われていることには意味がある。つまり、シモンのしゅうとめは、主イエスに応えて、仕える者となったのである。主イエスによって救われた者は、主に、また、隣人に仕える者とされる。男性であっても女性であってもそれは同じである。主イエスは神の子でありながら身を低くし、人間となり、十字架にかかってくださった。わたしたちは、主イエスがしてくださったように仕える者となるのである。

 朝になって、主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と言われた。主イエスが来られたのは、病をいやすためではない。そうではなく、すべての造られた者が福音を聴くためである。わたしたちは、その主イエスに仕える者とされている。罪の支配から回復させられたならば、その苦しみからいやされたならば、わたしたちは、シモンのしゅうとめがしたように、主に応えたい。「宣教する、そのためにわたしは来たのだ」と言われる主イエスに仕える者となりたいのである。

2020年2月16日

詩編 124:8 マルコ福音書  1:21-28             

「権威ある者」         伝道師 永瀨克彦

 主イエスが権威ある者としてお教えになったので、人々は非常に驚いた。そのとき、汚れた霊が叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。・・・正体は分かっている。神の聖者だ」。主イエスは「黙れ。この人から出て行け」と叱り、汚れた霊を追い出した。主イエスが言葉だけで汚れた霊を追い出したので、人々は「権威ある新しい教えだ」と言って、皆驚いた。

 「権威ある者として」「神の聖者」「権威ある教え」。記者マルコは、主イエスが権威あるお方であることを強調する。主イエスは権威ある方、神の子なのである。

 悪霊の追い出し、病のいやし、死者の復活。聖書には多くの奇跡が登場する。わたしたちは、ときにそれらを自分の理解できる範囲まで押し下げたいと思うかもしれない。いやしや復活も、何か他の事を伝えるための誇張や隠喩なのだと思いたくなる、そのような誘惑がある。実際に「イエスは立派な思想家だったが、神ではなく、革命に失敗して処刑された人間なのだ。復活も無かった」と主張する人もいる。そう考えるとき、聖書はずっと理解しやすい書物に思えるだろう。

 しかし、実際には、神はわたしたちが理解に苦しむような奇跡を行ってくださった。すなわち、独り子を十字架につけ、復活させることによって、すべての人間の罪を贖ってくださったのである。この理解を超えた大いなる恵みを、神は語り、信じさせてくださるのである。マルコは、主イエスが権威ある方であることを強調する。それは、まことに神の独り子が、わたしたちの罪を担って代わりに死に、復活をしてくださったということなのである。

2020年2月9日

創世記 12:1-4 マルコ福音書 1:16-20             

「わたしについて来なさい」   伝道師 永瀨克彦

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。そう言われると、シモンとアンデレはすぐに網を捨てて従った。ヤコブとヨハネも、主イエスに呼ばれると、父と舟を残して主イエスについて行った。不思議な個所である。なぜ彼らはすぐに主に従ったのか。彼らは、主イエスが偉大なお方だとあらかじめ知っていたわけではない(マルコ福音書においては、シモンのしゅうとめのいやしは、この出来事の後である)。彼らは、突然目の前に現れ呼びかける主イエスに迷わず従う。彼らが従うのは、ただ、主イエスが呼ばれるからなのである。まさに、網にかかり、否応なく舟に引き上げられる魚のように、彼らは主によって捉えられ、召し出されるのである。

 しかし、同時に、彼らは自分の意志で主に従う。「すぐに網を捨て」という言葉は、シモンとアンデレが喜んで主に従ったことを示している。いまや彼らは網や舟を捨てても惜しくないと思っている。だからためらわないのである。

 そして、今度は彼らが人間をとる漁師とされる。主イエスは四人だけではなく、すべての人間を救おうとされるのである。そのために彼らをお用いになる。

 わたしたちは、主によって捉えられ、引き上げられる。舟に引き上げられると、魚は死んでしまう。わたしたちはまさに、古いものに死に、主イエスが与えてくださった永遠の命に生きるものとされる。そして、他の人々が主イエスの福音を聞くために働くものとされるのである。

 主イエスはわたしたちに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と呼びかけてくださる。弟子たちは喜んで従った。わたしたちも喜んで応える者でありたい。

2020年2月2日

イザヤ書 12:1-6  マルコ福音書 1:12-15             

「時は満ち、神の国は近づいた」   伝道師 永瀨克彦

 14節には、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え」たと書かれている。ヨハネの時代が終わり、主イエスのときが来た。つまり、準備のときが終わり、救い主を迎え入れるときが来たということである。ヨハネは、人々にメシアを受け入れる準備をさせるという役目を十分に果たした。そして、主イエスが来られた。そのことによって、ヨハネが働くべき時代、人間が備える時代が終わったのである。

 つまり、もはやゆっくりと準備をしている時間はない。人々は今決めるのである。主イエスを救い主として受け入れるかどうかを。だから、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスのお言葉には、緊張感がある。時は満ちた、状況は差し迫っているのである。

 悔い改めよ、とはどういう意味だろうか。反省しなさい、十分反省したら許してあげる、ということだろうか。そうではない。主イエスは既に十字架と復活により、赦しを成し遂げてくださっているのである。しかし、それを受け入れるには悔い改めなければ無理である。自分は赦しを必要としていると知って初めて、主の十字架が自分のためであったのだと認めることができるのである。「あなたはすでに赦された。この赦しをあなたの赦しとして受け取りなさい」ということ、これが悔い改めなさいということの意味である。

 福音は喜ばしい知らせ、”good news”である。それが語られるとき、わたしたちは、自らの内に受け入れるかどうかという決断を迫られる。後回しにすることはできない。主イエスは既に救いを成し遂げてくださったからである。わたしたちは、この知らせを自分にもたらされた良き知らせとして、喜んで受け入れたい。それは事実その通りのものなのである。

2020年1月26日

イザヤ書 40:9-11 マルコ福音書 1:1-11             

「妨げられない福音」     伝道師 永瀨克彦

 神の子イエス・キリストの福音の初め、この言葉には、主イエスが誰であるのかを示す言葉が二つ含まれている。つまり、主イエスはキリストであり、神の子なのである。このキリストが神の子であるということが重要である。

 なぜ、主イエスがキリスト、つまり救い主でありうるのかと言えば、それは主イエスが神の子だからである。ただ、神が独り子を送ってくださり、その血が流されたことによってのみ、すべての人間の罪が贖われたのである。もしその人が神の子でなかったなら、その十字架に人間を罪から贖う力はない。その場合、イエスはキリストではありえない。マルコが一息に「イエスはキリストであり、キリストは神の子である」と言っていることには意味がある。主イエスがキリストであるということと、神の子であるということは、切り離すことができないのである。

 主イエスはヨハネから洗礼をお受けになった。罪のない主イエスは、本来悔い改めの洗礼を受ける必要はない。しかし、主イエスは罪人たちの列に加わってくださった。それは、主イエスが神の子でありながら罪人と同じ者にまで身を低くしてくださったということである。主イエスは人間の罪を担って十字架に着いてくださる。その罪を担うということを、主イエスはここから始めてくださっているのである。

 父なる神は「天を裂いて」、「あなたはわたしの愛する子」と語られる。神と人間との間にある断絶を神は裂いて介入してきてくださる。そして、独り子を遣わしてくださる。マルコが「福音の初め」と言っているように、救い主が表れてくださったということは、それ自体既に喜ばしい知らせである。人々は、ヨハネの洗礼を受けてメシアを迎える準備をした。わたしたちも、神の子イエス・キリストの福音を喜んで受け入れる者でありたい。

2020年1月19日
ヨブ記 42:1-6 使徒言行録 28:11-31             

「妨げられない福音」     伝道師 永瀨克彦

 使徒言行録の講解を始めたときに申し上げた通り、使徒行伝は聖霊行伝である。単に使徒の言動の記録なのではなく、使徒たちを、また教会を用いる聖霊の働きが使徒言行録を通して書かれている。そして、聖霊が働かれるからには、福音が広まることを妨げることはできない。使徒言行録28章を読むとそのことがよくわかる。

 パウロはローマで「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(31節)。全く自由に何の妨げもなくとはどういうことだろうか。パウロが捕らわれていることがまるで嘘であるかのようだ。パウロは確かに捕らえられている。しかし、それが伝道の助けになることこそあれど、妨げになることはないのである。ユダヤ人たちがどれだけ熱心にパウロを迫害しても、福音を止めることはできない。聖霊はそうした妨害に対し、全く自由に働かれるのである。

 使徒言行録は、パウロの最後を描いていない。それは、使徒言行録がパウロの伝記ではなく、聖霊による教会の働きを記した書物だからである。つまり、この物語はパウロが死んで終わったのではない。教会の働きは今日まで続いているのである。

 聖霊は全く自由に働き続けてくださっている。使徒言行録の時代と何も変わることはなく、今日の教会の上に働かれる。であるから、わたしたちの伝道もまた、たとえ困難にぶつかったとしても、それによって妨げられることはない。主イエス・キリストが宣べ伝えられることを、何ものも止めることはできないのである。

2020年1月12日
ダニエル書 6:19-29 使徒言行録 27:13-44                
「嵐の中の食事」     伝道師 永瀨克彦

 パウロたちが乗る船は、エウラキロンと呼ばれる暴風に襲われ、漂流してしまった。何日も嵐が続き、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。しかし、パウロは言う「あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち、だれ一人として命を失う者はないのです」。パウロは「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」という神の言葉を聞いた。だから、パウロは今、必ず神がローマまでの道を守られると信じ、心から安心している。

 十四日目の夜に、パウロはパンを裂いた。嵐が去ったからではない。なお激しい波に襲われている。彼らは嵐の中で、しかし、感謝して食事をするのである。

 わたしたちは、週の歩みを過ごし、すべてが順調で、心に余裕があるときにだけ教会に来て礼拝をするのではない。むしろ悩みを抱えることの方が多いかもしれない。しかし、そのような中で、わたしたちは日曜日に教会に集い、心を静めて礼拝をすることができる。嵐の中で、安心して命のパンをいただくことができる。聖餐にあずかり、御言葉を聴くことができるのである。

 パウロと同じように、わたしたちも、「あなたは主を力強く証ししなければならない」という御言葉を聴く。神がわたしたちを選び、用いようとされる。だから、わたしたちはどんな嵐に襲われようとも、波にのまれて沈んでしまうことは決してないのである。

 わたしたちは、上手くいっているときにしか喜べないのではない。どのようなときでもわたしたちを守り、役目を全うさせてくださる神に信頼し、安心していることができる。嵐の中で主を賛美することができるのである。

2020年1月5日
イザヤ書 42:6-7 使徒言行録 26:12-32                
「あなたを救い出し遣わす」     伝道師 永瀨克彦

 パウロは、アグリッパ王に自分の回心を語る。キリスト者を迫害しにダマスコへ向かう途中、天からの光に照らされ、主イエスと出会ったあの出来事である。パウロは回心を語るのであるが、それは同時に召命を語ることでもある。主イエスはパウロに「わたしがあなたに現れたのは・・・あなたを奉仕者、また証人にするためである」と語られた。主イエスは、パウロにご自身を示し、信仰を与えると同時に、奉仕者として召し出す。

 このように、回心と召命は切り離すことができない。神がわたしたちを求め、見つけ出し、信仰を与えてくださるのである。だから、回心は人間だけの喜びではない。神が喜んでくださる。信仰の喜びは、救われたという喜びであると同時に、神が用いようとしてくださり、それに応えることができるという喜びである。パウロを見ているとそのことが分かる。

 パウロは一見不幸になったようにさえ見える。ファリサイ派のエリートであった彼は、キリスト者となり、迫害を受ける者となった。そして、今も鎖でつながれながらアグリッパ王に弁明している。しかし、パウロは、「わたしのようになってくださることを神に祈ります」と語る。主イエスによって罪赦された喜びをあなたがたにも知ってほしいとパウロは言うのである。

 パウロが味わっている喜びは、まさに今縛り上げられている苦しみよりもはるかに大きい。神は私たちを切に求め、召してくださる。わたしたちはそれにお応えすることができる。苦難に勝る喜びがわたしたちには与えられているのである。

2019年12月29日
詩編 103:14-19 使徒言行録 23:12-35                
「すべてを支配される主」    伝道師 永瀨克彦

 ユダヤ人たちの一部は、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は四十人以上であった。千人隊長がパウロを最高法院に連れて行く道中を襲い殺す算段であった。この企てをパウロの姉妹の子が耳にし、パウロに知らせた。パウロは姉妹の子を通して千人隊長にこの陰謀を伝え、祭司長たちの言いなりになって最高法院に移送しないでほしい、道中を狙っているから、と頼んだ。

 パウロは今死ぬわけにはいかないのである。それは、ローマに行かなければならないからである。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない(23:11)」との言葉をパウロは受けている。エルサレムとローマでのパウロの活動は、三回に及ぶ伝道旅行に比べれば重要でないように思えるかもしれない。しかし、その数年間は、ただ捕らえられ裁判を受けただけの無駄な時間ではない。神が証しをさせるために、パウロをエルサレム、そしてローマに遣わしたのである。

 だから、パウロは今、単に命乞いをしているのではない。神の御心が行われるために嘆願しているのである。

 千人隊長はこれを受け、四百七十の兵をつけて、パウロをカイサリアへと護送することを決めた。それは、一つには、さっさと総督のもとにパウロを送ってしまい、暴動が起きた場合の責任を回避したいという理由からである。そして、もう一つは、ローマ市民であるパウロを保護したという手柄が欲しかったからである。

 このようにして、パウロは最も安全な仕方でローマへと移された。パウロを護送されたのは神である。ローマの軍隊さえ、そして、千人隊長の利己的な思いさえ、神は用いることがおできになる。神はすべてを支配される。あらゆるものを益と変え、御心を実現してくださる。わたしたちはそれを待つことができるのである。

2019年12月22日
イザヤ書 60:6-12 ヨハネ福音書 1:1-14   
「神の身分でありながら」    伝道師 永瀨克彦

 ヨハネによる福音書の冒頭の部分は、もしかすると、何やら抽象的で観念的なもののように思われるかもしれない。わたしたちと関係のない、天の上の話だと思われるかもしれない。しかし、そうではない。主イエスが来てくださったことによって、わたしたちに変化がもたらされたという、極めて現実的なことがここには書かれている。主イエスは、わたしたちが住む現実の中に生まれて来てくださったのである。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」とある。主イエスを信じるということ、神の子となるということ、それは、新しく生まれるということなのである。言が来てくださるということによって、わたしたちの現実に変化が起きている。

 「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」。そして、「わたしたちはその栄光を見た」。主イエスは神の子でありながら、わたしたちの間に来てくださった。そして、今も闇の中で輝いていてくださる(5節)。言を受け入れた人を通して、わたしたちは主の栄光を見るのである。

 あなたの罪は赦されたという福音を、わたしたちは聴く。この福音は、自分とは関係のない天上の話なのではない。主イエスは来てくださり、わたしたちの内に住まわせてほしいと言ってくださるのである。わたしたちがこの福音を自分の福音として聴いて喜ぶとき、わたしたちの内に主の光が輝く。その光は今も輝いており、世を照らす光なのである。

2019年12月15日

イザヤ書 40:1-11 ヨハネ福音書 1:19-28

                「待ち続けた主を迎える」    伝道師 永瀨克彦

 洗礼者ヨハネは、自分のことを「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と言った。救い主を受け入れなかった世界はまさに荒れ野である。暗闇は光を理解しなかった、とヨハネによる福音書1:5に書かれている通りである。ヨハネは荒れ野で叫び、世が光を受け入れるように訴えている。

1:15によれば、ヨハネは、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と言った。先におられたというのは、初めからおられたという意味である。初めに言があった。そして万物は言によって成ったのである。つまり、後から来られる方、主イエスは神であるとヨハネは言っているのである。

まことの神がこの世に来てくださった。神の子イエス・キリストがわたしたちの罪を担い代わりに死んでくださり、復活してくださった。これこそがわたしたちの福音である。もし、このイエスという人が神でなかったならば、その十字架がどうして、わたしたちにとって福音でありうるだろうか。すべての人間の罪を償うために、どうして一人の人間の血が流されるだけで事足りるだろうか。ただ、イエスという立派な人間が、良い教訓を教え広め、そして、死んだ、これではわたしたちにとって何の福音にもならないのである。

わたしたち、すべての人間の罪は、神の独り子の血をもってしか償い得なかった。神はそのために独り子を差し出してくださった。これが神の愛なのである。

2019年12月8日

詩編 16:10-11 使徒言行録 22:22-23:11

                「復活を望みとし」    伝道師 永瀨克彦

 パウロは「わたしは生まれながらのファリサイ派です」と語る。パウロはファリサイ派のユダヤ人であり、キリスト者である。それは矛盾することではなく、むしろ一直線につながっているものである。ファリサイ派は復活を信じ、待ち望んでいた。その彼らが待ち望んだものの成就が主イエスの復活であり、また、それによって約束されるわたしたちの復活なのである。

 であるから、ファリサイ派であるなら、いや、ファリサイ派であるからこそ、本来は主イエスの復活を真っ先に信じ、喜ぶべきなのである。パウロは同じファリサイ派として、主イエスの復活による希望を伝えようとする。

 パウロがローマ市民であることが明かされる場面は、逆転である。市民権を金で買った千人隊長より、縛り上げられていたパウロの方がかえって優れた者であったのである。聖書に記されている最も鮮やかな逆転は、主イエスの十字と復活によって死が打ち滅ぼされたことである。病、争い、災害、そして、それらが行きつく死は、人間を支配し続ける最も強力な力に見えた。しかし、主イエスはその死に勝利してくださった。

 わたしたちは恐怖から解放された。それは、何を経験しようとも最後には死に引き渡されて神から見放されて終わるのだ、という恐怖である。わたしたちは、終わりの日に復活にあずかり、神との永遠の交わりに生きることができる。その約束が確かであることは、主イエスの復活によって示されている。

 だから、復活こそがわたしたちにとって最大の希望である。主を待ち望むアドヴェントを過ごすこのとき、わたしたちは、終わりの日に再び来てくださる主イエスを待ち望む者でありたい。

2019年12月1日

詩 編 32:8-11 使徒言行録 22:1-21

                「主に従う幸い」    伝道師 永瀨克彦

 パウロは、自らを拘束し暴行を加え、殺そうとまでしたユダヤ人たちに対し、階段の上から弁明をする。それは、自分の罪を軽くするための方便などではない。パウロは兄弟に主イエスを伝えようとしているのである。

 パウロは「兄弟であり父である皆さん」と言って語り始める。パウロ自身ユダヤ人なのである。パウロは自らを「ユダヤ人だった」とは言わない。「わたしはキリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です」と言うのである。

 パウロは他の神を信じるようになったわけでは決してない。イスラエルの神が主イエスをお与えくださったのであって、パウロは今もイスラエルの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じている。それは当然のことである。

 だから、パウロはユダヤ人であり、キリスト者である。パウロは同じユダヤ人として、兄弟に、神の御心を知ってほしいと訴えているのである。

 パウロは自分の回心について話す。ここでは光が強調されている。それは、真昼であったにも関わらず、太陽の光を凌ぐ強い光であった。そして、同行していた人も光を目撃した。それらは9章では触れられていなかったことである。パウロは主イエスによって罪から贖われた。まさに、闇から光へと立ち返らされたのである。この回心の証しは、光に照らされた喜びに満ちている。パウロはこの喜びに、兄弟である皆さんもあずかってほしいと願っているのである。

 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ福音書1:9)。主イエスによって照らされた喜びを、わたしたちもまた、いただいている。

2019年11月17日
 出エジプト記 20:20 使徒言行録 21:17-26

                「主に仕えるためにある伝統」    伝道師 永瀨克彦

 ここには、改革者であると同時に、誰よりも伝統に忠実なパウロの姿がある。それは矛盾することではない。改革するということは、伝統の正しい意味を取り戻すということでもあるのである。

 ある人々は、パウロが「割礼を施すなと言って、モーセから離れるように教えている」と批判した。しかし、これは濡れ衣である。パウロは割礼を施す必要はないと言ったのであって施してはならないとは言っていない。人は信仰によって義とされる。アブラハムもまた、その信仰によって義と認められ、そのしるしとして割礼を受けたのである。つまり、割礼によってではなく、信仰によって義とされると信じるパウロの方こそ、実は律法に忠実な者なのである。だから、パウロは決してモーセから離れてはいない。

 パウロは清めの儀式を受けてほしいと頼むヤコブの要求を甘んじて受ける。それは、パウロが律法に従う者であることを示すためである。

 このように、改革者たちは実は伝統に忠実である。宗教改革もまた、新しい教えを造り出したというようなものでは決してない。ルターが訴えたのは「聖書のみ」であり、「信仰義認」である。思い出し立ち返ることこそ改革である。

 わたしたちには立ち返るべき確かなものが与えられている。教会と同じように、わたしたちも御言葉に立ち返ることによって日々新たにしていただけるのである。

2019年11月10日

箴 言 1:1-7 使徒言行録 21:1-16

「御心が行われますように」    伝道師 永瀨克彦

 仲間たちは、エルサレムに上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。しかし、パウロは「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られるばかりか、死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と答えた。これを聞いた仲間たちは、「主の御心が行われますように」と言って口をつぐんだ。

 この言葉は、主イエスのゲツセマネの祈りを思い出させるものである。主イエスは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と祈られた。祈り終えた後、主イエスは十字架への道を歩まれた。これは祈りが聞かれなかったということだろうか。そうではない。父なる神は、御心を行うということをもって祈りにお応えになる。

 「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ11:9)と主イエスは言われる。それは、何でも願う物を神が与えてくださるという意味ではない。そうではなく、神がわたしたちのために与えようとしてくださるものを、わたしたちは求めるのである。神はわたしたちに本当に必要なものを用意してくださるからである。

 パウロは、今、エルサレムに行くことが御心であると確信している。だからこそ、そこで待ち受ける苦難もまた、無意味なことではないとパウロは確信するのである。

 わたしたちが祈りを通して与えられる恵みは、苦しみに遭わなくて済むようになることではない。この苦しみさえも神には用いることがおできになるのだと信じられることである。そして、実際に神は苦難をも栄光に変えてくださる。神は十字架さえ、命を与える道具として用いてくださったのである。

2019年11月3日

イザヤ書 35:5-10 使徒言行録 20:17-38

「決められた道を走りとおし」   伝道師 永瀨克彦

 パウロはミレトスで、エフェソの長老たちに説教をする。パウロは、彼らに会うのはこれが最後だと分かっている。いわば、これは告別説教である。

 最後にパウロが伝えたかったこと、それはパウロの姿そのものである。パウロはこれからエルサレムに行き、そこで捕らえられる。しかし、パウロは恐れない。それは、パウロが神から決められた道を走っていると確信しているからである。主イエスを伝えるためであるならば、パウロは喜んでエルサレムに行く。主の道を歩む自らの姿をパウロは見てほしいと思ったのである。そして、パウロは、自分に倣うように彼らに勧める。

 「わたしに倣いなさい」というのは傲慢なように見えるかもしれないがそうではない。パウロは、わたしの真似をして、そのことによって主イエスに仕えなさいということを言っているのである。

 信仰者の姿は、信仰を伝えるための大きな力である。わたしたちは今日、永眠者記念礼拝を捧げている。生前、お父様やお母様から、直接言葉で信仰について説き明かされた経験はもしかすると多くはないかもしれない。しかし、わたしたちはやはり、その姿、信仰を持って生きる姿勢を通して伝道を受けていたのである。

 わたしたちは、先達たちが守られた信仰を受け継ぐものでありたい。そして、先達たちから受けたように、自らの姿を通して主イエスを指し示し、信仰を伝える者となりたい。

2019年10月27日

列王記上 17:17-24 使徒言行録 20:1-12

「大いなる慰め」   伝道師 永瀨克彦

 この世のただ中にあって主イエスを伝えていく教会の歩みは戦いでもある。教会は励ましと慰めを必要としている。そして、それらは確かに与えられる。

 パウロは三年間滞在したエフェソを発つに際して、弟子たちを集め、励ました。そして、ギリシアに行く途中も、マケドニアで言葉を尽くして人々を励ました。

 パウロもまた、励ましを受ける者である。コリントの信徒への手紙二に書かれているが、パウロはギリシアに向かう途中、コリントから戻ってきたテトスを通して、コリント教会が悔い改めたという知らせを聞いたのである。コリント教会はエルサレム教会からの推薦状を片手に乗り込んできたユダヤ人キリスト者によって混乱に陥っていた。推薦状を持たないパウロは異端であると言うのである。そしてついにパウロの来訪を拒むようになった。エフェソにいる間パウロはこのことで悩んでいた。しかし、今、その心配が無くなったという知らせをパウロは聞く。コリント教会は主イエスのもとに立ち返った。パウロは大いに慰められた。

 トロアスで、パウロはエウティコを生き返らせる。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。わたしたちにとって復活は慰めである。エウティコの復活は、主イエスが死に勝利されたという事実をわたしたちに思い出させる。死ほどわたしたちを恐れさせ、動揺させ、神から離れさせようとする大きな力はない。しかし、それさえも、もはや恐れる必要はない。つまり、死に勝利された復活の主を信じるならば、わたしたちは死だけでなく、すべてのものを恐れる必要はないのである。わたしたちはこの大いなる慰めをいただいている。だからこそ、伝道へと出て行くことができるのである。